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一艘ではない

「二娘、これって駆け落ちになるの?」

「国を作りに行く駆け落ちは初めて聞いたねェ」

玉楼が真面目な顔で首を傾げた。

「三娘様。駆け落ちにしては、同行者が多すぎるかと存じます」

「問題そこ!?」

孫二娘がアタシのお腹を見る。

「しかも一人増えてるしねェ」

「人数に入れないで!」

「李俊は行き先も教えてくれないんだろォ?」

「着けば分かるって」

「情報を制限すると、不確実性で執着が強まることも――」

「心理学で夫婦関係を分析しないで!」

その時、玉楼が舟の先へ目を向けた。

「三娘様。どうやら、着くようでございます」

ねぇ……

李俊、何を隠してるの?

六和寺の山が見えなくなっても、李俊の言葉は耳に残っていた。

俺たちが沈まない国を作る。

さらっと言ったけれど、内容が重い。

普通は、もう少し段階を踏まない?

まず安全な場所へ逃げて、暮らしを整えて、それから将来の夢を語るものじゃないの?

なのに李俊は、迎えに来たその日に国を作ると言った。

しかも、冗談を言う顔じゃなかった。

それから幾日か、水路をたどって太湖まで来ても、アタシの疑問は消えていない。

「ねえ、本気なの?」

「何がだ」

「国を作るって話」

「本気でなければ、舟は出さん」

李俊は太湖の水面を見たまま答えた。

「でも、国って舟一艘で作れるものじゃないでしょ」

「一艘ではない」

「え?」

それ以上は答えない。

隣で孫二娘が笑っている。

「三娘ォ、迎えが来た途端に注文が多いねェ」

「注文じゃない。確認してるの」

「李俊は最初から全部話す男じゃないだろォ」

「知ってるけど、今のは大事なところでしょ!」

「着けば分かる」

李俊が短く言った。

また、それだ。

こっちは腹の中にもう一人抱えているのに、行き先も人数も全体像も教えられないまま舟に乗せられている。

以前のアタシなら、もっと不安になっていたと思う。

今は、李俊が黙っている時ほど、口より先に手を動かしていると分かっている。

それでも気になるものは気になる。

舟は広い水面を離れ、葦の茂る細い水路へ入った。

童威が棹を取り、童猛が張り出した枝を払いながら進む。

外から見れば行き止まりにしか見えないのに、葦の奥には舟一艘が通れるだけの水の道が続いていた。

やがて木々の間から屋根が現れる。

太湖沿いに建つ、大きな屋敷だった。

「ここは?」

「榆柳荘だ」

その名には覚えがある。

前に李俊たちと偵察へ出た時、費保たちが暮らしていた場所だ。

岸には四人の男が並んでいた。

費保、倪雲、上青、狄成。

全員、以前と変わらないように見える。

少なくとも、遠目には。

舟が岸へ寄せられ、綱が杭へ回されると、李俊が先に降りてアタシへ手を差し出した。

「また?」

「腹がある」

「自分でも分かってるわよ」

「なら取れ」

後ろから孫二娘が口を挟む。

「夫婦喧嘩は降りてからにしなァ」

「喧嘩じゃない!」

「じゃあ夫婦漫才かい?」

「誰が漫才してるのよ!」

結局、李俊の手を借りて岸へ上がった。

玉楼がすぐ後ろへ続き、孫二娘は身軽に飛び移る。

費保はアタシの顔を見たまま、しばらく何も言わなかった。

だから、こちらから頭を下げる。

「お久しぶりです」

玉楼も隣で一礼した。

「ご無沙汰しております」

孫二娘は片手を上げる。

「元気そうだねェ」

費保の視線が、アタシの丸くなった下腹へ移った。それから大きく息を吐く。

「本当に来ちまったよ。しかも妊婦になって……」

「何ですか、その言い方?」

「文句じゃねえ。驚いてるんだ」

「李俊から聞いてなかったんですか?」

「身重だとは聞いた。だが、前に会った時は、こんな腹じゃなかっただろ」

「当たり前でしょ。あの時は何もなかったんだから」

費保は李俊を見る。

次に、もう一度アタシを見た。

何か勝手に納得したらしく、顎を撫でる。

「まあ、別嬪な嫁さんで良かったな」

李俊へ向けた言葉なのに、アタシが先に答えた。

「当たり前じゃない!!」

費保の目が丸くなる。

「お前が言うのかよ?」

「事実でしょ?」

「否定はしねえが、自分で即答する女も珍しいぞ」

「誰も言わないなら、自分で言うしかないじゃない!」

「李俊が言えばいいだろ?」

アタシは隣を見る。

李俊は黙っている。

「ほら、言わないでしょ?」

「言う必要がない」

「そういうところよ!」

費保が吹き出した。

倪雲も口元を押さえ、上青と狄成は遠慮なく笑っている。

味方がいない。

孫二娘は当然のように笑う側だし、玉楼まで顔を伏せて肩を揺らしている。

費保は笑いを収めると、またアタシへ目をやった。

「しかし、本当にこいつが母親になるのか?」

「何よ、その疑い方!」

「腹は変わったが、中身が変わってねえ」

「母親になったら急に大人しくならなきゃいけないの?」

「少しくらいは落ち着くだろ。普通は」

「普通って誰基準よ!」

「今のやり取りを聞いてる全員だ」

「勝手に多数決にしないで!」

費保が李俊へ助けを求めるように顔を向ける。

「お前はどうなんだ。少しは落ち着いてほしいだろ?」

李俊はアタシを見た。

少し間を置いてから、迷わず答える。

「それでいい」

費保が眉を上げた。

李俊はもう一度、はっきり続けた。

「そのままがいい」

胸の奥が、少しだけ熱くなった。

「ほら!」

アタシが費保を指さすと、費保は呆れた顔で首を振る。

「お前だけは、最初からこいつの味方なんだな」

「当然だ」

一言だった。

でも、それで十分だった。

母親になるから大人しくしろとも、女だから黙っていろとも言わない。

今までどおりでいい。そのままがいい。

そんなことを言われたら、ちょっとくらい胸を張っても許されると思う。

「話はそれくらいにして、行こうぜ」

倪雲が屋敷の奥から声をかけた。

「風が待ってくれるわけじゃねえ。続きは乗ってからにしろ」

「続きなんかないわよ!」

「十分あったじゃないかァ」

孫二娘が楽しそうに笑う。

費保はまだ何か言いたそうだったが、倪雲に肩を押されて歩き出した。

榆柳荘の裏手には、長旅の支度が整えられていた。

積まれた米俵のそばには水甕が置かれ、箱の中には日持ちする食料が詰められている。

その周りにも薬や布、縄、航海に必要な道具がまとめられ、別の一角には武具まで用意されていた。

一時の旅とは思えない。

玉楼も同じことを思ったらしく、足を止める。

「こちらを、すべてお運びになるのでございますか?」

「そのために集めた」

上青が答えた。

「買える物は買った。足りない物は作った。目立たないようにな」

狄成が倉の戸を開けると、中にも荷が積まれていた。

「人を乗せる船と、荷を多く積む船は分けてある。水を補える場所も決めてある」

「いつから準備してたの?」

アタシが聞くと、費保が笑った。

「お前らが方臘と戦ってる頃からだ」

思わず李俊を見る。

「そんな前から?」

「沈む前に、次の舟を探していた」

「アタシには何も言わなかったじゃない」

「言えば、戦場で余計なものを見る」

否定できなかった。

あの頃のアタシは、目の前で誰かが死ぬたびに、次は誰だと怯えていた。

海の向こうの話なんて聞かされても、そこまで生きて辿り着けると信じられなかったかもしれない。

費保たちは荷を確かめ、童威と童猛も舟から必要な物を運び始めた。

孫二娘は酒甕を見つけると、当然のように蓋へ手を伸ばす。

「一つくらい、今開けてもいいだろォ」

「駄目だ」

倪雲が即座に止めた。

「海へ出てからだ」

「海に出たら揺れるじゃないかァ」

「なら今のうちに我慢を覚えろ」

「榆柳荘には面倒な男が多いねェ」

「お前に言われたくねえよ」

孫二娘は口を尖らせながら、珍しく酒甕から離れた。

「三娘様」

玉楼に呼ばれ、屋敷へ入る。

一室には厚い敷物が敷かれ、低い寝台まで用意されていた。

「これ、誰が?」

「李俊殿がお頼みになったそうでございます」

費保が横から答える。

「腹にもう一人いるなら、横になれる部屋を空けておけってな」

「まだ確かめてもいなかったのに?」

「お前より先に覚悟してたんだろ」

孫二娘が、にやりと笑う。

「父親の方が、三娘より早く認めてたねェ」

「それはもう言わなくていい!」

李俊は何も言わない。

だから余計に腹が立つ。

「ちょっと、何とか言ってよ」

「何をだ?」

「自分だけ先に父親の覚悟決めてたこと!」

「決めるも何も、いるなら俺の子だ」

「その理屈が毎回強すぎるのよ!」

孫二娘が腹を抱えて笑い、玉楼は口元へ手を当てた。

「三娘様、李俊殿のお考えは、たいへん明快かと存じます」

「玉楼までそっち側!?」

荷を運び終える頃には、日が西へ傾いていた。

なのに、出航する気配がない。

水辺には小さな舟が何艘か並んでいるだけで、これだけの人と荷を海の向こうまで運べるようには見えなかった。

「ねえ……本当にこれで行くの?」

「これでは行かん」

李俊が答える。

「じゃあ、何を待ってるの?」

費保が笑い、屋敷の裏へ続く細い道へ顎を向けた。

「見せた方が早い」

木々の間を抜けていくと、崖に囲まれた入江へ出た。

そこで、アタシは足を止めた。

水の上に、巨大な影が浮かんでいる。

六和寺へ迎えに来た舟とは、比べものにならない。

舷は岸から見上げるほど高く、何本もの帆柱が木々の上まで伸びていた。

人を乗せ、荷を積んでも、まだ余るほど甲板が広い。

その後ろにも、二隻の海船が並んでいる。

三隻。

「これ、全部……?」

「俺たちの船だ」

入江では何十人もの男たちが綱を引き、帆や荷を確かめていた。

知らない顔ばかりだ。

費保たち四人だけじゃない。

李俊は、本当に国を作る準備をしていた。

「いつの間に、こんな人数を集めたのよ……」

「沈みたくない者は多い」

李俊は三隻の海船を見上げた。

「宋に残れない者もな」

アタシは改めて周囲を見る。

荷を担いで船へ向かう者がいれば、帆の具合を確かめる者もいる。

甲板から岸へ合図を送る男までいた。

李俊たちが、何もないところから集めた人間だ。

梁山泊でも宋軍でもない。

これからどこへ行くのか知ったうえで、それでも船に乗ろうとしている人たちだった。

玉楼が隣で海船を見上げる。

「三娘様」

「うん」

「想像していたより、ずっと大きなお話でございますね」

「アタシも今それ思ってた」

孫二娘が背後から顔を出した。

「三娘ォ、今ならまだ引き返せるかもしれないよォ」

「二娘は?」

「アタイ?」

孫二娘は三隻の船を眺め、それから笑った。

「面白そうだから行く」

「即答!」

「未知への接近行動ってのは、人間の基本的な――」

「今ここで心理学の授業始めないで!」

費保が甲板へ架けた渡し板を叩いた。

「ほら、行くぞ。今夜の風を逃せば、次に出られるのは三日後だ」

玉楼が息を呑み、孫二娘は楽しそうに笑った。

アタシは腹へ手を当てた。

船へ乗れば、もう戻れない。

今までの逃亡とは違う。

李俊が差し出したのは、隠れる場所じゃなかった。

まだ名前もない国の、最初の甲板だった。

板の向こうで、李俊が手を伸ばす。

「乗れ」

アタシは、その手を取った。

その瞬間、海船の帆が上がった。

白い布が夕風をはらみ、入江の空を覆う。

費保が振り返り、叫んだ。

「綱を放せ!」

太い綱が水へ落ちる。

海船が、ゆっくりと岸を離れた。

その先で待っていたのは、見たこともないほど暗く、広い海だった。

李俊殿は、三娘様へ「そのままがよい」と仰いました。

「ずいぶん甘いこと言うねェ」

「甘いのでございましょうか?」

「母親になるのに、あのままでいいって言ったんだよォ」

「三娘様らしさまで変える必要はない、という意味でございましょう?」

そこへ三娘様が振り返られます。

「二人で何の話してるの?」

「三娘様は、そのままでよいというお話でございます」

「何それ?」

孫二娘殿が笑いました。

「本人だけ分かってないって話だよォ」

「だから何の話!?」

まだ国の名も、向かう岸も決まっておりません。

それでも、李俊殿が最初に守るものだけは、もう決まっているようでございます。

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