十七を数える前に
「二娘、またその顔してるの?」
孫二娘は娘を抱いたまま、入り江の向こうを睨んでいた。
「三娘ォ、都じゃ三百人相手なんだろォ……」
「まだそこまで行ってないけど」
「アタイは赤子二人相手だよォ……」
「比較がおかしい!」
孫二娘は胸元へ視線を落とし、妖艶に笑った。
「まあ、赤ん坊には胸が大きい方がいいからねェ」
「今、アタシを見て言ったでしょ!」
「誰も三娘ォとは言ってないよォ」
玉楼が真顔で頷く。
「お嬢様方は、よくお飲みになります」
「玉楼まで乗らないで!」
孫二娘の機嫌は、少し直ったらしい……
「三つ!」
敵将の声が広場へ響いた。
玉楼が踏み出す。
方天画戟の刃が地面すれすれを走り、先頭に並んだ槍の穂先をまとめて跳ね上げた。
槍兵の腕が浮いた瞬間、その隙間へ身体ごと入り込む。
「止めろ!」
左右から槍が突き出された。
玉楼は方天画戟の柄を立てて二本を受け止め、胸元へ伸びた三本目が届くより先に、肩から槍兵へぶつかった。
男が後ろへ飛び、さらに二人を巻き込んで最初の列が崩れる。
本当に正面から行くのね。
いや、分かってたけど!
「四つ!」
アタシも走った。
玉楼が開けた隙間へ滑り込み、横から迫る剣を右の刀で流す。
左の刀を返して男の脇を柄で打ち、その身体が沈んだところを飛び越えた。
正面は玉楼に任せればいい。
アタシまで同じ場所で力比べをする必要はない。
敵陣の端へ寄り、槍先がこちらへ揃う前に脇を抜ける。
背後へ回ろうとしたところで、門楼の上の弓兵たちが一斉にこちらを向いた。
「射ろ!」
矢が降る。
立ち止まらず、倒れた兵の盾を蹴り上げた。
何本もの矢が盾へ突き刺さる。
その陰を抜け、広場の端に残った露店の柱へ足をかけると、焼けかけた屋根まで一気に上がった。
火の粉の中を走りながら下を見る。
玉楼はもう二列目へ入っていた。
方天画戟が振られるたび、人の壁が左右へ割れていく。
もう戦ってるというより、道を作ってる。
「五つ!」
数え方が遅い。
ありがたいけど、もっと焦ってほしい。
玉楼の後ろでは、助け出した男たちも前へ出始めていた。
さっきまで棒を握る手を震わせていた人たちだ。
落ちている盾を拾い、槍を持った者の前へ出る。
戦い方を知らなくても、玉楼が開けた道を塞がせないことならできる。
「押せ!」
誰かが叫んだ。
棒と石切りの槌を手にした男たちが槍兵の横へぶつかり、敵の列がさらに歪む。
「六つ!」
門楼の弓兵が屋根の上のアタシへ狙いを変えた。
分かりやすい。
三人が弓を引くのを見て、射られる前に屋根から飛び降りる。
矢は背後の板を貫き、着地した先では旗を持った兵が目を見開いた。
「なっ――」
声を上げるより先に旗竿を斬る。
共濤の旗が地面へ落ち、周囲の兵の視線まで一緒に吸い寄せられた。
旗って便利よね♪
立っているだけで味方を安心させるし、倒れるだけで不安にさせる。
アタシは落ちた旗を踏み越えた。
「七つ!」
敵将の声が少し上ずった。
こっちが近づいていることに、ようやく気づいたらしい。
「女を止めろ! 門楼へ近づけるな!」
もう遅い。
さっきまで、女二人だって笑ってたでしょ?
門楼へ続く石段まで、あと半分。
ところが、その前へ騎兵が並んだ。
広場で馬?
町を焼いて、逃げる民を踏みつけるために連れてきたのかもしれない。
敵将が剣を抜く。
「八つ!」
馬が走り出した。
避けるだけなら簡単だ。
でも後ろには、助け出した男たちがいる。
アタシだけ退けば、そのままあの人たちへ突っ込む。
最悪……
こういう時に、玉楼がいれば――
「三娘様!」
いた――
方天画戟の柄が横から馬の胸元へ差し込まれた。
玉楼は馬を斬らず、走る向きだけをずらす。
先頭の馬が横へ逸れ、騎兵ごと地面へ転がった。
続いた二頭も進路を失い、後ろの兵まで巻き込んで止まる。
「お怪我はございませんか?」
「ないけど、いつ来たの?」
「先ほどでございます」
答えになってない。
玉楼の後ろを見ると、広場の中央にまっすぐ一本の道ができていた。
三百いたはずの敵が倒れているか、左右へ押し退けられている。
本当に道を作ってきた……
「玉楼、三十どころか十までに着くんじゃない?」
「急ぎます」
冗談だったんだけど……
「九つ!」
門楼の奥で、白い衣の女が身じろぎした。
首に刃を当てている兵は、こちらを見たまま顔を引きつらせている。
人質を取れば安全だと思ったんでしょうね。
残念。
玉楼に、人質を盾にする相手との交渉は通じない。
相手が武器を置くまで、静かに近づくだけだから。
……その方が怖いけど。
「十――」
敵将が数え終わるより早く、別の声が広場を割った。
「門を開けろ!」
敵陣の向こうで、卜青の旗が大きく振られる。
閉ざされていた東門の内側から激しい音が響いた。
何かが門扉へぶつかっている。
卜青たちも動いた。
「開けさせるな!」
敵将が馬首を返す。
兵の一部が東門へ向かい、アタシたちを止める列が薄くなった。
「玉楼!」
「はい」
言わなくても分かっていた。
玉楼が正面へ出て、アタシは右へ回る。
方天画戟が振り下ろされると敵の盾が地面へ沈み、よろめいたところへ助け出した男たちが押し寄せた。
槌が盾を叩き、棒が槍を押し上げる。
武器の扱いは下手でも、玉楼が崩した列へ押し込む力にはなる。
「十一!」
敵将が無理やり数を続けた。
門楼の兵が、白い衣の女の髪をつかむ。
「止まれ!」
刃が首へ食い込み、細い赤い線が浮かんだ。
アタシは石段へ向かう。
その前に槍兵が三人立ちはだかった。
一人目の槍を左へかわし、柄をつかんで引き寄せる。
身体が前へ崩れたところで膝を踏み台にして跳び、二人目の肩へ足をかけ、そのまま三人目の頭上を越えた。
背中へ槍が迫る。
振り向かない。
ここで足を止める方が危ない。
刃が髪の先をかすめ、アタシは石段へ着地した。
「十二!」
上から矢が来た。
壁際へ寄って最初の一本を避け、二本目を刀で外す。三本目は袖を裂いただけで、腕には届いていない。
当たってないなら問題なし。
石段を駆け上がる。
下では玉楼が敵将の騎馬へ迫っていた。
敵将が剣を振り上げる。
方天画戟が馬上の刃を受け止め、そのまま柄を押すと、男の身体が馬の反対側へ傾いた。
「き、貴様!」
「お数えにならないのでございますか?」
玉楼が尋ねた。
今、それを聞く?
敵将の顔が歪む。
「十三!」
あら、ちゃんと続けるのね……
アタシなら、もう数えるのをやめる。
石段の上から兵が斬りかかってきた。
刀を受けずに懐へ入り、肘で胸を打つ。
そのまま身体を入れ替えると、男は階段を転がり落ちていった。
下で玉楼が少しだけ横へ避ける。
敵将は避け切れず、転がってきた味方を馬ごと受けた。
「十四!」
声が裏返った。
門楼まで、あと十段。
白い衣の女を押さえている兵が刃を引く。
本気で斬るつもりだ。
「国母を殺すぞ!」
「殺せば、そちらの負けでございます」
下から玉楼の声が届いた。
兵の手が止まる。
「何だと!」
「生かしておられるから、盾になるのでございましょう」
玉楼は敵将の剣を方天画戟で押さえたまま、門楼を見上げていた。
「お命を奪えば、あなた方を守るものは何も残りません」
正論。
ものすごく冷静な正論。
でも今それを言われた兵は、たぶん何もできなくなる。
予想どおり、白い衣の女を押さえる腕が緩んだ。
今――
アタシは残りの段を駆け上がる。
「十五!」
兵がこちらを向いた。
もう間に合わない。
右の刀で刃を跳ね上げ、左の柄を手首へ打ち込む。
剣が落ちたところで白い衣の女を引き寄せ、兵との間へ身体を入れる。
「怪我は?」
女は答えなかった。
アタシの顔を見て、目を見開いている。
「国母様?」
「……違います」
え?
女は息を整えながら首を振った。
「私は、国母様の侍女です」
やられた。
いや、助けた相手が偽物だから悪いわけじゃない。
でも敵が国母だと言い張ったから、完全に信じた。
「国母様は?」
「離宮におられます。私が衣を替え、身代わりになりました」
「敵も知らないの?」
「近くでお顔を拝した者は、すでに共濤に殺されました」
敵まで騙したの?
この人、見た目よりずっと強い。
下から大きな音が響く。
東門の内側で、かんぬきが外れた。
「門が開くぞ!」
卜青側の声が上がる。
敵将が馬を下り、逃げようとした。
玉楼の方天画戟が、その前へ突き立つ。
「どちらへ参られますか?」
「退け!」
敵将が斬りかかる。
玉楼は刃を柄で受け、そのまま男の身体を持ち上げるように押し返した。
敵将は背中から地面へ落ちる。
「十六……」
かすかな声が漏れた。
まだ数えるの?
律儀すぎない?
東門が内側から開いた。
重い門扉の隙間から、血に濡れた兵たちが現れる。
その先頭に、卜青がいた。
「国母様は!」
門楼の上にいる女が叫ぶ。
「ご無事です! 離宮におられます!」
卜青の顔に安堵が浮かんだのは、一瞬だけだった。
すぐに剣を上げる。
「共濤を討て! 都を取り戻すぞ!」
呼応する声が、東門の内と外から上がった。
敵兵の列が一気に崩れていく。
槍を捨てて逃げる者もいれば、なお戦おうとして取り残される者もいる。
もう、三百の軍じゃない。
追い詰められた兵の集まりだった。
アタシは侍女を門楼の兵へ預け、階段を下りた。
玉楼の隣へ戻った時には、敵将は地面に押さえつけられている。
「三十どころか、十六だったわね」
「十七を数える前に門が開きました」
「そこ、ちゃんと数えてたの?」
「三十で十分と申し上げましたので」
約束を守る方向がおかしい。
卜青がこちらへ歩いてきた。
鎧も顔も煤と血に汚れている。
「助勢、感謝する。そなたたちは何者だ」
「李俊の仲間よ」
「李俊殿は?」
「王宮へ向かった」
卜青の表情が変わった。
「王宮には、共濤はおらぬ」
「え?」
「奴は国母様の居場所を探し、離宮へ兵を向けた」
門楼から下りてきた侍女の顔が青ざめる。
「いつでございますか?」
「半刻ほど前だ。王宮を守っていた兵まで連れていった」
李俊たちは、誰もいない王宮へ向かっている。
共濤は国母のいる離宮へ向かった。
そして、アタシたちは東門にいる。
全員、別の場所。
そういう大事なことは、もっと早く教えてほしい!
遠くで爆発音がした。
王宮の方角ではない。
都の北にある森の向こうから、黒い煙が上がる。
侍女が叫んだ。
「離宮です!」
玉楼が方天画戟を握り直した。
けれど、離宮までは遠い。
海からも、水路からも入れない。
アタシは双刀についた血を払い、北を見た。
東門は開いた。
次に開かなければならないのは、燃える離宮への道だった。
「玉楼、敵将と一緒に十六まで数えてたの?」
三娘様が、呆れたようにお尋ねになりました。
「三十で十分と申し上げましたので、確認しておりました」
「何の確認よ!」
孫二娘殿が肩を揺らします。
「三娘ォ、こういうのは目標設定と進捗管理って言うんだよォ」
「絶対違う!」
「十七を数える前に門も開きました」
「だから達成報告しなくていいの!」
私は首を傾げました。
「予定より早く終わったのでございますが」
孫二娘殿が笑います。
「玉楼、三十って上限だったのかい?」
「はい」
三娘様が額を押さえました。
「敵三百人に対して上限三十を設定する人、初めて見た……」
予定には余裕を持たせるものだと思うのですが?




