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王ではない男

孫二娘が、朝から落ち着かなかった。

娘を抱いたまま立ち上がり、座ったと思ったら、また立つ。

「何してるの?」

「復帰の準備だよォ……」

「何の?」

「本編に決まってるだろォ!」

声が大きい……

娘が顔をしかめ、慌てて背中を撫でる。

「ごめんよォ……母ちゃん、やっと戻れるからねェ……」

「まだ王宮へ呼ばれただけよ」

「名前だけじゃないねェ……?」

「姿も出るわよ」

孫二娘の目が輝いた。

「四話だよォ……四話も壁を見たんだよォ……」

「分かったから!」

孫二娘は衣の裾を整えた。

「真ん中を歩くからねェ……」

「どうして?」

「四話分だよォ……」

「意味が分からない!」

「今日はアタイの復帰回だよォ……」

「アタシが主人公なんだけど!」

孫二娘は娘を持ち上げて笑った。

「見てなァ……母ちゃん、今日は名前だけじゃないよォ……」

四話続いた留守番が、ようやく終わる。

本人には、都奪還より大きな勝利らしい。

「断る」

李俊の返事は早かった。

国母が顔を上げるより先に、燃え残った竹の葉が地面へ落ちた。

「俺は王になるために、ここへ来たんじゃない」

「存じております」

「なら、話は終わりだ」

李俊は背を向け、消火に走る兵たちを見た。

国母は引き止めなかった。

怒りもしない。

困った顔さえ見せず、ただ李俊の横顔を見つめている。

「沈む舟を岸へ寄せただけだ」

「その舟から、王も跡継ぎも失われました」

李俊の足が止まった。

共濤に殺された先王には、王位を継ぐ男子がいない。

王族の多くも、共濤が都を奪った時に殺され、生き残った者がいたとしても、国をまとめられる立場じゃないらしい。

それでも、李俊は振り向かなかった。

「俺には関係ない」

「今は、そういうことにいたしましょう」

国母が静かに答えた。

「ですが、都を救った方々を、いつまでも焼けた離宮へ立たせておくわけにはまいりません。火が収まりましたら、王宮へお越しください」

「客人としてなら行く」

「承知いたしました」

素直に引いた。

いや、絶対に引いてない。

言葉の上だけで一歩下がり、逃げ道を狭くした顔だ。

この国の女、強い人が多くない?

それからも、李俊は休まなかった。

離宮の火が消えれば町へ戻り、焼け落ちた家の数を調べ、負傷者を運ぶ場所を決めた。

王宮の倉を開けさせ、米と布を民へ配るよう命じる。

共濤の兵だった者たちにも、水を運ばせた。

従わない者は縛る。

従う者には、罪の軽重を後で調べると言い渡した。

勝った側が興奮したまま敵を斬り始めれば、都はもう一度燃える。

それを防ぐため、李俊は卜青と上青を別々の場所へ向かわせた。

名前は似ているけど、役目は混ざっていない。

卜青は都の兵をまとめ、上青は王宮と倉を押さえる。

今さらだけど、最初に聞いた時は同じ人だと思った。

昼近くになり、ようやく入り江へ使者を出す余裕ができた。

アタシも迎えに行きたかったけれど、王宮で国母との話に立ち会えと言われた。

その代わり、童威の舟が入り江へ向かった。

孫二娘を連れて戻ってきたのは、日が傾き始めた頃だった。

王宮の門前で待っていると、道の向こうから見覚えのある姿が現れた。

孫二娘は自分の娘を抱いている。

アタシの娘は、入り江で世話を手伝っていた女が抱いていた。

その後ろには、残してきた住民の代表と、軍船を守っていた兵たちも続いている。

「孫二娘!」

アタシが手を上げると、孫二娘は走らなかった。

娘を抱いているから当然だけど、いつもよりゆっくり歩いてくる姿が妙に偉そうだった。

「遅かったわね」

「四話も待ったんだよォ……」

「それ、今日の到着時間と関係ないでしょ」

「あるよォ……四話分、ゆっくり歩いてるんだよォ……」

どんな計算?

孫二娘はアタシの隣まで来ると、抱いていた娘を少し持ち上げた。

「ほらァ……母ちゃん、本編に戻ったよォ……」

赤ん坊は眠っていた。

感動の復帰場面なのに、まったく興味がないらしい。

アタシも自分の娘を受け取った。

柔らかい頬に触れた途端、身体から力が抜ける。

長く離れていたわけじゃない。

それでも、ずっと会っていなかったみたいに感じた。

「怪我してないねェ……」

孫二娘がアタシの顔と腕を眺めた。

「矢がかすっただけ」

「玉楼は?」

「袖が燃えた」

「燃えたァ?」

「少々でございます」

後ろから玉楼が現れた。

焦げた袖は替えられ、腕には薄く布が巻かれている。

孫二娘が眉を寄せた。

「少々で済ませるんじゃないよォ……」

「李俊殿にも同じことを申されました」

「李俊に言われたら診せたんだってねェ……」

玉楼が黙った。

孫二娘がアタシを見る。

アタシも孫二娘を見る。

「何ででしょうね……」

「何でだろうねェ……」

玉楼だけが、何の話か分からない顔をしていた。

王宮の門が開く。

衛兵が左右へ並び、アタシたちを中へ通した。

孫二娘が、当然みたいにアタシと玉楼の間へ入る。

「何してるの?」

「アタイが真ん中だよォ……」

「何でよ?」

「四話分だよォ……」

本当に持ち込んできた……

「そんな決まりないから」

「本日だけであれば、よろしいのではございませんか?」

玉楼が認めた……

「玉楼まで!」

孫二娘が満足そうに胸を張る。

娘を抱きながら王宮の中央を歩き、アタシと玉楼が左右につく。

どう見ても孫二娘が主役だ。

その先では、李俊が王に推されている。

李俊の妻で主人公はアタシなのに……

王宮の中には、戦いの跡が残っていた。

柱には刃の傷が走り、床の一部は黒く染まっている。

壁に掛けられていた布は裂かれ、玉座の背後にあった飾りも倒れたままだった。

共濤が王を殺し、国を奪った場所。

片づけられていないのではない。

国母が、あえて残させたらしい。

広間には李俊たちが集まっていた。

費保、倪雲、上青、狄成に、童威と童猛。

さらに卜青や、国母を守っていた臣下たちも並んでいる。

童威が玉楼の腕を見た。

「火傷は?」

「問題ございません」

「そうか」

それだけで会話が終わった。

孫二娘が二人を見比べる。

「それだけかい?」

「何がでございますか?」

「何でもないよォ……」

他人のことを言える立場じゃないと思う。

国母が広間へ入る。

全員が頭を下げた。

孫二娘も一応、周りを見てから真似をする。

「孫二娘殿」

名を呼ばれた瞬間、孫二娘の頭が上がった。

「アタイを知ってるのかい?」

「入り江に残り、娘御たちと民、軍船を守ってくださったと伺っております」

孫二娘の顔が輝く。

「そうだよォ……」

「皆様が都へ向かえたのは、戻る場所を守る方がおられたからです。礼を申し上げます」

国母が頭を下げた。

孫二娘は慌てた。

「そこまでしなくていいよォ……」

「功には、正しく礼を返さねばなりません」

「この話、本編に残るんだろうねェ……」

「本編?」

「気にしないで」

アタシがすぐに止めた。

国母へ説明すると長くなる。

たぶん、説明しても分からない。

孫二娘は嬉しそうに娘を揺らした。

「聞いたかい……母ちゃん、国母様に礼を言われたよォ……」

赤ん坊はやっぱり眠ったままだった。

国母は玉座へ近づかず、その手前で李俊に向き直った。

「先のお話を、改めて申し上げます」

「答えは同じだ」

「まだ何も申しておりません」

「同じ話だろう」

「さようでございます」

国母は隠す気もなかった。

「この国には、王が必要です」

「俺ではない」

「では、誰でございますか?」

李俊は答えなかった。

臣下の一人が前へ出る。

「共濤に従わず、都に残った者はおります。しかし、国中の兵と民をまとめられる者はおりません」

卜青も頭を下げた。

「李俊殿が来なければ、東門は開かなかった。王宮も取り戻せず、国母様も救えなかった」

「俺一人の働きじゃない」

「だからこそでございます」

国母が続ける。

「一人ですべてを成した方ではなく、人を動かし、それぞれの力を一つにできる方を求めております」

李俊の眉が寄った。

明らかに嫌そうだが、戦いの時みたいに一言で切れない。

自分だけの功績ではないと言えば、周りは仲間をまとめた功績だと返す。

王になる気はないと言えば、国を取る気がなかったからこそ任せられると言われる。

逃げ道が、どんどん塞がっていく。

孫二娘がアタシの袖を引いた。

「李俊、罠にかかってるねェ……」

「静かにしなさい」

「アタイなら、裏口から逃げるよォ……」

「王宮でそれを言わないで」

李俊は広間の外へ目を向けた。

王宮前の広場には、都の民が集まり始めている。

国母に呼ばれたわけじゃない。

李俊が王宮へ入ったと聞き、自分たちで来たらしい。

「俺は舟の上で生きてきた」

李俊が言った。

「王座に座る柄じゃない」

「国は、陸に浮かぶ大きな舟とも申せましょう」

国母が返す。

李俊が初めて、言葉に詰まった。

舟の話で返された。

これは強い。

広場のどこかから、声が上がった。

「李俊殿を王に!」

一人だけだった。

すぐに別の声が続く。

「都を救った方を!」

「新しい王を!」

広場の声が重なり、王宮の門を越えてくる。

李俊は動かない。

国母が臣下へ目を向けると、細長い箱が運ばれてきた。

蓋が開かれる。

中にあったのは、金でも宝石でもない。

黒い石で作られた、王の印だった。

国母が両手で持ち上げる。

「今すぐ即位なさる必要はございません」

「なら、それを置け」

「王位をお受けになるまで、預かっていただきます」

「受け取らない」

「では、どなたへお返しすればよろしいのでしょう?」

李俊は答えられなかった。

先王は死に、跡継ぎもいない。

共濤は捕らえられ、これから裁かれる。

返す相手なんて、もうどこにもいない。

国母が一歩近づく。

王印を差し出す。

外では、民の声が大きくなっていた。

「李俊王!」

今度は一人ではない。

十人、百人と広がっていく。

「李俊王!」

広間の空気が震えても、李俊は王印へ手を伸ばさなかった。

けれど、背を向けることもできなかった。

その時、孫二娘が小さく呟いた。

「受け取らないなら、アタイが持とうかねェ……」

李俊が、ものすごい速さで王印をつかんだ……

孫二娘殿は、たいへん満足そうでございました。

「真ん中だったねェ……扈三娘と玉楼が左右だったねェ……」

「本日だけでございます」

「どう見ても、アタイが主役だったよォ……四話分だからねェ」

そのような決まりは存じません。

娘御を抱き上げ、

「見てたかい……母ちゃん、王宮の真ん中を歩いたよォ……」

「お眠りでございますが?」

「心で見てたんだよォ……」

たいへん便利な娘御でございます。

「しかも国母様が、アタイに礼を言ったんだよォ……もう一回言いなァ」

「先ほどから七度申し上げております」

「八度目は別だよォ……」

何が違うのでしょう?

「次も真ん中だねェ……」

「認めておりません」

孫二娘殿の笑顔が止まりました。

「王宮まで運ばせるよォ……」

「すでに王宮におります」

しばらく黙った後、にやりと笑います。

「じゃあ、次は玉座の前だねェ……」

四話分のお留守番は取り戻したはずですが、中央を歩く権利だけは残ったようでございます。

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