燃える離宮
「二娘、今度は何その顔?」
孫二娘は娘を抱いたまま、じっとアタシを見ていた。
「三娘ォ、また前線へ行くんだねェ」
「またって……都が燃えてるんだから仕方ないでしょ」
「アタイは入り江。三娘ォは離宮。役割分担って便利な言葉だねェ」
「圧が怖い!」
玉楼が真顔で口を挟んだ。
「孫二娘殿には、こちらをお守りいただかなくてはなりません」
「分かってるよォ。理解と納得は別物なんだよォ」
「急に心理学っぽい!」
孫二娘は妖艶に笑った。
「帰ってきたら、全部聞かせてもらうからねェ」
「戦果報告みたいに言わないで!」
玉楼が頷く。
「詳細にご報告いたします」
「玉楼、それ絶対やめて!」
離宮が燃えている。
東門の上から見えた黒煙は、もう一本の柱ではなかった。
森の向こうで横へ広がり、赤い火の粉まで空へ巻き上げている。
あそこに国母がいる。
共濤も向かっている。
しかも、アタシたちからは遠い。
「最短の道は?」
アタシが尋ねると、卜青は北へ続く大路を指した。
「この先の市場を抜ける。だが、共濤の兵が道を塞いでいるはずだ」
「別の道は?」
「ある。しかし遠回りだ」
それでは意味がない。
アタシは門楼から下りてきた侍女へ振り返った。
「離宮に、裏から入れる場所は?」
「西に使用人の通る通用門がございます。ただ、森へ入る道は一本だけです」
「じゃあ、そこまでは正面から行くしかないわね」
卜青が部下を一人呼び止めた。
「王宮へ走れ。李俊殿に、共濤が離宮へ向かったと伝えろ」
兵が駆け出していく。
これで李俊たちも動く。
問題は、知らせが届くまで国母が無事かどうかだった。
玉楼が方天画戟を肩へ担ぐ。
「参りましょう」
落ち着いている。
この人が慌てたところを、アタシはほとんど見たことがない。
たぶん目の前で山が崩れても、避ける場所を決めてから驚く。
「急ぐわよ」
「はい」
東門を開けた卜青の兵と、南の壁から助け出した男たちが続いた。
全員を連れていくわけにはいかない。
怪我人や戦えない者は東門へ残し、動ける者だけで北へ向かう。
大路へ入った途端、焦げた臭いが濃くなった。
左右の家々から炎が噴き出し、逃げ遅れた人たちが荷を抱えて走っている。
泣く子を背負った女が転び、後ろから来た老人が腕をつかんで起こした。
勝手に火を放っておいて、自分たちは離宮へ逃げる。
共濤の兵は、町も人も盾にするつもりらしい。
市場の手前で、道が塞がれていた。
荷車を横倒しにして、木箱と屋台を積み上げた急造の壁。
その向こうには弓兵が並んでいる。
「来たぞ!」
矢が放たれた。
卜青の兵が盾を上げる。
アタシは軒下へ入り、壁沿いに前へ出た。
玉楼は隠れるどころか、飛んできた矢を方天画戟で払いながら道の中央を進んでいく。
「止めろ!」
槍兵が柵の隙間から穂先を突き出した。
玉楼は一歩も下がらず、方天画戟の柄を横にして槍をまとめて押さえる。
「三娘様」
「分かってる!」
アタシは荷車の車輪へ刀を差し込み、留め具を斬った。
車輪が外れる。
傾いた荷車へ玉楼が肩を入れると、積まれていた木箱ごと壁が崩れた。
いや、普通はそれで動かないから。
敵兵が慌てて下がる。
開いた隙間へ入り、先頭の弓兵の懐へ飛び込んだ。
弓を握る手首を刀の柄で打ち、身体を入れ替える。
後ろの男が剣を抜くより早く、足元の木箱を蹴りつけた。
脛へ当たり、男がよろめく。
そこへ卜青の兵が押し寄せた。
狭い市場は、すぐに乱戦になった。
屋台の陰から槍が伸び、倒れた布の下から兵が飛び出す。
屋根からは瓦まで落ちてきた。
アタシは槍を刀で外し、潜んでいた男の背を踏んで屋台を越える。
「こういうところ、孫二娘がいたら、もっと楽だったでしょうね!」
玉楼が敵兵の盾を方天画戟で押し返した。
「さようでございますね」
即答だった。
「『アタイなら屋台ごとひっくり返すよォ』って言いそう」
「仰ると思います」
「絶対言うわね!」
本人は入り江で二人の娘を守っている。
ここへ来られないのは分かっている。
それでも、狭い場所から次々に敵が飛び出してくると、あの朴刀が欲しくなる。
約束どおり名前は出した。
聞こえてないけど。
市場を抜けると、森へ続く道が見えた。
だが、その手前で燃える荷車が倒れている。
油をかけられたらしく、火は道いっぱいに広がっていた。
「水を!」
卜青が叫ぶ。
近くの井戸から桶が運ばれる。
でも、間に合わない。
煙の向こうから助けを求める声がした。
「誰かいる!」
燃える荷車の脇で、倒れた柱に男の脚が挟まれていた。
その隣では、幼い子が泣きながら父親の袖を引いている。
迂回すれば離宮へは行ける。
二人を助ければ遅れる。
こういう選択肢を出してくる展開、本当に嫌い。
「玉楼!」
「承知いたしました」
返事と同時に、玉楼が火の中へ入った。
濡らした布を頭からかぶり、倒れた柱へ手をかける。
アタシは子どもを抱き上げた。
「父ちゃんが!」
「今、助けてる!」
柱が持ち上がった。
男が脚を抜き、卜青の兵が肩を貸す。
玉楼の袖に火が移った。
「玉楼!」
手近な桶を奪い、そのまま水を浴びせる。
「熱くないの?」
「少々」
「少々で済むわけないでしょ!」
玉楼は焦げた袖をちぎり、もう離宮の方を見ていた。
「道がございます」
燃える荷車が崩れ、その脇に人一人が通れる隙間ができている。
助けた男と子どもを兵へ任せ、次々にそこを抜けた。
森へ入ると、都の喧騒が急に遠のいた。
代わりに聞こえるのは、木の爆ぜる音と、奥から響く剣戟だった。
侍女が先頭へ出る。
「通用門はこちらです!」
木々の間に低い石壁が見えた。
その一角にある使用人用の通用門は、すでに開いている。
門番が二人、地面に倒れていた。
侍女が駆け寄り、膝をつく。
「国母様を……お守り、ください……」
片方の門番が、かすれた声を絞り出した。
「共濤は?」
卜青が尋ねる。
「庭へ……兵を連れて……」
そこで息が途切れた。
侍女が唇を噛み、男の目を閉じる。
アタシたちは通用門を抜け、離宮の内へ走り込んだ。
火は、外から見た以上に広がっている。
回廊の屋根へ炎が移り、庭へ落ちた火の粉が草を焦がしていた。
壁際には、口の開いた油壺がいくつも転がっている。
火が回ったんじゃない。
最初から、ここにいる者ごと焼くつもりだったのだ。
回廊の角から兵が現れ、松明を振りかぶる。
アタシは走った。
男の手を刀の背で打ち、落ちた松明を蹴り飛ばす。
火は庭の池へ落ち、音を立てて消えた。
「国母を捕らえるんじゃなかったの?」
「黙れ!」
兵が腰の剣へ手をかける。
抜かせる前に柄で顎を打った。
勝てないから、証拠も人も全部燃やす。
共濤が王になれなかった理由を、わざわざ町中へ書いて回っているみたいだった。
正殿の前では、共濤の兵と国母側の衛兵が斬り結んでいる。
卜青が声を張った。
「国母様の兵よ! 東門は開いた! 李俊殿の軍も都へ入ったぞ!」
衛兵たちの顔が上がる。
共濤の兵が振り返った。
そこへ玉楼が入った。
方天画戟が横へ走り、三本の槍をまとめて払う。
アタシはその脇を抜け、衛兵を囲んでいた男の背後へ回った。
「援軍だ!」
誰かが叫んだ。
ついさっきまで押されていた衛兵たちが前へ出る。
共濤の兵は正殿を捨て、庭の奥へ退いていった。
「国母様はどこ!」
傷を負った老兵が、北の林を指した。
「奥の祠です! 共濤も追っております!」
また奥……
今日は目的地が逃げる日なの?
玉楼と卜青が走る。
アタシも続いた。
竹林を抜けると、小さな石造りの祠が見えた。
その前に、白髪の女が立っている。
年老いてはいるが、背筋は伸びていた。
左右には侍女と数人の衛兵がおり、全員が傷つきながら女の前を守っている。
あれが本物だ。
向かいには共濤がいた。
残った兵は十人にも満たない。
共濤の衣は煤で汚れ、片方の袖が裂けている。
王宮を捨て、都を焼き、国母を追い詰めた男には見えなかった。
逃げ場を失った人間の顔だった。
「卜青……!」
共濤が歯をむく。
「東門を開いたか!」
「都を売ったのはお前だ、共濤」
卜青が剣を構える。
国母はアタシたちを見ても動かなかった。
「李俊殿の御一行でございますか」
「そうよ」
「王宮は?」
「今ごろ李俊が押さえてる」
それを聞き、国母は目を閉じた。
安堵したというより、何かを決めたように見えた。
「共濤。もはや終わりです」
「黙れ!」
共濤の兵が一歩下がる。
背後は祠の石壁。
左右は竹林。
そして前にはアタシたちがいる。
逃げ道はない。
遠くから角笛が聞こえた。
李俊たちがこちらへ近づいている。
共濤にも分かったらしい。
男の目が左右へ走る。
国母までは遠く、卜青へ斬りかかっても玉楼がいる。
アタシたちの横を抜けたところで、森の外から李俊たちが来る。
詰み――
ようやく、ここまで追い込んだ。
「武器を捨てなさい」
国母が告げた。
共濤の兵の一人が槍を落とした。
それを見た別の兵も武器を手放す。
金属が石へ当たる音が重なり、残っていた者たちの戦意が消えていった。
共濤だけは動かなかった。
「生きて罪を受けなさい」
国母の言葉に、男の口元が引きつる。
「罪……?」
笑ったのか、泣いたのか分からない顔だった。
次の瞬間、共濤が腰の短刀を抜いた。
アタシは双刀を構える。
玉楼が前へ出る。
けれど、共濤は国母へ向かわなかった。
刃を、自分の喉へ当てた。
「止めろ!」
卜青が叫ぶ。
共濤の腕が動いた。
「玉楼、袖に火がついて『少々』で済ませる人、初めて見たんだけど」
三娘様が、焦げた袖を指さされました。
孫二娘殿が娘を抱いたまま、じっと私を見ます。
「アタイが留守番してる間に、今度は火の中まで入ったのかい?」
「必要でございましたので」
「その返し、最近ちょっと腹立つねェ……」
「消していただきましたので、問題ございません」
孫二娘殿が肩を揺らしました。
「痛みへの注意が別のことに向いてたんだろうけどねェ」
「では、離宮へ急いでいたおかげでございますね」
「前向きに解釈しないで!」
三娘様が頭を抱えます。
「普通は火がついたら慌てるの!」
「慌てても火は消えませんので」
「三娘ォ、玉楼に正常な危機反応を期待する方が間違ってるよォ」
私は少し考えました。
次は、もう少し早く水をかぶろうと思います。




