海の底から
李俊が海へ潜ると聞いてから、アタシはずっと落ち着かなかった。
孫二娘は、娘を抱いたまま静かにこちらを見ている。
「何よ……」
「別にィ……」
「今、絶対に笑ったでしょ」
「笑うほど元気じゃないよォ……」
産後で大人しいだけあって、声は小さい。
でも、口元は明らかに緩んでいた。
「李俊なら戻ってくるよォ」
「分かってる」
「じゃあ、何でさっきから海ばかり見てるんだい?」
「敵が三十艘もいるからよ」
「李俊が一人で三十艘を相手にするわけじゃないだろォ……」
「分かってるってば!」
孫二娘は娘の背をゆっくり撫でた。
「三娘」
「何?」
「海の底まで追いかける気かい?」
「行けるなら行くわよ」
「迷惑だから、やめなァ……」
そこまで言われる?
「戻ってきたら、怒ってやればいいさァ」
「もちろん怒るわよ」
「その前に、抱きつくんだろォ……」
「抱きつかない!」
孫二娘が黙ったまま、こちらを見ている。
「……何よ」
「何でもないよォ……」
絶対に信じてない。
李俊が戻ってきても、最初に抱きついたりしない。
たぶん……
七日後――
沖に現れた三十艘の軍船は、夜明けを待っていた。
こちらは、待ってやるつもりがなかった。
空が白み始めるより前に、李俊は上衣を脱いだ。
腰へ短刀を差し、鉄錐と木の楔、小さな槌を油布で包んで身体へ結びつけている。
童威と童猛も同じ支度だった。
「本当に、三人で潜るの?」
「三人じゃない」
李俊は海を見たまま答えた。
「海も使う」
また分かったような、分からないようなことを言う……
沖には黒い影が幾重にも並んでいる。三十艘――
数え直しても減らない。
奪った三艘があれほど大きく見えたのに、その十倍が海を塞いでいた。
費保、倪雲、上青、狄成は、こちらの軍船へ分かれて乗っている。
敵の旗はまだ下ろしていない。
先触れとして出された三艘が戻ってきたように見せるためだ。
「沈める船は決めてある」
童威が腰の縄を締めた。
「先頭を二艘、中央を三艘。後ろは童猛が止める」
「全部じゃないの?」
「全部沈めたら、使える船がなくなる」
李俊と同じことを言う。
水軍って、戦う前から戦利品の数まで考えるものなの?
童猛が笑った。
「三娘は、残した船へ乗ってくれ。玉楼も一緒なら、何艘残しても足りそうだな」
玉楼は方天画戟を持ったまま首を傾げた。
「何艘ほど必要でございましょうか?」
「兄貴、玉楼に数を言うな。全部取りに行くぞ」
「承知いたしました」
「承知しなくていい!」
少し離れたところで、孫二娘が二人の赤子を抱えて笑っている。
「三娘ォ、今の顔、李俊が潜るのと玉楼が全部取りに行きそうなの、どっちが不安なんだい?」
「両方!」
「不安の対象が二つあると、近い方へ怒りを向けやすいんだよォ」
「戦の直前に心理学で分析しないで!」
童威だけは笑わなかった。
「旗艦は沈めない。船尾を下げる。三息あれば乗れるか?」
「十分でございます」
ちょっと待って。
今ので分かったの?
童威も当然のように頷く。
何、この二人……
短いのに通じている方がおかしい。
李俊が海へ入った。
童威と童猛も続き、三人の身体は波の下へ消える。
引き止める暇さえなかった。
「三娘様」
玉楼が外套を差し出した。
「寒くないわ」
「手が震えておられます」
「李俊が勝手に潜ったから腹が立ってるの!」
「お止めになると分かっておられたのでございましょう」
「玉楼まで李俊側なの?」
「戻ってこられましたら、三娘様の傍らへ来られます」
それ、今は李俊側だって認めてない?
後ろから孫二娘の声が飛んだ。
「帰ってきたら好きなだけ揉めなァ。こっちはアタイが見てるよォ」
孫二娘は二人の赤子と浜に残る怪我人たちを守るため、前へは出ない。
それでも、ここが崩れればアタシたちは帰れない。
「お願い」
「二人とも戻ってきなァ」
アタシと玉楼は中央の軍船へ乗った。
費保が左、倪雲と上青が右を受け持ち、狄成は小舟を率いて外側へ回る。逃げ込んできた者たちも櫂を握り、矢や濡れ布を運んでいた。
もう誰も客ではない。
敵の主力水軍から、こちらを味方と見た合図の灯が上がる。
距離が縮まり、先頭船の兵の顔まで見えた時、左端の軍船が傾いた。
船首が持ち上がり、船尾が海へ沈んでいく。
続いて中央の一艘が止まり、後ろの船が避けきれず横腹へぶつかった。
櫂が折れ、兵が海へ落ちる。
さらに別の船まで傾き、整っていた戦列が一気に崩れた。
作戦どおりなら、海の下では李俊たちが板の継ぎ目へ鉄錐を差し、楔を打っているはずだ。
大穴を開ける必要はない。
隙間から水が入り始めれば、船自身の重みで板が押し広げられる。
敵はまだこちらへ一射もしていない。
戦っている相手が、どこにいるのか分からないからだ。
「旗を下ろして!」
敵の旗が落ち、代わりに入り江で縫った旗が上がる。
敵兵の顔色が変わった。
「奪われた船だ!」
「気づくのが遅い!」
矢が飛んでくる。
こちらの軍船は止まらず、旗艦へ横腹を寄せた。
鉤縄が掛かった時、すぐ下の海面が割れる。
童威が顔を出した。
「玉楼、船尾が沈む。三息後だ」
「承知いたしました」
一息。
旗艦の船尾が沈み始める。
二息。
兵たちが足を取られ、弓の狙いが外れる。
三息。
玉楼が船縁を蹴った。
傾いた旗艦へ飛び移り、着地と同時に方天画戟を横へ払う。
前へ出た兵たちが、得物ごと甲板を転がった。
「ちょっと! 二人だけで話を進めないで!」
アタシも鉤縄を渡って旗艦へ降りる。
童威が船腹へ手をかけたところを、玉楼が片手で掴み、そのまま甲板まで引き上げた。
いや、待って……
成人男性を片手で?
「助かった」
「お怪我はございませんか?」
「ない」
それで終わり?
せめて玉楼の膂力に何か言ってよ!
敵兵の槍が迫る。
玉楼は方天画戟の柄でまとめて受け、そのまま押し返した。
童威は空いた道を抜けて船尾へ走り、舵を奪う。
水軍と陸軍というより、一つの生き物みたいに動いている。
「ねえ玉楼、童威と前からこんなに息が合ってた?」
「梁山泊では、童威殿が水上から敵を崩し、私どもが陸から攻めておりました」
「答えになってない!」
「前からだ」
船尾から童威が答えた。
だから、それがいつからなのよ!
旗艦の中央では、金色の甲冑を着た水軍大将が剣を抜いていた。
「賊ども! 王の主力水軍に刃向かうか!」
「先に人の家を焼こうとしたの、そっちでしょ!」
「逃亡した民は王の財だ!」
頭の中で何かが切れた。
「人を物みたいに言わないで!」
大将の剣を右の刀で受け、左で手首を狙う。
男は身を引き、護衛を前へ出した。
玉楼の方天画戟が、護衛たちの槍をまとめて跳ね上げる。
童威が船尾から叫んだ。
「右へ二歩!」
玉楼が迷わず動く。
直後、船が大きく左へ傾き、大将と護衛だけが足を取られた。
「何で分かるの?」
「舵を切った」
「先にアタシにも言って!」
「三娘なら立てる」
信用なのか、扱いが雑なのか分からない!
傾いた甲板を駆け上がり、大将の剣を双刀で挟む。
手首を返すと、得物が海へ飛んだ。
玉楼の方天画戟が男の胸を押し、帆柱へ縫い止める。
「動かれませんようお願いいたします」
「余を誰だと思っている!」
「存じません」
玉楼は本当に興味がなさそうだった。
「三娘様が、生け捕りにせよと仰せでございます」
「女の命令に従うのか!」
玉楼の眉が、ほんの少しだけ動いた。
方天画戟が帆柱へ食い込み、大将の兜をかすめる。
「当然でございます」
怖い。
敵じゃなくて本当によかった。
アタシは大将の喉元へ刀を添えた。
「全船に武器を捨てるよう命じなさい」
「断る!」
「じゃあ、沈むところを見てれば?」
沖ではさらに二艘が傾き、後方では逃げようとした船同士がぶつかっている。
費保たちは左の軍船へ乗り込み、倪雲と上青も一艘を奪った。
狄成の小舟は海へ落ちた兵を拾っている。
「敵まで助けるの?」
海から上がった李俊が濡れた髪を払った。
「沈めるのは船だけだ」
「それ、潜る前に言ってよ!」
「言えば安心したか」
「するわけないでしょ!」
李俊は少し笑った。
大将は、崩れた戦列と海から救い上げられる兵を見た。
もう勝ち目がないことくらい分かっている。
「……白旗を上げよ」
旗艦の帆柱へ白い布が上がる。
近くの船も櫂を止め、一艘、また一艘と武器を置いた。
抵抗を続ける船へは、アタシと玉楼が乗り移った。
アタシが指揮官の剣を落とせば、玉楼は敵旗を帆柱ごと倒す。
三艘目では、こちらの姿を見ただけで兵たちが武器を捨てた。
ちょっと複雑だけど、楽ではある。
日が高くなる頃には、三十艘の戦列は完全に崩れていた。
取り逃がした船もあったが、旗艦を含む六艘はほとんど傷つかず、こちらの手へ落ちた。
入り江へ戻ると、浜から歓声が上がる。
孫二娘は二人の赤子を抱えたまま、アタシを上から下まで眺めた。
「ちゃんと戻ってきたねェ」
「当たり前でしょ」
「李俊も?」
「いるわよ」
「じゃあ、あとで好きなだけ揉めなァ」
「揉める前提なの!?」
妖艶に笑いながら、孫二娘が娘を返してくる。
捕らえた水軍大将は、縄を掛けられたまま李俊の前へ座らされた。
「王は都にいるの?」
アタシが尋ねても、男は顔を伏せている。
李俊が告げた。
「答えろ」
大将の肩が動いた。
「……先王は、もういない」
浜の歓声が遠くなる。
「今の王は?」
男が顔を上げた。
「先王を殺し、国を奪った男だ」
逃げてきた老人が、その場へ崩れ落ちた。
隣の女が震えながら尋ねる。
「では……連れていかれた男たちは?」
大将は答えない。
玉楼が方天画戟の石突きを砂へ置いた。
「お答えくださいませ」
男の顔が引きつった。
「都だ。城壁を築かせるため、生きている者は都へ送った」
女が口を押さえ、泣き崩れる。
生きている。
奪われた夫も、父親も、息子も、まだ都にいる。
李俊は海ではなく、遠い岸の方角を見た。
「次は岸だ」
奪った旗艦の上で、白旗が風に翻った。
その向こう、都へ続く海路から、一艘の小舟がこちらへ近づいてくる。
舟の先には、血まみれの男が立っていた。
男は浜へ着く前から叫んだ。
「都が燃えている!」
童威殿とは、たいへん話が早うございます。
必要なことだけを仰いますので、迷うことがございません。
「玉楼、あんた童威と随分息が合ってたねェ……」
孫二娘殿は、娘御を抱いたまま静かに仰いました。
「梁山泊にいた頃から、童威殿のお働きは存じております」
「向こうも、あんたの怪力を知ってたみたいだねェ……」
「成人男性を引き上げる程度でございます」
「普通の女は、片手で男を甲板まで放り上げないよォ……」
放り上げたわけではございません。
丁寧に引き上げたのでございます。
「童威殿は驚いておられませんでした」
「そこが一番おかしいんだよォ……」
孫二娘殿は娘御の背を撫でながら、私を眺めておられます。
「夫婦になっても、三言くらいで話が済みそうだねェ……」
「まだ夫婦ではございません」
孫二娘殿の手が止まりました。
「玉楼」
「はい」
「そこは否定するんだねェ……」
夫婦になるかどうかは、まだ決まっておりません。
ただ――
童威殿のお言葉は、よく分かります。
それだけでございます。




