↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
169/210

死ぬことも許さない

孫二娘の機嫌が、ものすごく良かった。

娘を抱きながら、同じ一文を何度も読んでいる。

「こういうところ、孫二娘がいたら、もっと楽だったでしょうね……」

「まだ読むの?」

「本編だよォ……アタイの名前が出てる本編だよォ……」

玉楼の「さようでございますね」まで読み返し、また笑う。

「三話も壁を見た女にとっては、ありがたいんだよォ……」

「ごめん……」

すぐ謝った。

「今日は留守番でも怒らない?」

「怒らないよォ。本編に名前が出るならねェ」

「今日は出るか分からないわよ」

笑顔が止まった。

「何だって……?」

「毎回、不自然に出せないでしょ!」

孫二娘は少し考えた。

「共濤を縛る時に、孫二娘ならもっときつく縛る、とか……」

「物騒なのよ!」

「今日も自然に出しなァ……」

機嫌が良くても、要求は増えていた。

共濤の短刀が、喉へ走った。

玉楼の方天画戟が先に届く。

柄の端が共濤の手首を打ち、短刀が宙へ跳ねた。

アタシは地面へ落ちる前に刀の腹で弾く。

短刀は竹林の奥へ飛び、乾いた音を立てて石へ当たった。

共濤が目を見開く。

「何をする!」

「それ、こっちの台詞なんだけど!」

男は空になった手で喉を押さえた。

傷は浅い。

赤い筋が一本できただけで、血もほとんど流れていない。

玉楼は方天画戟を返し、共濤の胸元へ柄を当てた。

「お動きになりませんように」

「退け!」

共濤が柄をつかもうとした。

玉楼は少し押しただけだった。

それだけで男の足が滑り、祠の石壁へ背中からぶつかる。

「殺せ!」

共濤が叫んだ。

「私を殺せ! 勝ったのであろう!」

卜青が剣を向ける。

「望みどおりにしてやる」

「卜青」

国母の声が止めた。

大きな声じゃない。

それでも卜青の剣は、共濤の首へ届く前に止まった。

国母が一歩進む。

白髪には火の粉がつき、衣の裾も煤で汚れている。

それでも、目の前の男を見る目に迷いはなかった。

「死んで逃げることは許しません」

共濤の顔が引きつる。

「何を……」

「あなたは王を殺し、都を奪い、民の家へ火を放ちました。ここで自ら命を絶てば、それで終わると思っているのですか?」

「私を辱めるつもりか!」

「裁くのです」

国母の言葉は短かった。

共濤の残った兵たちが、さらに武器を落とす。

竹林の中で、槍や剣が石へ当たる音が続いた。

「民の前で罪を明らかにし、その後に刑を受けなさい」

共濤は国母をにらんだ。

怒っているように見える。

でも、その奥にあるのは恐怖だ。

死ぬことより、生きたまま自分のしたことを数えられる方が怖いらしい。

ずいぶん都合のいい話ね……

自分は人の命を好き勝手に使ったのに、自分の終わり方だけは選びたいなんて……

「縄を」

卜青が命じた。

衛兵が共濤へ近づく。

男は急に身を翻し、祠の横へ走った。

逃げ道なんてない。

それでも走る。

アタシが追うより早く、玉楼が方天画戟の石突きを伸ばした。

共濤の足首へ引っかかる。

男は地面へ倒れ、土の上を滑った。

「お動きにならないよう、申し上げました」

玉楼が共濤の背へ膝を置く。

「重い! 退け!」

「逃げられますので」

「貴様、女の身で――」

玉楼が少し体重をかけた。

共濤の声が途切れる。

その言葉は最後まで言わない方がいい……

たぶん肋骨が先に折れる……

衛兵たちが両腕を後ろへ回し、縄を巻いた。

さらに足も縛り、短刀を隠していないか衣の中まで確かめる。

共濤は抵抗したけど、もう誰も従わなかった。

「私を誰だと思っている!」

「共濤でございましょう」

玉楼が答えた。

「名を聞いているのではない!」

「では、先ほどまで王を名乗っておられた共濤でございます」

本人確認としては正しい。

でも、今そこを正確に言う必要ある?

共濤が何か叫ぼうとした時、竹林の外から足音が響いた。

角笛が近い。

兵を率いて現れたのは李俊だった。

その後ろに童猛と上青がいる。

王宮を押さえた兵たちも続いていた。

李俊は縛られた共濤を見た。

次に国母へ目を向ける。

「遅れた」

「十分でございます」

国母が答えた。

李俊は一礼しただけで、長い挨拶をしなかった。

燃える回廊を見て、すぐに童猛を呼ぶ。

「火を止めろ。池と井戸から水を回せ」

「分かった!」

「上青は王宮へ戻れ。残った兵を町へ出せ。火を消しながら、逃げ遅れた者を拾え」

「任せろ」

「卜青」

「はっ」

「降った兵から武器を集めろ。縛るのは指揮を執っていた者だけでいい。火を消せる者まで座らせるな」

卜青が一瞬だけ李俊を見た。

それから深く頷いた。

「承知した」

命令が飛ぶたび、人が動き出す。国母の衛兵も、卜青の兵も、李俊の仲間も関係ない。

水を運び、負傷者を風上へ移し、燃え落ちた梁の下から人を引き出す。

井戸の水が足りなければ門外の水路へ人を走らせ、さっきまで共濤に従っていた兵まで水桶の列へ加わっていた。

この国で、李俊にはまだ何の官位もない。

王宮の席に座ったことも、国母から兵符を預かったこともない。

それでも、誰もその命令を不思議には思わなかった。

沈みかけた舟で、誰が櫂を持つかなんて相談している暇はない。

最初に握った人間が、岸まで漕ぐ。

李俊は、たぶんずっとそうしてきた。

王冠も玉座もない。

けれど燃える国を前にして、人を動かしているのは李俊だった。

国母は、その姿を黙って見ていた。

「三娘」

呼ばれて、アタシは顔を上げた。

「怪我は?」

「ないわよ。玉楼の袖は燃えたけど」

「少々でございます」

玉楼が焦げた袖を見せる。

李俊の眉がわずかに動いた。

「火傷を診せろ」

「必要ございません」

「診せろ」

「……承知いたしました」

二回目で従うんだ……

アタシが言った時は、少々で終わったのに……

別にいいけど……

本当に別にいいけど……

「その顔は何だ?」

「何でもない」

李俊はアタシの袖の裂け目にも目を止めた。

「お前も傷を診せろ」

「矢がかすっただけよ」

「それでもだ」

「はいはい」

言い返しても同じことを言われる。

そういうところだけ、妙にしつこい。

背後で共濤が笑った。

「見事なものだな、李俊」

縄で縛られたまま、泥のついた顔を上げる。

「都へ入った途端、我が兵へ命令か。最初から国を奪うつもりだったのであろう?」

李俊は振り返った。

「国を奪う男は、燃やさない」

「綺麗事を!」

「燃やせば、人が死ぬ。倉が消えれば、舟も兵も動かなくなる」

李俊の声は変わらない。

怒鳴りもしない。

「お前は国を取ったんじゃない。沈めただけだ」

共濤の顔から笑いが消えた。

李俊はそれ以上、相手にしなかった。

「連れていけ」

卜青の兵が共濤を立たせる。

男はまだ何か叫んでいたけど、燃える木の音と、人々の声に消えていった。

国母は、その背中が竹林の外へ消えるまで見送った。

「李俊殿」

呼ばれた李俊が向き直る。

「王宮へお入りください」

「火が先だ」

「承知しております。今すぐとは申しません」

国母は炎に照らされた離宮を見た。

「都の火が収まり、負傷者を運び終えましたら、皆様とともに王宮へ」

皆様――

その言葉を聞いて、アタシは入り江を思い出した。

娘を抱いて、壁を見つめていた女。

四話も留守番させられて、名前が出ただけでも喜びそうな女。

いや、絶対に喜ぶ。

でも、ここで忘れたら、今度こそ壁じゃ済まない。

「孫二娘も呼ばないと……」

アタシが言うと、李俊はすぐに頷いた。

「ああ」

国母がこちらを見る。

「その方も、お仲間でございますか?」

「仲間よ。今は娘たちと、入り江に残した人たちを守ってるの」

「戦場へ来られなかったのではなく、守る場所を任されたのですね」

「そういうこと」

これなら本人も納得する。

たぶん――

「呼ばずに王宮へ入ったら、あとがきだけじゃ済まないから……」

「あとがき?」

国母が首を傾げた。

「こっちの話よ」

玉楼が真顔で続ける。

「入り江そのものを王宮へ運びかねません」

「どうやってよ?」

「孫二娘殿でございますので」

説明になってない……

でも、否定もしきれないのが怖い……

国母の口元が、ほんの少し緩んだ。

燃える都の中で、初めて見た笑みだった。

「では、その孫二娘殿も必ずお招きしましょう」

よかった……

これで王宮が燃えずに済む……

たぶん……

離宮の火は、少しずつ弱まり始めていた。

竹林の外では、李俊の命令を受けた兵たちが走り回っている。

敵も味方もなく、水桶を渡し、倒れた柱を運び、怪我人を背負っていた。

このまま消火が進めば、都の火もじきに消えるかもしれない。

共濤を捕らえ、国母も無事で、王宮も押さえた。

長かった戦いが、ようやく終わろうとしている。

そう思ったのに、国母は李俊から目を離さなかった。

「李俊殿」

「何だ?」

「王宮へお入りいただく理由を、まだ申し上げておりませんでした」

李俊の目が細くなる。

国母は焼け残った祠を背に、深く頭を下げた。

「客人としてではございません」

周囲の兵たちが動きを止めた。

火の爆ぜる音だけが残る。

国母は顔を上げた。

「この国の王として、お入りください」

孫二娘殿が、紙を抱いて震えておられました。

「玉楼……出たよォ……また名前が出たよォ……」

「今回は長く出ておりましたね」

「『孫二娘も呼ばないと』だよォ。国母様も『必ずお招きしましょう』って……」

何度も同じところを読み返し、たいへんご満悦です。

「四話も入り江で留守番した女が、いきなり王宮だよォ……」

「娘御たちと皆様を守っておられたからでございます」

孫二娘殿が静かになりました。

「……玉楼も、そう思うのかい?」

「もちろんでございます」

紙で口元を隠しましたが、目は笑っております。

「じゃあ王宮へ入る時、アタイを真ん中にしなァ」

「なぜでございますか?」

「四話分だよォ」

そのような決まりは存じません。

「見てなァ。母ちゃん、次は名前だけじゃないよォ……」

次のお話でお姿がなければ、王宮そのものが入り江まで運ばれるかもしれません。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。