母夜叉も痛い
「二娘、その水溜まり何?」
孫二娘は足元を見たまま、しばらく黙っていた。
「……水をこぼしたんじゃないかねェ」
「飲んでないでしょ」
「三娘ォ、人間には現実を受け入れるまで時間が必要なんだよォ」
「心理学で破水から逃げないで!」
玉楼が寝台を整えながら振り返る。
「孫二娘殿、本日お産みになります」
「玉楼、もう少し段階ってものがあるだろォ!」
「では、まず横になってくださいませ」
「そういう意味じゃないよォ!」
アタシは肩をすくめた。
「諦めなさい。アタシもそれで逃げられなかったから」
孫二娘が、ものすごい目でこっちを見る。
「三娘ォ」
「何?」
「手、貸しなァ」
嫌な予感しかしない。
孫二娘が、アタシの手を握り潰した。
「痛い! ちょっと、力を緩めて!」
「好きなだけ握っていいって言ったのは三娘だろォ!」
「骨まで差し出した覚えはないから!」
「今さら返してやれるかァ!」
完全に立場が逆になっている。
少し前まで、寝台の上で叫んでいたのはアタシだった。
今は孫二娘が横になり、アタシがその手を握っている。
正確には、握られている。
朝、孫二娘の足元に水溜まりができた時、本人はしばらく動かなかった。
玉楼が産婆を呼びに行かせ、寝台へ移るよう言っても、まだ認めようとしない。
「水をこぼしただけかもしれないよォ」
「孫二娘殿は、寝台の脇で水をお飲みになったのでございますか」
「飲んでないねェ」
「では、決まりでございます」
「何が決まったんだい?」
「本日、お産みになります」
玉楼は容赦がなかった。
孫二娘は腹を押さえたまま、アタシを見る。
助けを求める目だった。
残念ながら、アタシは同じ逃げ道を全部塞がれた経験がある。
「諦めた方がいいわよ」
「経験者が冷たいねェ!」
「経験したから言ってるの!」
産婆が来た頃には、痛みの間もだいぶ短くなっていた。
それでも孫二娘は、寝台の上でじっとしていられない。
身体を起こせば玉楼に戻され、歩こうとすればアタシに止められる。
「母夜叉が寝たまま産めるかい!」
「母夜叉かどうかは関係ないから!」
「気合が足りないんだよォ!」
「出産を戦にしないで!」
「三娘だって、李俊に何割責任があるか聞いてただろォ!」
「あれは痛すぎて混乱してたの!」
「アタイも今、かなり混乱してるねェ!」
言い返す勢いはある。
けれど、痛みが来るたびに孫二娘の顔から少しずつ余裕が消えていった。
眉間に皺を寄せても声は出さず、歯を食いしばって息だけで耐えている。
「孫二娘」
返事がない。
「痛いなら、痛いって言っていいのよ」
「誰が……我慢してるって……」
「顔を見れば分かる」
「三娘にだけは、言われたくないねェ……」
「アタシはちゃんと叫んだわよ」
「知ってるよォ。外まで聞こえてたからねェ」
「だったら見習って!」
「見習うところが違うだろォ!」
大きな声を出した途端、孫二娘の身体が強張った。
アタシの手をつかむ指にも力が入る。
「来た?」
「来たかどうか……見れば分かるだろォ……」
「ごめん」
「謝るくらいなら、黙って握られてなァ!」
はい。
今は逆らわない方が良さそうだ。
玉楼は額の汗を拭いながら、産婆の指示に合わせて孫二娘の身体を支えている。
アタシの時も、こうしていたのだろう。
あの時は痛みで周りを見る余裕なんてなかった。
今の玉楼は、必要な布を先に用意し、湯の具合まで確かめている。
産婆が何か言えば、次に要る物をすぐ差し出した。
「玉楼」
「はい」
「前より手慣れてない?」
「三娘様のお産で、十分に学ばせていただきました」
「アタシ、教材だったの?」
「たいへん分かりやすい教材でございました」
「どういう意味!?」
「三娘ォ、今はアタイの番だよォ! 横で騒ぐんじゃない!」
怒られた。
孫二娘は苦しそうなのに、まだアタシへ突っ込む余裕だけは残っている。
やがて、産婆がもう近いと告げた。
孫二娘が薄く目を開く。
「その近いは、本当に近いのかい?」
「今度こそ本当でございます」
玉楼が答えた。
「三娘の時も、似たようなことを言ってなかったかい?」
「お二人とも、疑い深いのでございます」
「信用を失う言い方をする方が悪いのよ」
「三娘まで産婆を責めるんじゃないよォ!」
産婆は呆れた顔で、まだ話せるなら大丈夫だと言った。
その言葉どおりなのか、しばらくすると孫二娘は話さなくなった。
痛みが来るたびに息を吸い、身体へ力を込める。
その繰り返しだけになっていく。
汗で髪が頬へ貼りつき、唇から色が消えていた。
アタシは握られた手を離さず、孫二娘の顔を見る。
この人は、苦しい時ほど笑い、怖い時ほど強がる。
十字坡でも、二龍山でも、戦場でも、たぶんそうやって立ってきた。
でも今は、誰かと戦っているわけじゃない。
勝つ必要もない。
「孫二娘」
「何だい……」
「ここにはアタシも玉楼もいるから」
孫二娘の目が、少しだけ動いた。
「李俊たちも外にいる。一人で耐えなくていいのよ」
「一人じゃ……ないさァ……」
「うん」
「腹の中にも、いるからねェ……」
そう言って、孫二娘は目を閉じた。
次の痛みが来る。
指が食い込んだ。
今度は痛いと言わなかった。
好きなだけ握ればいい。
手くらいなら、後でどうにでもなる。
産婆の声が大きくなり、玉楼が孫二娘の肩を支えた。
「もう一度でございます」
「もう何度やったと思ってるんだい……」
「今度で最後にいたしましょう」
「玉楼が決めることじゃないだろォ……」
「では、孫二娘殿がお決めくださいませ」
孫二娘は苦しそうに笑った。
「本当に、意地が悪い女だねェ……」
「お褒めにあずかり、光栄でございます」
また痛みが来た。
孫二娘の身体が丸まり、喉の奥で堪えていた声が、やがて抑えきれずに外へ出る。
その途中で、誰かの名が聞こえた。
「武松……」
アタシは何も言わず、玉楼も顔を上げなかった。
聞こえなかったことにしたんじゃない。
孫二娘が口にしたものを、勝手に拾わないだけだ。
武松はここにはいないし、夫でもなければ、孫二娘を迎えに来る男でもない。
それでも、この子の父親であることは変わらなかった。
孫二娘はその事実を隠そうとしない。
でも、誰かに説明して回るつもりもないらしい。
それでいい。
「孫二娘、もう少し!」
「三娘ォ……」
「何?」
「あの台詞……もう一度言ったら、殴るよォ……」
「どの台詞?」
「死ぬほど痛いってやつだよォ!」
「今は言わないわよ!」
「今だから言うと思ったんだよォ!」
「アタシを何だと思ってるの!?」
「空気を読まない女だねェ!」
「産んでる最中に悪口言わないで!」
「お二人とも、お静かに」
玉楼に叱られ、なぜか孫二娘と二人で黙る。
その直後、産婆が声を上げた。
孫二娘の手が、アタシの指を強く締める。
身体が震え、息が止まった。
長い一瞬だった。
やがて、産婆の腕の中から小さな声が上がった。
弱い。
でも、確かに聞こえた。
孫二娘が目を開く。
「泣いたかい?」
「泣いてる」
「生きてるかい?」
「生きてるわよ」
産婆が赤子の身体を拭き、布へ包んだ。
「姫君でございます」
玉楼の声が、わずかに揺れた。
また女の子だった。
孫二娘は起き上がろうとして、すぐ顔をしかめる。
「無理しないで」
「見せなァ」
産婆から受け取った赤子を、玉楼が孫二娘の胸元へ運んだ。
孫二娘は恐る恐る腕を動かした。
戦場で人を殴り倒す時より、ずっと慎重な手つきだった。
「小さいねェ……」
「生まれたばかりだから」
「三娘の娘も、こんなだったかい?」
「もう少し可愛かったかも」
「今すぐ外へ出なァ」
「冗談よ!」
赤子が口を開き、また泣いた。
孫二娘は驚いたように身体を揺らし、それから笑う。
いつもの大きな笑い方じゃない。
声もなく、口元だけが緩んでいた。
「アタイの娘かい」
「そうよ」
「本当に?」
「ほかに誰が産んだのよ」
「三娘ォ、前にも同じようなこと言われてたねェ」
「今なら分かるでしょ」
「ああ、分かったよォ」
赤子の手が、孫二娘の指をつかんだ。
孫二娘はしばらく動かなかった。
「強いねェ」
「孫二娘の娘だもの」
「あいつに似たら、もっと面倒になるよォ」
「孫二娘に似ても大差ないでしょ」
「父親も母親も面倒なら、逃げ道がないねェ」
「生まれたばかりで決めつけないでよ」
孫二娘は娘を見つめたまま笑った。
「でも、生きるには丁度いいだろォ」
その言葉だけは、冗談には聞こえなかった。
戸を開けると、李俊がアタシの娘を抱いて待っていた。
費保たちに童威・童猛まで揃っている。
「何で全員いるの?」
「待ってた」
費保が答えた。
「暇なの?」
「国づくりの仲間が増えたんだ。顔くらい見に来るさ」
「女の子よ」
費保が笑う。
「また姫か。李俊の国は、女の方が強くなりそうだな」
「もう強い」
李俊が平然と言った。
「ちょっと、それ誰のこと?」
「分からないのか」
「分かってるけど言わせたいの!」
費保が吹き出した。
「お前ら、子供が増えても変わらねえな」
「誰のせいよ」
「俺ではない」
「そこだけ即答しないで!」
李俊はアタシの娘を抱いたまま室内へ入り、孫二娘のそばに立った。
「無事か?」
「死ぬかと思ったよォ」
「戻ったな」
孫二娘は腕の中の娘を見る。
「二人でねェ」
「ああ」
少し間を置いて、孫二娘が李俊を見上げた。
「父親がここにいなくても、置いてくれるのかい?」
李俊は少しも迷わなかった。
「もういる」
「誰の子か、聞かないのかい?」
「聞く必要があるか」
「それでも?」
「同じ舟だ。沈めない」
孫二娘は目を細めた。
「ずいぶん簡単に言うねェ」
「難しくする必要がない」
その答えを聞くと、孫二娘は長く息を吐いた。
「じゃあ、この子も世話になるよォ」
「任せろ」
武松の代わりに父親になろうという話じゃない。
李俊はただ、この場所に来た者を岸から追い落とさない。
それだけだった。
夜になると、二人の赤子が交互に泣いた。
一人がようやく眠ったと思えば、今度はもう一人が起きる。
玉楼は平然と動き、李俊もアタシの娘を抱いて部屋の中を歩いていた。
費保たちは最初の泣き声で外へ逃げた。
「国を作る前に、こっちが沈みそうね」
「三娘の娘の方がうるさいよォ」
「孫二娘の娘でしょ」
「アタイの娘は声が通るだけさァ」
「それをうるさいって言うの!」
疲れているはずなのに、孫二娘は笑っていた。
胸元では、娘が眠っている。
六和寺で武松と過ごした夜の細かいことまで、アタシは聞かなかった。
これからも聞くつもりはない。
でも、この子がいつか父親を知りたいと言った時、孫二娘は隠さないだろう。
強くて、面倒で、片腕になっても生き続けた男だと話すはずだ。
翌朝、孫二娘は玉楼へ紙と筆を持ってこさせた。
「武松へ知らせるの?」
「父親だからねェ」
「何て書くつもり?」
孫二娘は筆を持ったまま、しばらく考えた。
やがて紙へ、太い字を並べる。
文は短かった。
娘が生まれた。
アタイに似て、元気だ。
そこまで書いてから、孫二娘は一度だけ筆を止めた。
そして最後に、もう一行加えた。
――会いたければ、八十まで生きなァ。
「玉楼、アタシのお産を教材って言ったわよね?」
三娘様が、まだ根に持っておられました。
「たいへん勉強になりましたので」
「褒めてない!」
孫二娘殿が娘を抱いたまま笑います。
「三娘ォのおかげで、アタイの時は手際が良かったよォ」
「そこで感謝されるのも複雑なんだけど!」
「実地経験は重要でございます」
「玉楼まで言い切らないで!」
孫二娘殿が私を見ました。
「ところで玉楼、次はもっと上手くなるのかい?」
「はい、今回も学ばせていただきました」
三娘様と孫二娘殿が同時に黙ります。
「……次って誰よ?」
お二人とも、なぜ私を見るのでしょう。




