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王印を預かる男

孫二娘が、朝から妙に偉そうだった。

娘を抱いたまま胸を張る。

「アタイが李俊を王にしたんだよォ……」

「してないでしょ」

「王印を持とうとしたら、すぐにつかんだじゃないかァ」

「あれはアンタに持たせたくなかっただけよ!」

「理由は何でもいいんだよォ……」

よくない……

「今日の本編では返すかもしれないわよ」

「アタイがまた持とうかねェ……」

「やめなさい!」

一度成功したからって、何度も使っていい方法じゃない。

「今日は王宮で仕事があるんだから」

「アタイにも?」

「あると思うわよ。都には困ってる女や子どもも大勢いるでしょ」

孫二娘の笑みが消えた。

「……見ることになるかもしれないねェ」

こういう切り替えは早い。

「頼りにしてるわよ」

「本編で?」

「そこから離れなさい!」

孫二娘はまた笑った。

「それで、今日もアタイが真ん中かい?」

「もう四話分は終わったでしょ!」

「王を作った分が残ってるよォ……」

新しい権利が増えていた。

主人公はアタシなのに、まだ中央へ戻れそうにない……

李俊が王印をつかんだ瞬間、王宮の外で歓声が上がった。

「李俊王!」

広場を埋めた声が、柱と天井を震わせる。

李俊は黒い王印を握ったまま、孫二娘を見た。

「お前には渡さない」

「受け取ったねェ……」

「違う」

「手に持ってるだろォ……」

「お前が持とうとしたからだ」

「理由まで民には聞こえないよォ……」

最悪の正論だった。

外から見れば、国母が差し出した王印を李俊が受け取った。

それだけだ。

誰も、孫二娘に持たせたくなかったから反射的につかんだ、なんて知らない。

というか、知ったところで納得するの?

国母は王印から手を離し、ゆっくり頭を下げた。

臣下たちも続く。

卜青まで膝をついた。

「新王に、忠誠を」

「待て」

李俊の声が飛んだ。

広間の中は静まったけど、外の歓声までは止まらない。

「王になるとは言っていない」

「ですが、王印はお受け取りになりました」

国母の返しが早い。

「預かっただけだ」

「では、そのように」

「都が落ち着くまでだ」

「承知いたしました」

国母は素直に頷いた。

でも、先ほどと同じだ。

絶対に引いてない。

王になる男ではなく、王印を預かった男という名前に変えただけで、李俊を王宮から逃がさないつもりだ。

「共濤を裁く。都の火を消し、倉を調べ、兵を戻す。そこまで終われば返す」

「お返しになる相手が見つかりましたら」

「……お前、分かって言ってるだろ?」

「何のことでございましょう」

国母の顔は穏やかだった。

李俊が舟の上で鍛えた逃げ道を、この人は陸の上で一つずつ塞いでいる。

それ、仮の王って言うんじゃないの?

孫二娘がアタシの袖を引いた。

「王になったねェ……」

「まだ預かってるだけだって」

「王印を預かって、王宮で命令して、民に王って呼ばれてる男を、何て呼ぶんだい?」

返事に困る質問をしないでほしい。

李俊は王印を細長い箱へ戻した。

「童猛」

「おう」

「これを倉へ入れろ。見張りを置け」

国母が口を挟む。

「王印は、王の寝所に置くものでございます」

「俺はそこで寝ない」

「では、今夜までに寝所を整えさせましょう」

「そういう話じゃない」

童猛が箱を抱えたまま、どちらを見ればいいか分からない顔をしている。

水の上なら迷わない男が、王印一つで完全に立ち往生していた。

結局、箱は広間の奥にある小部屋へ運ばれ、李俊と国母、双方の兵が一人ずつ見張ることになった。

折衷案に見える。

でも、王印は王宮から出なかった。

国母の勝ちだと思う。

ところが、勝ったのはそれだけではなかった。

倉を開ける文書が運ばれてくる。

「王印が必要でございます」

文官が差し出した紙を、李俊は嫌そうに見た。

「さっきは口頭で開けた」

「先ほどまでは戦後の混乱の最中でした。これからは、誰が命じたかを残さねばなりません」

正しい。

ものすごく正しい。

李俊は黙って王印を取り出し、紙へ押した。

赤い印がついた瞬間、孫二娘が小声で囁く。

「最初の王命だねェ……」

「民を救うための命令だ」

「王印を押した救済の命令だよォ……」

李俊が孫二娘を見た。

けれど、印を押した事実までは消せない。

その文書を持って文官が走り去る。

王になる気はない男の名で、王宮の倉が開いた。

話が終わると、臣下や兵が一斉に動き始めた。

共濤の裁きは三日後。

それまでに、王を殺したこと、都を奪ったこと、民家と離宮へ火を放ったこと、捕らえた者を人質に使ったことを調べ、証人を集める。

李俊は私刑を禁じた。

「石を投げさせるな。罪を読み、刑を決め、そこで終わらせろ」

国母も異を唱えなかった。

共濤には生きたまま、自分のしたことを聞かせる。

それが終わってから、刑を執行するらしい。

死にたがっていた男には、いちばん嫌な三日間になる。

「扈三娘殿」

国母に呼ばれ、アタシは娘を抱き直した。

「何?」

「お願いしたいことがございます」

やっと主人公へ仕事が来た。

そう思ったのに、案内された先は武器庫でも兵舎でもなかった。

王宮の西にある広い建物。

中には、都から逃げてきた女と子どもたちが集められていた。

敷物の上に座り込み、配られた水にも手をつけず、扉が開くたびに肩を震わせる。

負傷者もいる。

家族を捜している者もいる。

国母がアタシたち三人を見た。

「こちらを、お任せいたします」

「アタシたちに?」

「男の兵が入るだけで怯える者もおります。皆様ならば、話せることもございましょう」

戦う方が分かりやすい。

敵を見つけて、前へ進み、倒す。

でも、ここにいる人たちの敵は、もう目の前にはいない。

それでも身体が、まだ逃げ続けている。

「分かったわ」

答えると、孫二娘が横から覗き込んだ。

「アタイにも役目があるのかい?」

「もちろんでございます」

「本編で?」

「本編が何かは存じませんが、お願いいたします」

孫二娘が嬉しそうに頷いた。

喜ぶところ、そこなの?

玉楼はすでに部屋の奥を見ていた。

「水が足りません。敷物も、もう少し必要でございます」

「倉から出していい?」

アタシが国母へ尋ねる。

「必要なものは、すべてお使いください」

「じゃあ遠慮しないわよ」

「そのための倉でございます」

国母が去ると、アタシたちは動き始めた。

玉楼は兵を呼び、桶と敷物を運ばせる。

重い長椅子を一人で持ち上げ、入口の脇へ寄せたところで、部屋の女たちが一斉に見た。

怖がったのかと思ったけど、違う。

驚いているだけだ。

まあ、初めて見たら驚くわよね。

孫二娘は、泣いている子ではなく、壁際で黙っている少年の前へしゃがんだ。

「腹は減ってるかい?」

少年は答えない。

「母ちゃんは?」

視線だけが、部屋の端へ動いた。

そこには肩を負傷した女が横たわっている。

孫二娘はそれ以上聞かず、粥を二つ持ってこさせた。

「泣いてる子より、黙ってる子を先に見た方がいい時もあるんだよォ……」

「どうして?」

「我慢してる子は、倒れるまで言わないからねェ……」

知識だけじゃない。

十字坡で、人の顔と声を見続けてきた女の言葉だった。

アタシは部屋の中央へ立ち、声を上げた。

「家族を捜している人は、名前と住んでいた場所を伝えて。動ける人は、怪我人の隣について。子どもだけでいるなら、絶対に一人にしないで」

返事は少ない。

それでも、一人の女が手を上げた。

南の市場で夫とはぐれたという。

次に、娘を捜す老人が声を出した。

少しずつ、部屋の中に言葉が戻ってくる。

名前を書き留める者が必要になり、王宮の文官を呼んだ。

男が入ってくると怯える者がいたので、入口へ座らせ、聞き取った内容だけを紙へ写させる。

日が暮れる頃には、行方の分からない者の名が何十人分も集まった。

李俊が町へ出した兵へ、その紙を持たせる。

戻ってきた者の中には、家族を連れている者もいた。

抱き合って泣く姿を見るたび、部屋の空気が少しずつ変わっていく。

助かったという顔をしていいのだと、周りも思い始めるみたいだった。

「三娘様」

玉楼が呼んだ。

入口に童威が立っている。

「北の広場で、身元の分からない子を七人預かった」

「連れてきて」

童威の後ろから、泥だらけの子どもたちが入ってくる。

玉楼は一番小さな女の子へ手を伸ばした。

子どもは方天画戟を見て、固まった。

玉楼が得物を童威へ預ける。

「こちらであれば、よろしいでしょうか?」

女の子はしばらく迷い、玉楼の指を握った。

童威は方天画戟を持ったまま、玉楼を見た。

「重いな」

「さようでございますか?」

「お前は、いつもこれを振っているのか?」

「はい」

「そうか」

また、それだけ……

孫二娘が横で首を振った。

「進まないねェ……」

「何が?」

「知らないよォ……」

夜になり、ようやく部屋が静かになった。

泣き疲れた子どもたちが眠り、女たちも壁へ背を預けて目を閉じる。

アタシの娘と孫二娘の娘も、並べた籠の中で眠っていた。

戦場とは違う。

何人倒したかでは、何も測れない。

でも、この部屋を朝まで守ることも、たぶん戦いなんだと思う。

「扈三娘殿」

振り向くと、国母が立っていた。

「少し、お話がございます」

また李俊の王位のことだと思った。

アタシは眠った娘へ布団をかけ、廊下へ出る。

国母は王宮の奥へ目を向けた。

「李俊殿は、王印を預かるだけと申されました」

「そうね」

「ですが、国を治める者には、王印だけでは足りません」

嫌な予感がした。

「兵も役人も必要でしょ。そこは李俊たちで決めればいいんじゃない?」

「それも必要でございます」

国母がアタシを見る。

視線が、アタシの顔から、部屋の中で眠る娘へ移った。

「王宮には、王の家族が暮らす場所もございます」

「……それ、アタシに関係ある話?」

「大いにございます」

逃げたい……

でも、廊下の先には国母の侍女が立ち、後ろの部屋には娘と孫二娘と玉楼がいる。

どちらへ行っても、たぶん捕まる。

国母は少しも笑わなかった。

「李俊殿が王となられた時、扈三娘殿は、何者としてその隣に立たれるおつもりですか?」

「何者って……」

「仲間としてでしょうか?」

国母が一歩近づいた。

「それとも――王の妃として、でございますか?」

孫二娘殿は、たいへん満足そうでございました。

「玉楼、これがアタイが作った王の最初の命令だよォ……」

「李俊殿が民を救うために出された命令でございます」

「でも王印を持たせたのはアタイだよォ……」

持とうとなさっただけですが、反論しづらいところが厄介です。

「避難された方々はいかがでしたか?」

孫二娘殿の笑みが少し消えました。

「黙ってた子が粥を食べたよォ。母親も食べて、二人とも眠った」

「何よりでございます」

「戦より難しいねェ……斬れば終わる相手じゃないからねェ」

その通りだと思います。

「でも本編にはちゃんと出たよォ……」

やはり、そこへ戻りました。

「ところで玉楼、童威とまた何も進まなかったねェ」

「何がでございますか?」

「方天画戟を持たせて、『重いな』『そうか』で終わったんだろォ?」

「終わりでございます」

孫二娘殿が深く息を吐きました。

「アタイが王を一人作ってる間に、玉楼は何してるんだい……」

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