八十まで生きる
「二娘、返事来たんでしょ?」
孫二娘は封を持ったまま、なぜか開けようとしない。
「三娘ォ、期待が大きいほど確認を先延ばしにすることがあるんだよォ」
「心理学で手紙から逃げないで!」
玉楼が首を傾げた。
「では、私が開けましょうか?」
「玉楼、それは駄目だよォ!」
「急に元気!」
孫二娘は観念したように封を切った。
紙には一行だけ。
――八十まで生きる。
「……本気にしたねェ」
「二娘が書いたんでしょ!」
玉楼が真顔で頷く。
「八十まででしたら、まだ十分お時間がございますね」
「玉楼まで真に受けないでおくれよォ……」
その時、浜の方で鐘が鳴った。
今度は、手紙じゃなかった。
武松は、八十まで生きるらしい――
孫二娘の娘が生まれて、二か月ほど過ぎた頃だった。
朝、海から戻った狄成が、一通の文を持ってきた。
六和寺からここまで、いくつもの舟と人の手を渡って届いたものだという。
孫二娘は娘を抱いたまま、封をじっと眺めている。
「開けないの?」
「急かすんじゃないよォ」
「自分から返事を待ってたくせに?」
「待つのと読むのは別だろォ?」
「その理屈、全然分からない……」
めちゃくちゃ睨まれた。
孫二娘が片手で封を切る。
中から出てきた紙には、たった一行しか書かれていなかった。
――八十まで生きる。
「……本気にしたねェ」
「自分で書いたんでしょ」
「八十まで生きろとは書いたけど、本当に返してくる奴がいるかい?」
「武松なら返すんじゃない?」
「だから困ってるんだよォ」
困っているようには見えず、口元が少しだけ緩んでいた。
孫二娘は文を折り畳むと、娘の枕元へ置いた。
「しまわないの?」
「ここでいいのさァ」
「汚されるわよ」
「また書かせればいいだろォ」
「六和寺まで遠いのよ?」
「八十まで生きるんだ。時間ならあるよォ」
そういう問題なのかな……
娘が泣き出すと、孫二娘はすぐ抱き直した。
少し前まで赤子の抱き方も分からないと言っていたのに、今では泣き方を聞いただけで、腹が減ったのか眠いのかまで分かるらしい。
「この子が大きくなったら、武松に会わせるの?」
「さてねェ」
「会いたければって書いたじゃない」
「会いたいのがどっちかは、書いてないよォ」
「面倒くさい母親……」
「父親も面倒だから、丁度いいだろォ」
そこは否定しないわ。
むしろ、わかりみが深い。
外へ出ると、李俊たちが浜に集まっていた。
入り江の向こうに、小さな舟が一艘浮かんでいる。
帆は裂け、舟縁には何人もの人がしがみついていた。
「また文?」
「違う」
李俊は海を見たまま答えた。
「人だ」
舟が近づくにつれ、乗っている者たちの姿が見えてくる。
男はほとんどいない。
女と子どもが身を寄せ合い、櫂を握る老人にも、もう腕を持ち上げる力が残っていないようだった。
倪雲と上青が水へ入り、舟を岸へ引く。
着いた途端、女の一人が砂浜へ崩れ落ちた。
玉楼が駆け寄り、首筋へ指を当てる。
「生きております。水をお願いいたします」
アタシも手伝おうとしたが、幼い男の子を渡された。
泣く力さえ残っていないらしく、腕の中で震えている。
頬は落ち、唇も白かった。
老人は水を少しずつ飲み、ようやく話せるようになると、自分たちが逃げてきた理由を語った。
海沿いの村を治める者が変わった。
それから穀物の取り立てが倍以上になり、出せない家からは若い男が連れていかれた。
次には女を差し出せと言われたという。
耐えきれず、夜のうちに舟で逃げた。
けれど追っ手に見つかり、一艘は途中で失った。
「ほかにもいるの?」
老人が頷く。
この舟へ乗れなかった者たちは、近くの岩場の陰へ隠れているらしい。
怪我をして歩けない者もいるという。
費保が顔をしかめた。
「何人だ」
「三十……いや、四十ほど……」
「ほどって何人だ」
「費保、今そこを詰める?」
「食わせる人数が分からなきゃ、米の量も決められねえだろ」
冷たく聞こえる。
でも、費保はもう狄成へ倉の残りを確かめるよう命じていた。
追い返すつもりなら、人数なんて聞く必要はない。
玉楼は怪我人と病人を分けながら、老人へ尋ねた。
「岩場まで行ける舟はございますか」
「残ったのは、これだけで……」
「では、迎えが必要でございますね」
費保が振り返った。
「待て……もう行く気か?」
「岩場には、歩けない方がおられるのでございましょう?」
「人数も場所も、まだ正確に分かってねえ」
「ご老人に案内していただきます」
「簡単に決めるな」
「置いてくるのでございますか?」
費保が黙った。
玉楼は声を荒らげてもいないし、責めてもいない。
ただ、選べる道を一つずつ消していく。
やっぱり一番怖いの、玉楼なんじゃないだろうか……
「……舟を二艘出す」
「ありがとうございます」
「礼を言われると、俺が決めたみたいになるだろ」
「費保殿がお決めになりました」
「お前が決めさせたんだよ!」
玉楼は、本当に意味が分からないらしく首を傾げた。
費保が諦めたように李俊を見る。
「全員入れるのか?」
「入れる」
「食糧は増えねえぞ」
「人が増える」
「働けない奴もいる」
「今はな」
費保はしばらく李俊を睨んでから、大きく息を吐いた。
「分かった。倉を開ける。回復した奴から働いてもらうぞ」
畑を広げ、家を建て、井戸も増やすらしい。
「国づくりって、もっと王様が偉そうに座ってるものじゃないの?」
「座ってるだけの王なら、最初に追い出される」
「夢がない!」
「夢で腹は膨れねえよ」
そこへ孫二娘が娘を抱いて出てきた。
事情を聞くなり、空いている家を使えと言い、今度は針仕事のできる女たちを呼び集め始める。
「産後なんだから寝てなさい!」
「もう二か月だよォ」
「二か月でも!」
「口と指は動くねェ」
「そういう問題じゃない!」
誰もアタシの言うことを聞かない。
費保から紙と筆を渡され、逃げてきた人たちの名を書き留めることになった。
家族の人数や、できる仕事、怪我や病気の有無を一人ずつ聞いていく。
同じ名の者もいれば、子どもの年齢さえはっきり分からない家もある。
夫や親を連れていかれたままの女は、話の途中で泣き出した。
「国づくりって、ほとんど事務作業じゃない……」
娘をあやしていた李俊が答える。
「戦より長い」
「先に教えてよ……」
「言えば乗らなかったか?」
「乗ったけど、覚悟はしたかった!」
李俊が、ほんの少しだけ笑った。
「今からしろ」
「遅いのよ!」
夕方には、岩場に残されていた者たちも運ばれてきた。
全部で四十七人。
費保が聞いていた数より、七人多い。
「また増やしたのか?」
「浜の洞に、別のご家族がおられましたので」
「見つけても、普通は勝手に乗せねえんだよ」
「見つけた以上、残しては参れません」
費保は空を見上げた。
「李俊……こいつ、三娘より怖くないか?」
「今さらか?」
「知ってたなら先に言え!」
玉楼だけが、不思議そうな顔をしている。
夜までには、全員をどうにか屋根の下へ入れた。
食事は薄い粥になったが、文句を言う者はいない。
最初に抱いた男の子も、空になった椀を胸へ抱えて眠っていた。
アタシはその顔を見ながら、自分がこちらへ来たばかりの頃を思い出す。
何も分からず、怖くて、帰る場所さえなかった。
あの頃のアタシには玉楼がいた。
今、ここへ来た人たちにも、誰かが必要なのだと思う。
全員を救えるなんて思わない。
食べ物が尽きるかもしれないし、病が広がることだってある。
それでも、目の前まで逃げてきた人を、もう一度海へ押し戻すことはできなかった。
「ねえ、李俊」
「何だ」
「国って、いつから国になるの?」
李俊は暗い海を見た。
「守ると決めた時だ」
「土地がある時じゃなくて?」
「土地だけなら岸だ」
「人がいる時?」
「人だけなら流れる」
見張り火の向こうから、今日まで知らなかった人たちの声が聞こえてくる。
「沈めないと決めた時、舟になる」
分かったような、分からないような話だった。
でも、今日ここへ来た人たちを追い返さなかった瞬間に、何かが変わった気はした。
アタシたちは、逃げるために海を渡った。
これまでは、誰かの舟へ乗せてもらう側だった。
今度は、自分たちが進む方角を決める側になる。
翌朝、見張り台の鐘が激しく鳴った。
浜へ駆け出すと、水平線に三艘の大きな軍船が現れていた。
昨日逃げてきた老人が、旗印を見た途端、その場へ膝をつく。
「あれは……私どもを追ってきた王の軍です」
「四十七人のために、あれ全部?」
老人の顔から血の気が引いた。
「逃亡を許せば、ほかの村も続きます。あの方々は、それを何より恐れております」
なるほど。
人を取り返したいんじゃない。
逃げても助かると思わせたくないんだ。
先頭の軍船から矢が放たれ、浜へ突き刺さった。
矢柄には文が結ばれている。
費保が拾って開き、顔をしかめた。
「三日のうちに逃げた奴らを全員返せ。断れば、この入り江を焼くそうだ」
「どうするの?」
李俊は軍船を見据えた。
「返さない」
「国ごと敵に回すぞ」
「もう乗せちまった」
李俊の手が腰の刀へ触れた。
「なら、沈めない」
アタシは腕の中の娘を見る。
少し前まで、この子を無事に産むことしか考えていなかった。
今度は、この子が眠れる場所を守らなきゃいけない。
家へ戻ると、孫二娘が自分の娘を抱いて待っていた。
「預かって」
「行くのかい?」
「ここへ乗せた人たちを、今さら海へ戻せないでしょ」
孫二娘は何も聞かず、片腕を空けた。
「二人とも守るよォ」
「お願いね!」
娘を渡すと、腕が急に軽くなる。
双刀を腰へ差し、外へ出た。
玉楼が方天画戟を手に待っている。
林冲の墓は、遠い海の向こうにある。
それでも、「後ろではない」と言われた玉楼は、今もアタシの隣に立っていた。
「三娘様、お供いたします」
「玉楼は残ってもいいのよ」
「お断りいたします」
やっぱり、そう言うと思った。
娘を産んでから、初めての出陣だ。
今度は、生き残るためだけじゃない。
アタシたちの舟へ乗った人たちを、沈めないために戦う。
海の向こうで、王の軍の太鼓が鳴った。
「玉楼、四十人くらいって聞いて、四十七人連れて帰ってきたの?」
三娘様が、たいへん不思議そうなお顔をなさいました。
「洞に別のご家族がおられましたので」
孫二娘殿が娘をあやしながら笑います。
「三娘ォ、玉楼に『見つけたけど置いてきました』は無理だよォ」
「それは分かるけど、費保が空見上げてたわよ!」
「人数が増えれば、必要な食糧も増えますからねェ」
「二娘まで急に実務的!」
私は首を傾げました。
「ですが、費保殿も倉を開けると仰いました」
「玉楼が言わせたんでしょ!」
「私は『置いてくるのでございますか?』と伺っただけでございます」
孫二娘殿が肩を揺らします。
「三娘ォ、選択肢を一つにしてから本人に選ばせるのは、なかなか怖いよォ」
「やっぱり玉楼が一番怖い!」




