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梁山泊の一丈青

「二娘、娘お願いね」

孫二娘は赤子を抱きながら、妙に楽しそうに笑った。

「三娘ォ、産後初陣でそんなに平然としてていいのかい?」

「平然としてないわよ!」

「不安を自覚してない時ほど、行動だけ先に出ることがあるんだよォ」

「出陣前に分析しないで!」

玉楼が方天画戟を持ち上げる。

「三娘様、いつもどおり参りましょう」

「それが一番落ち着く」

孫二娘が目を細めた。

「へえェ、玉楼には素直だねェ」

「今そこ拾う!?」

「李俊には『戻れよ』って言われたらどうするんだい?」

「知らない!」

玉楼が首を傾げる。

「お戻りになるのでございましょう?」

「玉楼まで追い込まないで!」

外で太鼓が鳴った。

笑っていられるのは、ここまでだった。

最初の火矢は、三日を待たずに飛んできた。

赤い軌跡が朝の海を裂き、浜へ積んであった薪の束へ突き刺さる。

乾いた木が弾け、火の粉が一斉に散った。

「返事を待つ気、最初からなかったじゃない!」

沖では敵の太鼓が鳴り続けている。

三艘の軍船は横へ広がり、入り江の口を塞ぐように近づいてきた。

船首には弓兵が並び、その後ろで槍の穂先が朝日に光っている。

李俊は海から目を離さなかった。

「濡れ布を被せろ。水を撒くな」

費保がすぐに人を動かす。

昨日逃げ込んできた女たちも、もう守られるだけではなかった。

火へ向かう者がいれば、子どもを奥へ連れていく者もいる。

針仕事をしていた手で濡れた蓆を広げ、屋根へ上がろうとする者までいた。

「無理しないで!」

アタシが叫ぶと、年嵩の女がこちらを睨んだ。

「ここを焼かれたら、また逃げることになります」

返す言葉がなかった。

この人たちは昨日ここへ着いたばかりなのに、もう、この入り江を失いたくないと思っている。

李俊が狄成を呼んだ。

「左右へ舟を出せ。逃げるように見せろ」

「三艘とも入れるのか?」

「真ん中だけだ」

昨夜助けた老人が、震える指で沖を示した。

「潮が引けば、中央に岩が出ます。外から来た者には見えませぬ」

李俊が波と軍船の位置を見比べる。

「半刻か」

「それほどでございます」

「足りる」

李俊は費保へ向き直った。

「沈めるな。船が要る」

費保が眉を上げた。

「三艘ともか?」

「兵は逃がしても、船は逃がすな」

なるほど。

戦う前から、もう勝った後の使い道まで決めている。

国づくりって、本当に夢がない。

いや、たぶん、こういう現実の積み重ねが夢なんだろうけど……

再び矢が浜へ降った。

玉楼が方天画戟を立て、アタシの前へ半歩出る。

「三娘様、矢の間だけでもお下がりくださいませ」

「玉楼の後ろに隠れたら、アタシが出てきた意味ないでしょ」

「出産後、初めての戦でございます」

「知ってる」

知らないふりはできない。

双刀を抜けば、指も手首も以前と変わらず動く。

けれど、身体は完全に昔と同じじゃなかった。

腹へ力を込めた時の感覚も違うし、胸も張りやすい。

何より、家に残してきた娘の顔が何度も浮かぶ。

怖いわけじゃない。

死にたくないだけでもない。

帰らなければならない場所が、前よりはっきり見えている。

「三娘様」

「何?」

「いつもどおり、お隣へ参ります」

玉楼は、それ以上止めなかった。

「それでいいわ」

李俊がアタシを呼ぶ。

「中央が止まったら、右へ乗れ」

「敵将は?」

「右だ」

「分かった」

一歩離れかけたところで、李俊が続けた。

「戻れよ」

短い言葉だった。

でも、それで十分だった。

「言われなくても戻るわよ」

今のアタシには、戦場で死んで格好をつける理由なんて一つもない。

敵の中央船が、狄成たちの舟を追って入り江へ踏み込んできた。

船首に立つ兵たちは、こちらが逃げ出したと思ったらしい。太鼓が速まり、櫂が一斉に水を掻く。

その直後、船底から鈍い音が響いた。

隠れていた岩へ乗り上げ、中央の軍船が大きく傾く。甲板の兵が折り重なり、弓や槍が海へ落ちた。

左右の二艘が進路を変えようとする。

「今だ!」

李俊の声が飛んだ。

狄成と上青の舟が反転し、中央船へ煙壺を投げ込む。濡れた藁を詰めた壺が割れ、白い煙が甲板を覆った。

火を使えば船まで傷む。

見えなくすれば、それで足りる。

費保たちは左へ回り、倪雲の舟が右の軍船へ寄せていく。

アタシと玉楼は、その舟へ飛び乗った。

「女を前へ出したぞ!」

敵兵の笑い声が聞こえる。

本当に、どこへ行っても同じことを言う。

鉤縄が船縁へ掛かった。

倪雲が舟を寄せた瞬間、縄を蹴って身体を持ち上げる。

手を狙って突き出された槍を左の刀で払い、船縁から覗いた兵の顔を右の柄頭で打った。

甲板へ降りた直後、すぐ横で方天画戟が弧を描く。

玉楼へ近づいた兵たちが、まとめて甲板を転がった。

「相変わらず、加減がおかしくない?」

「命は取っておりません」

「そこじゃない!」

狭い船上では、敵が多くても一度に前へ出られる人数は限られる。

アタシが正面を崩し、玉楼が横から伸びる槍を払う。

背中を見る必要はなかった。

足音と風を切る音だけで、玉楼がどこにいるか分かる。

梁山泊でも、方臘との戦でも、何度もこうして並んだ。

違うのは、誰かに命じられて来たのではないことだ。

この戦を選んだのは、アタシたちだった。

敵兵の一人が、船尾へ向かって叫ぶ。

「将軍! 女どもが――」

「見れば分かる!」

甲冑姿の男が、大刀を手に現れた。

倒れた兵とアタシたちを見比べ、口元を歪める。

「女二人で、何ができる」

まだ言うんだ……

「その女二人を、ここまで通したのはそっちでしょ」

大刀が振り下ろされる。

双刀を交差させ、刃を受けた。

重い。

腕へ衝撃が走ったが、力比べをするつもりはない。右の刀で大刀を外へ流し、左で甲冑の継ぎ目を狙う。

敵将が身を引いたところへ踏み込み、柄頭を顎へ叩き込んだ。

男の身体が揺れる。

「梁山泊の一丈青、扈三娘を舐めんじゃないわよ!」

その横で、玉楼が方天画戟を構えた。

「三娘様の副将、呂玉楼もお忘れなく」

……何、その名乗り。

昔見たアニメじゃないんだから。

考えている場合じゃなかった。

敵将が怒鳴り、大刀を横薙ぎに振るう。

身を沈めた頭上を刃が通り、玉楼の方天画戟が大刀の柄へ絡む。

次の瞬間、大刀が甲板へ落ちた。

アタシは敵将の喉元へ刃を突きつける。

「兵を止めなさい」

「王の兵は退かぬ!」

男の手が腰へ動いた。

隠し持っていた短刀が抜かれる。

左の刀で手首を弾き、右を甲冑の隙間へ滑らせた。

敵将の身体が止まる。

刃を抜くと、男は膝をつき、そのまま甲板へ倒れた。

「将軍!」

周囲の兵が動きを止めた。

玉楼が方天画戟の石突きを甲板へ打ちつける。

「武器をお捨てくださいませ。次は命まではお約束できません」

丁寧に言っているけれど、内容が怖い。

兵たちは次々と槍や刀を置いた。

船尾では倪雲が舵を押さえ、上青たちが帆綱を切らずに確保している。

船を壊さず、そのまま使うためだ。

左を見ると、費保たちも敵船へ乗り込んでいた。

指揮官を縛り上げ、こちらへ手を振っている。

中央の軍船も浅瀬へ乗り上げたまま、煙の中で降伏した。

「三艘とも取ったぞ!」

費保の声が海を渡った。

浜から歓声が上がる。

昨日まで軍船を一艘も持っていなかった入り江に、三艘の軍船が加わった。

李俊がこちらの船へ乗り移ってくる。

敵将の亡骸を見ても、表情は変わらない。

「怪我は?」

「ないわよ」

「玉楼は?」

「ございません」

「船は使えるか?」

倪雲が舵を確かめて答えた。

「右と左はすぐ動く。真ん中も潮が戻れば引ける」

李俊が頷く。

「なら、全部もらう」

「もう王様みたいなこと言ってる」

「まだ座ってない」

「そこなの?」

費保が横から笑った。

「座る前から働かされてるけどな」

「夢がない……」

「昨日も言ってただろ」

そうだった。

帰りの舟へ移ろうとした時、胸が張って痛んだ。

そろそろ娘が腹を空かせる頃だ。

そう思った瞬間、戦に勝った実感より先に家へ戻りたくなる。

浜へ着くなり走った。

後ろで玉楼が何か言っていたけれど、聞こえないふりをする。

勢いよく戸を開けた。

「ただいま!」

「おかえりィ」

孫二娘が静かに座っていた。

隣の寝台では、彼女の娘が眠っている。

そして腕の中には、アタシの娘がいた。

怪我はなく、泣いてもいない。

むしろ妙に満足そうな顔をしている。

「……何してるの?」

「乳をやってる」

「それ、アタシの娘なんだけど!」

「知ってるよォ。腹を減らして泣いてたんだ」

「だからって、勝手に……」

「泣かせておけばよかったのかい?」

言い返せない。

孫二娘は産後で以前ほど動き回らない。

なのに、正しいことを言う時だけは前より強くなった気がする。

そこへ李俊が入ってきた。

娘を見て、孫二娘を見る。

ほんの一瞬だった。

でも、見た……

「……李俊」

「何だ?」

「今、どこ見た?」

「娘だ」

「本当に?」

「三娘ォ、帰ってきて最初に揉めるところがそこかい……」

孫二娘が呆れている。

「だって、見えたでしょ!」

「乳をやってるんだから、見えることもあるだろォ」

「開き直らないで!」

李俊は少し黙ってから、孫二娘へ頭を下げた。

「助かった」

「何で李俊がお礼を言うの?」

「父親だからだ」

「それはそうだけど!」

自分でも、何に腹を立てているのか分からなくなってきた。

孫二娘の口元が緩む。

「安心しなァ。李俊はアタイじゃなく、娘しか見てなかったよォ」

「……本当?」

「胸は見えてただろうけどねェ」

「孫二娘!」

娘が驚いて口を離し、泣き出した。

孫二娘に睨まれる。

「母親なら静かにしなァ」

「ごめんなさい……」

戦には勝った。

軍船も三艘奪った。

なのに家へ戻った途端、全部どうでもよくなるくらい負けた気がする。

李俊が娘を受け取ろうとした時、外から難しい顔をした費保が駆け込んできた。

手には、敵将の船室から見つけた文が握られている。

「李俊、あの三艘は討伐軍じゃねえ」

「何だ?」

「先触れだ」

部屋の空気が変わった。

費保が文を開く。

「七日後、王の主力水軍が来る。軍船は三十艘だ」

娘の泣き声の向こうで、奪った三艘の太鼓が鳴った。

「三娘様、なぜ孫二娘殿をあれほど睨んでおられたのですか?」

お尋ねすると、三娘様が固まりました。

「睨んでない!」

孫二娘殿が娘を抱いたまま笑います。

「玉楼、あれは嫉妬ってやつだよォ」

「違うから!」

「李俊がアタイの胸を見たと思ったんだろォ? まぁアタイの方が大きいからねェ」

「言わなくていいの!」

私は少し考えました。

「李俊殿は、お嬢様をご覧になっていたように思いますが」

「ほら!」

「ただ、孫二娘殿の胸元にいらっしゃいましたので、視界には入ったかと」

三娘様が頭を抱えました。

孫二娘殿は、たいへん楽しそうでした。

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