あの時、負けていなければ
「二娘、そのお腹、もうアタシが産む直前くらいじゃない?」
「人の腹を基準器にするんじゃないよォ」
「だって比較対象がアタシしかいないし」
玉楼が孫二娘の腹を見つめた。
「確かに、いつ始まっても不思議ではございません」
「玉楼まで脅かすんじゃないよォ」
「事実を申し上げただけでございます」
孫二娘が顔をしかめる。
「三娘ォ、経験者として何か助言はないのかい?」
「あるわよ」
「何だい?」
「死ぬほど痛いわよ」
「それは前回聞いたよォ!」
アタシたちが笑った、その直後だった。
遠くで、見張り台の鐘が鳴った。
林冲が死んだ……
六和寺を離れて、半年後のことだった。
その報せがアタシたちのもとへ届いたのは、それから三か月近く経ってからだった。
その報せを持ってきた舟は、朝靄の中から現れた。
見張り台の鐘が鳴り、費保が浜へ下りる。
しばらくして戻ってきた時、手には一通の文があった。
封に書かれていた名は、武松。
嫌な予感はした。
それでも、娘を抱いたまま封を切った。
最初の一行を読んだところで、指が動かなくなった。
「三娘?」
孫二娘が隣から文を覗き込もうとする。
その腹は、もう誰が見ても分かるほど大きい。
アタシは文を折りかけて、やめた。
隠したところで、書かれていることは変わらない。
「林冲が……死んだ」
声に出すと、本当になった。
玉楼が口元へ手を当て、孫二娘は何も言わなかった。
李俊だけが、アタシから娘を受け取ろうと手を伸ばした。
「読むわよ」
アタシは首を振り、娘を抱く腕へ少し力を入れて、もう一度文へ目を落とした。
武松の字は、太くて不格好だった。
林冲は六和寺で息を引き取った。
倒れてから最後まで、右の手足は戻らなかったらしい。
言葉も以前のようには出なかった。
それでも意識ははっきりしていて、僧たちの助けを借りながら、左手だけで食事を取り、身体を起こす稽古も続けていた。
死んだのは、夜明け前だった。
苦しまず、眠るように呼吸が止まった。
武松が、そばにいた。
「最期まで、一人じゃなかったんだ……」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
文には、アタシの娘が生まれたことも林冲へ伝えたと書かれている。
それを聞くと、林冲は左側の口元だけで笑ったらしい。
声にはならなかった。
けれど、腹の前で左手を動かした。
六和寺で別れた時と同じ仕草だったと、武松は書いていた。
守れ――
たぶん、そう言いたかったのだと思う。
「武松は?」
孫二娘が尋ねた。
「六和寺に残るって」
「そうかい」
それだけだった。
でも、孫二娘の手は大きくなった腹の上で止まっていた。
武松の文は短い。
林冲の蛇矛は自分が預かる。
僧たちと弔い、墓も六和寺に作った。
そして最後には、
自分はまだ死なない。
そう書かれていた。
武松らしいと思った。
林冲の死を知らせる文なのに、自分は生きると、わざわざ書く。
たぶん、孫二娘にも向けた言葉だ。
「死なないってさ」
文を差し出すと、孫二娘は一度だけ目を閉じた。
「そうかい」
また同じ言葉だった。
それ以上は聞かなかった。
アタシも文を畳んだ。
泣けなかった。
悲しくないわけじゃない。
ただ、林冲が死んだという事実が、まだ身体の中まで入ってこない。
九か月ほど前、六和寺の裏門で別れた時、また会えるかと聞いた。
林冲は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
それでも、アタシはどこかで、もう一度会えると思っていた。
海の向こうで暮らしが落ち着いて、娘を連れて六和寺へ戻れる日が来たら、全部見せて驚かせようと思っていた。
アタシが生き残り、李俊と一緒にいて、娘まで産んだところを……
でも、もう間に合わない。
「三娘様」
玉楼が静かに呼んだ。
「少し歩く」
「姫君をお預かりいたします」
「連れていく」
玉楼は止めなかった。
李俊も何も言わず隣へ並び、玉楼も少し後ろをついてくる。
入り江の外れまで行くと、海が見えた。
波は穏やかだった。
向こうに宋がある。
六和寺も、林冲の墓も、ここから見えるはずがない。
それでも北の方角を探した。
「玉楼」
「はい」
「覚えてる?」
何のことか説明しなくても、玉楼には分かったらしい。
「もちろんでございます」
「アタシ、あの時ずっと怖かった」
「存じております」
「身体は勝手に動くのに、中のアタシは何もできなかった」
こちらの世界へ来たばかりの頃、何が起きているのか分からなかった。
知らない土地で、知らない人たちに囲まれて、自分の名前さえ自分のものじゃない気がしていた。
危険が迫れば、身体だけが先に反応する。
馬を走らせ、双刀を振るう。
どうしてそんなことができるのか、アタシには分からなかった。
止め方さえ知らなかった。
自分が誰かを斬るたびに、身体の奥へ置いていかれるようで怖かった。
林冲と会った時も同じだった。
アタシは勇敢だったわけじゃない。
何でも切り抜けられると思っていたわけでもない。
身体が戦っていただけだ。
その身体を、林冲は正面から打ち破った。
蛇矛が来る。
避けたはずなのに、次の瞬間には馬上から落とされていた。
息ができず、土の上で空を見た。
捕まったらどうなるのか分からなくて、怖くて仕方なかった。
その後に起きたことを思えば、あの敗北を良かったことになんてできない。
梁山泊へ連れていかれ、王英との婚姻まで勝手に決められそうになった。
アタシの気持ちなんて、誰も聞こうとしなかった。
「負けてよかったなんて、絶対に言わない」
娘を抱いたまま、海へ向かって言った。
玉楼が頷く。
「はい」
「でも……」
言葉が続かなかった。
腕の中で娘が動き、小さな手が着物をつかんだ。
あの日、林冲に負けていなかったら、梁山泊へは行かなかったかもしれない。
王英との婚姻に抗うことも、孫二娘と南へ来ることも、李俊の舟へ乗ることもなかった。
この娘を抱いている今だって、なかったかもしれない。
玉楼だけは、あの敗北より前からアタシのそばにいた。
何も分からず怯えていた頃も、身体だけが戦っていた頃も一緒だった。
それでも、今と同じ場所に二人で立っていたかどうかは分からない。
「あの時、林冲に負けていなかったら、今のアタシはなかった」
口にすると、不思議なくらい静かだった。
敗北を許したわけじゃない。
捕らえられたことも、その後に押しつけられた運命も、正しかったとは思わない。
ただ、あの日から道が変わった。
林冲に馬から落とされた場所から、アタシは自分で立ち上がった。
王英を拒み、梁山泊の決まりに逆らい、戦場では何度も生きる方を選んだ。
最後には、自分の意思で李俊の手を取った。
林冲がアタシをここまで連れてきたわけじゃない。
ここまで来たのは、アタシ自身だ。
それでも、最初に別の道へ押し出したのは、あの敗北だった。
「林冲殿は、三娘様がお強くなられたことを、ご存じだったと思います」
玉楼が言った。
「身体じゃなくて?」
「はい」
六和寺で林冲は、動かない右半身を抱えながら、アタシへ「行け」と言った。
初めて会った時とは違う。
今度は捕らえるためじゃなく、送り出すために。
アタシは娘の顔を見た。
眠っている。
林冲は、この子を直接見ることはできなかった。
それでも、生まれたと聞いて笑ってくれた。
「……ありがとう」
海へ向かって言った。
本人には、一度も言えなかった。
負けた日のことへ感謝しているわけじゃない。
最後にアタシが選んだ道を認め、六和寺で「行け」と送り出してくれた。
それに、半年だけでも戦場ではない場所で生きてくれた。
「ありがとう、林冲」
波が岸へ寄せ、足元で崩れた。
返事はない。
遠すぎて、六和寺の鐘も聞こえない。
それでも、言えてよかったと思った。
李俊が黙ったまま隣にいる。
「何も言わないの?」
「見送っている」
「誰を?」
「お前が見ている者をだ」
相変わらず説明が少ない。
そういうところだけ、なぜか林冲に似ている。
でも今は、それで良かった。
アタシは娘を抱き直し、海へ背を向けた。
林冲は死んだ。
アタシは生きている。
それは勝ち負けじゃない。
ただ、それぞれが選んだ場所で、最後まで生きたということだ。
家へ戻ると、孫二娘が待っていた。
目元が少し赤かったけれど、何も言わない。
「済んだかい?」
「うん」
「なら飯にしようねェ。腹の子が、さっきからうるさいんだよォ」
「二娘に似たんじゃない?」
「三娘の娘ほどじゃないさァ」
いつもの声だった。
それがありがたかった。
林冲の文は、箱の奥へしまわなかった。
李俊から届いた文と一緒に、すぐ取り出せる場所へ置いた。
忘れないためじゃない。
忘れるはずがなかった。
それから、幾日も経たない朝、孫二娘が寝台の脇で立ち尽くしていた。
床には、小さな水溜まりができている。
アタシと玉楼が、同時にその腹を見た。
孫二娘は引きつった顔で笑った。
「三娘……」
「何?」
「今度は、本当にアタイの番らしいよォ」
孫二娘殿は、床の水溜まりを見たまま動きませんでした。
「二娘、座った方がいいんじゃない?」
「三娘ォ……急に経験者ぶるんじゃないよォ」
「経験者だもん」
「一回で先輩面するなァ!」
三娘様が少し得意そうに胸を張られます。
「大丈夫。玉楼が全部やってくれるから」
「私に丸投げなさらないでくださいませ!」
孫二娘殿は腹を押さえながら、珍しく真顔になりました。
「これが予期不安ってやつかねェ……知識があるほど怖くなる場合もあるんだよォ」
「じゃあ心理学、役に立ってないじゃない」
「今それを言うなァ!」
その直後、孫二娘殿の顔が固まりました。
「……三娘ォ」
「何?」
「来た……」
どうやら、待ったなしでございます。




