死ぬほど痛いわよ
「二娘、出産ってどれくらい痛いの?」
「何でアタイに聞くんだよォ。まだ産んでないよ」
「心理学者でしょ?」
「痛みの認知なら説明できるけど、産道を通す実習はないねェ」
「当たり前でしょ!」
玉楼が呆れたようにこちらを見た。
「三娘様、今から案じても仕方ございません」
「玉楼は怖くないの?」
「私が産むわけではございませんので」
「急に他人事!」
孫二娘が腹を抱えて笑う。
「安心しなァ。始まったら考える余裕なんてなくなるよォ」
「それ、全然安心できない!」
その時、腹の奥がきゅっと縮んだ。
「……二娘」
「何だい?」
「今の、心理学で何とかならない?」
朝、寝台から起き上がろうとした時、脚の間を温かいものが伝った。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
布団を見ると、濡れている。
「……嘘でしょ?」
漏らした?
いや、違う。
たぶん違う。
違ってほしいという意味じゃない。
もっと面倒な方だ。
「玉楼」
声をかけると、隣の部屋ですぐ物音がした。
戸が開き、玉楼が入ってくる。
「いかがなさいましたか」
「たぶん、始まったわ」
玉楼の目が濡れた布団へ下り、すぐアタシの腹へ移った。
「痛みはございますか」
「ちょっとだけ」
答えた直後、腹の奥が硬く縮んだ。
下腹から腰まで、まとめて内側へ絞られる。
思わず寝台の端をつかんで息を止めると、玉楼が何も言わず数を取り始めた。
「何で数えてるの?」
「痛みの間を見ております」
「まだ出産って決まったわけじゃないでしょ」
「三娘様」
「何?」
「今回は、腹がさらに大きくなるまでお待ちになることはできません」
妊娠そのものを認めなかった頃の話を、今ここで持ち出さなくてもいいと思う。
玉楼は廊下へ出ると、近くにいた女たちへ湯と布の支度を頼んだ。
海を越えてから、五か月近くが過ぎていた。
アタシたちは南の入り江に仮の居場所を作っている。
国なんて呼べるものじゃない。
費保たちが木を切り、童威と童猛が舟着き場を整え、海を渡ってきた人たちも手を貸して、ようやく柵と倉と家が並び始めた程度だ。
それでも宋の兵は踏み込んでこないし、夜に武器を抱えたまま眠る必要もない。
アタシにとっては、それだけでも十分だった。
ただし、今日に限っては逃げ場がない。
「三娘、とうとう来たのかい?」
孫二娘が戸口から顔を出した。
その腹も、今でははっきり丸くなっている。
アタシより小さいとはいえ、少し前まで何もなかった身体にはもう見えない。
「たぶんね……」
「また、たぶんかァ」
「初めてなんだから分からないのよ!」
「布団が濡れて腹が痛いなら、ほかに何があるんだい?」
「水分の取りすぎとか……」
「どこから出てると思ってるんだよォ」
言い返そうとした瞬間、また痛みが来た。
さっきより強い。
寝台の縁を握り、身体を丸めてやり過ごす。
孫二娘の笑いが消えた。
「……大丈夫かい」
「大丈夫に見える?」
「見えないねェ」
「じゃあ聞かないで……」
玉楼が戻ってきた。
後ろには、入り江近くの村から呼んだ産婆がいる。
日に焼けた小柄なお婆さんで、アタシを見るなり腹へ手を当てた。
しばらく様子を確かめたあと、玉楼へ何か告げる。
「まだ少しかかるそうでございます」
「これで、まだ少し?」
「そのようでございます」
「もう結構痛いんだけど?」
「これから、さらに強くなるとのことでございます」
「聞きたくなかったわ!」
孫二娘が自分の腹を押さえながら、一歩下がった。
「アタイ、今からでもやめられないかねェ」
「無理でしょ!」
「三娘を見てたら、急に現実味が出てきたよォ」
「こっちは現在進行形なの!」
外が騒がしくなった。
朝から費保たちと舟着き場を見ていた李俊が戻ってきたらしい。
玉楼が戸を閉める前に、その姿が見えた。
「三娘は?」
「始まりました」
玉楼が答える。
李俊はそのまま中へ入ろうとしたが、産婆に押し戻された。
「何で入れないのよ!」
「男は外で待つものだそうでございます」
「作ったのは李俊なのに!?」
「その言い方はおやめくださいませ!」
孫二娘が吹き出した。
「三娘、今さら李俊へ責任を取らせる気かい?」
「半分は李俊の責任でしょ!」
戸の向こうから、すぐ李俊の声が返ってきた。
「半分ではない」
「じゃあ何割よ!」
「全部、引き受ける」
こんな時まで真面目に答えなくていい。
なのに、その一言で少しだけ息が楽になった。
痛みは、時間がたつほど強くなった。
腹だけじゃない。
腰も背中も、身体の奥まで引き裂かれそうになる。
戦で斬られた時とは違う。
傷口があるわけじゃないから、どこを押さえても逃げられない。
痛みが引いている間だけ息を整え、次が来ると分かっているから、その短い休みさえ怖くなる。
「もう無理……」
何度目か分からない言葉が漏れた。
玉楼が額の汗を拭う。
「三娘様、もう少しでございます」
「さっきから、ずっともう少しって言ってない?」
「今度こそ、もう少しでございます」
「信用できない……」
孫二娘がアタシの手を握っていた。
痛いと言われてもおかしくないくらい力を込めているのに、離そうとしない。
「二娘、手……折れるかも……」
「好きなだけ握りなァ」
「自分も妊婦なのに、大丈夫?」
「今日は三娘の番だよォ」
玉楼がすぐ振り返った。
「順番のお話ではございません。孫二娘殿も長く立っていてはいけません」
「今それを言うのかい?」
「お二人とも、私の言うことをお聞きになりませんので」
「玉楼が一番大変そうね……」
「お気づきでしたら、少しは素直になってくださいませ」
次の痛みで、返事は声にならなかった。
身体が勝手に力む。
止めようとしても止まらない。
こちらの世界へ来たばかりの頃も、そうだった。
何が起きているのか分からず、ずっと怯えていた。
危険が迫れば、身体だけが先に動いた。
馬を操って、双刀を振るい、敵を斬った。
あの頃は、自分の身体なのに自分のものじゃないみたいで怖かった。
今も思いどおりにはならない。
けれど、あの時とは違う。
誰かを斬るためじゃない。
腹の中にいる子を、この世界へ出すために動いている。
痛みが来るたび怖くなり、今すぐここから逃げたくなる。
それでも今度は、身体に任せていいと思えた。
「李俊!」
気づけば名前を叫んでいた。
戸の向こうから、すぐ返事が来る。
「いる」
「これ、本当にアタシ一人でやるの!?」
「一人じゃない」
短い声だった。
隣には玉楼と孫二娘がいて、戸の向こうには李俊がいる。
湯を運び、布を替え、外で待っている人たちまでいた。
一人じゃない。
だったら、やるしかない。
「もう一度でございます!」
玉楼の声に合わせて息を吸った。
ありったけの力を込める。
身体の奥を引き裂かれたような痛みが走り、声を抑える余裕なんてなかった。
叫んだ。
孫二娘の手を握り潰しそうになった。
その直後――何かが身体から抜けた。
急に腹の重みが変わる。
辺りが静かになった。
ほんの一瞬だったはずなのに、嫌になるほど長く感じた。
「何で泣かないの……?」
声が震えた。
産婆が赤ん坊を抱き上げ、背を軽く叩く。
次の瞬間、小さな口から大きな声が上がった。
部屋の空気を切り裂くような産声だった。
胸の奥に残っていた力が、一気に抜ける。
「……生きてる?」
「お元気な姫君でございます」
玉楼が笑っていた。
泣いてもいた。
孫二娘は握られて真っ赤になった手を振りながら、顔をくしゃくしゃにしている。
「三娘、やったねェ」
「本当に……いた……」
「今さらそこからかい!」
産婆から渡された赤ん坊は、驚くほど小さかった。
でも温かい。
目を閉じたまま、顔を真っ赤にして泣いている。
アタシの胸へ置かれると、その声が少しだけ弱くなった。
「アタシが産んだの?」
「ほかに誰が産んだんだよォ」
「だって、信じられない……」
腹の中にいた子が、今は腕の中にいる。
李俊の子。
アタシの娘。
王英との婚姻を拒み、梁山泊を抜け、戦場をいくつも越えてきた。
方臘との戦では、何度も死ぬと思った。
それでも、ここまで来た。
生き残ったアタシが、新しい命を抱いている。
そう思ったら、また涙が出た。
今度は隠す気にならなかった。
戸が開く。
李俊が入ってきた。
後ろから費保たちまで覗き込んでいる。
「多すぎるから、入るのは李俊だけにして!」
費保が外から笑った。
「元気じゃねえか!」
「産んだばっかりなのよ!」
「それだけ怒鳴れりゃ大丈夫だ!」
戸が閉められた。
李俊は寝台のそばへ来ると、娘を見下ろした。
戦場でも海でも見たことのない顔をしている。
「抱く?」
李俊の手が止まった。
「軽いぞ」
「まだ渡してないんだけど」
「見れば分かる」
「それ、前にも聞いた」
腕の中へ娘を渡す。
李俊は、大きな荷を扱う時より慎重に抱いた。
首が傾くと、玉楼がすぐ手を添える。
「こちらを支えてくださいませ」
「こうか」
「はい」
国を作ると言った男が、赤ん坊一人を抱いて固まっている。
ちょっと面白い。
「軽いな」
「アタシは死ぬほど重かったんだけど」
李俊は娘を見たまま頷いた。
「よく戻した」
「何を?」
「二人とも、岸へ戻した」
相変わらず、言い方が李俊だった。
でも意味は分かった。
娘を抱いた李俊の腕へ、指先だけ触れる。
「ただいま」
「ああ」
孫二娘が隣から赤ん坊を覗き込んだ。
「次は、アタイかァ」
アタシは全身の力を使い切ったまま、孫二娘を見る。
その腹は、もう他人事では済まないくらい丸くなっていた。
だから、できるだけ真剣な顔で言った。
「二娘……」
「何だい?」
「死ぬほど痛いわよ」
孫二娘の顔が引きつった。
「そこで、その台詞を使うのかい!?」
「今しかないでしょ……」
「名台詞を出産へ持ってくるんじゃないよォ!」
「でも、本当に死ぬほど痛かったの……」
「急に実感を混ぜるなァ!」
笑おうとしたら、身体中が痛んだ。
顔をしかめると、孫二娘も笑うのをやめた。
「三娘」
「何?」
「死ななかったんだねェ」
「うん」
「じゃあ、アタイも何とかするさァ」
孫二娘が自分の腹へ手を添えた。
その瞬間、目を見開く。
「どうしたの?」
孫二娘は答えず、腹を見下ろした。
手のひらへ、内側から何かがはっきり押し返してくる。
孫二娘が、ゆっくり笑った。
「聞いてたみたいだねェ」
「何を?」
「次はアタイだって話さァ」
その夜、新しく生まれた娘の泣き声と、まだ腹の中にいる子の動きが、同じ屋根の下で初めて重なった。
李俊殿は、姫君を抱いたまま固まっておられました。
「玉楼、あれ大丈夫?」
「落とさぬよう慎重なのでございましょう」
孫二娘殿が笑います。
「三娘ォ、戦場より緊張してるんじゃないかい?」
「アタシは産んだばっかりなんだけど!?」
その時、姫君が泣き出しました。
李俊殿が私をご覧になります。
「どうすればいい?」
「私にお尋ねになりましても……」
「玉楼まで分からないの!?」
「皆、初めてでございます」
孫二娘殿が腹を撫でました。
「じゃあ、アタイの時までに覚えといておくれよォ」
三娘様が即座に答えます。
「二娘も一緒に覚えるの!」
どうやら、育児も総がかりになりそうでございます。




