アタシが決める
孫二娘が、朝からアタシの娘の頭へ布を巻いていた。
「……何してるの?」
「冠の代わりだよォ……アンタが王妃になったら、この子も姫だろォ?」
「まだならない!」
「じゃあアタイは女将軍だねェ……」
「勝手に決めないで!」
孫二娘は笑っていたが、ふいにアタシを見る。
「王妃になるの、嫌なのかい?」
「分からない」
「李俊が嫌?」
「それは違う」
「じゃあ、王妃って呼ばれるのが嫌なんだねェ……」
痛いところを突く。
「嫌なら断ればいいよォ。アンタ得意だろォ?」
「嫌な男ならね。ぶっちゃけ、ありえないって言ったこともあるし」
孫二娘の目が輝いた。
「詳しく聞かせなァ……」
「しまった!」
「王妃になる前に聞かせなァ!」
「まだならないって言ってるでしょ!」
本編が始まる前から、もう逃げ道がなかった。
「嫌です」
考えるより先に、口から出た。
国母が、ほんの少しだけ目を見開く。廊下の向こうで控えていた侍女まで息を呑んだのが分かった。
「李俊が嫌って意味じゃないから!」
慌てて付け足すと、国母は静かに頷いた。
「承知しております」
「王妃って言葉が嫌なの。重いし、面倒そうだし、自由がなくなりそうだし……」
自分でも子どもみたいな断り方だと思う。
でも、嫌なものは嫌だ。
王宮の奥へ押し込められ、綺麗な衣を着せられて、黙って笑っていろと言われるくらいなら、舟の甲板で潮風に吹かれていた方がずっといい。
国母はすぐに説得しようとはしなかった。
「では、今夜お考えください」
「今夜だけ?」
「三日後には共濤の裁きがございます。その前に、今夜のうちに罪状をまとめ、明朝には民へ告示いたします。李俊殿が王印を預かるお立場で裁きを取り仕切られる以上、その隣にどなたが立つのか、民は必ず見ます」
やっぱり逃がす気がない。
「ただし、無理にお立ちなさいとは申しません」
国母は、部屋の中で眠る娘へ目を向けた。
「誰かに決められた場所ではなく、ご自身で選ばれた場所にお立ちください」
その言葉だけ残し、国母は侍女を連れて去っていった。
アタシはしばらく廊下に立っていた。 扉を開けて戻ると、孫二娘と玉楼が並んで座っている。
二人とも起きていた。
嫌な予感しかしない。
「王妃だってねェ……」
「聞いてたの?」
「廊下で話してたからねェ……」
孫二娘が娘を抱いたまま、にやにやしながら身体を寄せてくる。
「李俊が王で、アンタが王妃なら、アタイは何になるんだい?」
「どうしてアンタの役職まで一緒に決めるのよ!」
「女将軍がいいねェ……」
「勝手に就任しないで!」
「じゃあ王宮の料理番でもいいよォ……」
「絶対に厨房を根城にするでしょ!」
避難してきた女たちが何人か目を覚まし、こちらを見た。
恥ずかしい。
アタシが声を落とすと、孫二娘も笑いを収め、娘の背を撫でた。
「断るのかい?」
「分からない」
「李俊の隣が嫌なのかい?」
「それは違う」
答えだけは、すぐに出た。
李俊の隣にいることは、もう迷っていない。
一緒に海を渡り、この国まで来て、娘までいる。
今さら嫌だと言うなら、もっと前に舟を降りている。
嫌なのは、王妃という肩書きをつけられた瞬間に、アタシがアタシじゃなくなる気がすることだ。
「三娘様」
玉楼が口を開いた。
「お断りになるのであれば、私は止めません」
「うん」
「お受けになるのであれば、それも止めません」
「どっちなの?」
「三娘様がお決めになることでございます」
まったく助けてくれない。
でも、たぶん、それが一番正しい。
孫二娘が横から口を挟む。
「アタイなら受けるよォ……」
「聞いてない」
「王妃になれば、真ん中を歩けるだろォ……」
「それが理由なの?」
「毎日だよォ……」
この女に王印を持たせなくて、本当に良かった……
孫二娘はひとしきり笑ったあと、急にアタシの顔を覗き込んだ。
「嫌なら、嫌って言えばいいよォ……」
「……え?」
「李俊の隣が嫌じゃないなら、王妃って呼ばれるのが嫌なんだろォ?」
返事に詰まると、玉楼が静かに続けた。
「三娘様は、以前にもはっきりとお断りになっております」
「以前?」
「あの方との婚姻を勧められた折でございます」
玉楼の視線が、まっすぐアタシへ向く。
「ぶっちゃけ、ありえない、と」
王英の顔が浮かんだ。
あの男の妻になれと言われた時、アタシは最初から拒んだ。
ぶっちゃけ、ありえない――今でも答えは変わらない。
「そんなこと言ったのかい?」
孫二娘が目を丸くする。
「言ったわよ」
「アタイも聞きたかったねェ……」
「見世物じゃないから!」
アタシは王英の妻だったことなんて、一日もない。
受け入れたことも、諦めて従ったこともなかった。
ただ、拒んだだけでは梁山泊の中に居場所はできなかった。
そこからアタシを拾ってくれたのが、林冲だった。
誰かの妻にならなかった女としてではなく、武器を持って戦える一人の兵として扱ってくれた。
命令は厳しかったし、鍛錬も容赦がなかった。
戦場では何度も死ぬかと思った。
それでも林冲の麾下にいる間、アタシの居場所を誰かの妻という立場に決められることはなかった。
自分の足で立ち、自分の武器を持って、生き残る。
その道を歩けるようにしてくれた。
六和寺で別れた時も、林冲は引き止めなかった。
行く者を、ただ見送ってくれた。
林冲が拾ってくれなければ、玉楼とここまで歩いてくることも、孫二娘や李俊に出会うことも、この娘を抱くこともなかったかもしれない。
「林冲なら、何て言うかな?」
思わず口にすると、玉楼がこちらを見た。
「三娘様がお決めになったのであれば、何も仰らないと思います」
「何も?」
「はい、おそらく見送られるだけでございます」
林冲らしい。
教えて、守って、最後には自分で行けと言う。
なら、ここから先まで林冲に答えを求めるのは違う。
「李俊と話してくる」
立ち上がると、孫二娘も当然のようについてこようとした。
「アンタは残って」
「どうしてだい?」
「アタシと李俊の話に入ってこないで!」
「まだ王と王妃の話だよォ……」
「もっと入ってこないで!」
玉楼が孫二娘の肩をつかんだ。
「こちらは私が押さえておきます」
「頼んだわ」
「王妃になったら、アタイの役目も聞いてきなァ……!」
扉を閉めても声が追いかけてきた。
李俊は王宮の南にある小さな部屋で、帳面の山に埋もれていた。
王の寝所は使わないと言い張り、結局、文官が使っていた部屋へ勝手に入り込んだらしい。
卓上には、焼けた家の数、残った米の量、動かせる兵の人数が書かれた紙が広がっている。
王になる気がない男の机じゃない。
「何だ?」
李俊が顔を上げた。
「国母に言われた」
「何を?」
「アンタが王になるなら、アタシは王妃になるのかって」
李俊の眉が動く。
「断れ」
早い――
「アンタ、少しは考えなさいよ!」
「嫌なら断れ」
「嫌かどうかを考えに来たの!」
李俊は筆を置いた。
「俺は、王妃になれとは言わない」
「うん」
「王宮に閉じ込める気もない。戦うなとも言わない」
「うん」
「娘を置いて、俺だけ王座に座る気もない」
そこで一度、娘のいる方角へ目を向ける。
「俺がどこへ行くにしても、お前たちは連れていく」
胸が熱くなる。
こういうことを、もっと雰囲気のある場所で言えないの?
焦げた帳面と米の残量に囲まれて言う台詞じゃないでしょ。
でも、李俊だから仕方ない。
「王妃って呼ばれても、今までと変わらない?」
「変える必要があるのか?」
「王宮の飾りみたいにされるかもしれない」
「嫌なら壊せ」
「何を?」
「王宮を」
簡単に言わないでほしい。
今日、あれだけ燃えたばかりなのに。
「お前の立つ場所は、お前が決めろ」
李俊の目が、まっすぐアタシを見る。
「俺の隣に立つなら来い。嫌なら離れろ。どちらでも、お前に命じる気はない」
林冲と同じだ。
答えをくれるのではなく、選ぶ権利を返してくる。
王英の時は、選ぶ権利なんて認められていなかった。
だから拒んだ。
林冲は、拒んだアタシを拾ってくれた。
李俊は、その先まで歩いてきたアタシに、どこへ立つかを自分で決めろと言っている。
なら、もう答えは出ていた。
「アンタが王になるなら、アタシは隣に立つ」
李俊は黙っている。
「ただし、黙って座ってる王妃にはならない。兵も率いる。外にも出る。言いたいことは言う。アンタが間違えたら、止める」
「今までと同じだな」
「そうよ」
「なら、好きにしろ」
もう少し喜んでもよくない?
でも、口元がほんの少しだけ緩んだのを、アタシは見逃さなかった。
国母のもとへ戻ると、夜はだいぶ深くなっていた。
それでも国母は起きていた。
最初から、アタシが戻ると分かっていたみたいに。
「決めたわ」
「お聞かせください」
「李俊が王になるなら、アタシはその隣に立つ」
国母が頭を下げる。
「王妃として、でございましょうか?」
一瞬だけ、息が止まった。
王英を拒んだ時とは違う。
誰かに押しつけられているわけじゃない。
林冲が拾ってくれた人生を、ここからどう生きるかは、アタシが決める。
「そうよ」
はっきり答えた。
「ただし、飾りにはならないわ」
「もちろんでございます」
国母が手を打った。
廊下の扉が一斉に開き、何人もの侍女が鮮やかな衣や冠を抱えて入ってくる。
用意が良すぎる……
「ちょっと待って……最初から準備してたの?」
「ご決断を信じておりました」
「それ、逃がす気がなかったって言わない?」
侍女たちは答えず、アタシを囲んだ。
袖を測られ、肩幅を確かめられ、髪をほどかれる。
完全に包囲されている。
戦場より逃げ道がない。
その時、国母が一枚の紙を差し出した。
「三日後の裁きに先立ち、明朝、共濤の罪状を民へ告示いたします」
「李俊の隣に立てばいいのね?」
「それだけではございません」
国母の指が、紙の最後の一行を示した。
「罪状は、王妃陛下からお読み上げいただきます」
「アタシが?」
「はい」
王妃になると答えてから、まだ半刻も経っていない。
それなのに、最初の仕事はもう決まっていた。
しかも、何千人もの民の前で、共濤の罪を読むらしい。
侍女が赤い衣をアタシの肩へかけた。
鏡の中に、見慣れない女が立っている。
その背後で、王宮の鐘が鳴った。
夜明けまで、もう時間がなかった。
孫二娘殿は、たいへん忙しそうでございました。
「玉楼、王妃の隣には誰が立つんだい?」
「必要に応じて、私どもが控えます」
「アタイも?」
「はい」
「やっぱり女将軍だねェ……」
「まだ決まっておりません」
すでに決定事項のようです。
「林冲に見せたかったねェ……三娘が王妃になるところをさァ」
「静かに見送られると思います」
「また見送るのかい?」
「はい」
孫二娘殿は少し黙りましたが、長くは続きません。
「それで、アタイの衣は?」
「何の衣でございますか?」
「女将軍のだよォ……」
「まだ決まっておりません」
「玉楼も綺麗な衣を着なァ。童威が見てるかもしれないよォ」
「それが何か?」
孫二娘殿が深く息を吐きました。
「三娘は王妃になったのに、玉楼はまだそこからかい……」
「何がでございますか?」
「王妃の次は、玉楼の番だねェ……」
「何の番でございますか?」
「知らないよォ……」




