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迎えの舟

「玉楼、荷物これだけ?」

「三娘様がお持ちになる物は、これだけでございます」

「日月双刀は?」

「私がお持ちします」

「また!?」

孫二娘が荷をまとめながら笑った。

「三娘ォ、今の最優先装備は双刀じゃないだろォ」

「お腹を装備扱いしないで!」

「外せないんだから常時装備だねェ」

「心理学ですらない!」

玉楼が戸口へ目を向けた。

「三娘様。お急ぎになりたいお気持ちは分かりますが――」

「分かってる。走らない」

その時、外から僧の声が飛んできた。

「川辺に舟が着きました!」

アタシより先に、孫二娘が立ち上がった。

「迎えだねェ」

孫二娘の声を聞いた瞬間、アタシは立ち上がった。

そのまま戸口へ向かおうとして、玉楼に腕をつかまれる。

「三娘様、お走りになってはいけません」

「走らないわよ。ちょっと急ぐだけ」

「それを走ると申します」

「転ばなきゃ平気でしょ」

「転んでからでは遅いのでございます」

反対の腕まで孫二娘に取られた。

「逃げやしないんだから、落ち着きなァ」

「一か月以上会ってないのよ!」

「待たせた男に、腹を抱えて転がってきた姿を見せたいのかい?」

「その言い方やめて!」

悪阻はもうかなり落ち着いている。

朝の粥も食べられたし、薬草の匂いを嗅いでも吐かなかった。

身体は少し軽くなったはずなのに、胸の奥だけが妙に騒がしい。

結局、アタシは玉楼と孫二娘に両側を固められ、山道を下ることになった。

急ぎたいのに、歩幅を広げるたび玉楼が無言で袖を引く。

孫二娘は面白がっているだけで、本当に止める気があるのか分からない。

「三娘ォ、顔が怖いよォ」

「久しぶりに会うんだから仕方ないでしょ!」

「普通は嬉しそうな顔になるもんじゃないかい?」

「嬉しいからこうなってるの!」

「情動表出がずいぶん独特だねェ」

「心理学で恋愛評価しないで!」

木々の隙間から川が見えた。

岸には一艘の舟が着いている。

舳先に結ばれた柳の枝が、朝の風に揺れていた。

童威と童猛が岸で綱を取っている。

その向こうに、一人の男が立っていた。

少し痩せたように見えた。

けれど背は曲がっていない。

足元も揺れていない。

宋軍には中風で倒れたことになっている男が、何事もなかったようにこちらを見ている。

李俊だった。

姿を確かめた途端、胸の奥に溜まっていたものが一気に上がってきた。

少し前までなら、そのまま吐いていた。

今は違う。

息だけが詰まった。

李俊が岸を離れ、こちらへ歩いてくる。

アタシも進もうとしたが、玉楼がまだ袖を離さない。

「もう見えてるから大丈夫!」

「見えているからこそ、お足元をご覧くださいませ」

「玉楼の言う通りだねェ。ここで転んだら、再会が全部そっちに持っていかれるよォ」

「感動の場面を事故映像にしないで!」

李俊の眉がわずかに動いた。

たぶん聞こえた。

再会して最初に聞かせる会話がこれなのは、どうなんだろう。

もっと他にあったはずだ。

生きていて良かったとか、会いたかったとか、心配したとか。

考えていた言葉はいくらでもあったのに、李俊が目の前まで来ると全部消えた。

「遅い!」

「舟を整えていた」

「文で読んだわよ」

「なら、分かるだろう」

「分かってても言いたいの!」

李俊は短く息を吐いた。

笑ったようにも見えた。

それからアタシの顔を見る。

肩へ視線が下り、最後に腹で止まった。

帯を緩めても隠せなくなった丸みを、黙ったまま見ている。

「何か言ってよ!」

「沈まなかったな」

「そっちこそ」

李俊の右手が上がった。

けれど、腹へ触れる直前で止まる。

今さら何を遠慮してるんだ。

アタシはその手首をつかみ、自分から腹へ当てた。

大きくて硬い手だった。

刀だこより、櫂や綱でできた傷の方が多い。

「いるみたい」

「見れば分かる」

「アタシは、ここまで来ないと実感なかったの」

「そうか」

李俊はそれ以上何も言わず、しばらく手のひらを腹へ当てていた。

こっちの方が恥ずかしくなってくる。

「……いつまで触ってるの?」

「嫌なのか?」

「嫌とは言ってない!」

背後で孫二娘が笑った。

「三娘ォ、そこは否定が速いねェ」

「聞いてたの!?」

「目の前でやってるんだから聞こえるよォ」

玉楼まで静かに頷いている。

逃げ場がない。

李俊はようやく手を離し、今度は玉楼へ目を向けた。

「具合は」

「悪阻はかなり収まりました。食も戻っております。ただし、無理をなさる癖は治っておりません」

「分かった」

「本人にも、よくお言い聞かせくださいませ」

「玉楼、本人ここにいるんだけど?」

「存じております」

李俊が頷く。

完全に引き渡しが済んだ顔をされた。

納得いかない。

童威と童猛も近づき、頭を下げた。

二人とも無事だった。

李俊とともに蘇州で舟を降り、そのまま榆柳荘へ入っていたらしい。

「宋軍は?」

「俺は寝たきりだと思っている」

「中風って話、かなり広がってたわよ」

「立って戻れば治ったと思われる」

「そんな雑な言い訳ある?」

「だから戻らない」

あっさり言った。

分かっていたはずなのに、その一言で胸が鳴る。

李俊は、もう宋軍へ帰らない。

アタシたちも同じだ。

「追手は?」

「まだない。だが、長居はできん」

李俊は山の上へ目を向けた。

「林冲と武松に会う」

もう一度、六和寺への道を上がった。

今度は李俊がアタシの隣を歩く。

手を引くわけでも、身体を抱えるわけでもない。

ただ足場の悪い場所では先に立ち、アタシが踏み出すまで待った。

急かさない。

だからアタシも意地を張らず、自分の歩幅で進めた。

六和寺の裏門には、すでに武松が立っていた。

その後ろに、僧の肩を借りた林冲がいる。

林冲は一命を取り留めた。

けれど、倒れる前の姿には戻らなかった。

右腕は胸元で動かず、右脚は地面を擦るように前へ出る。

顔の右側にはまだ歪みが残り、言葉も途中で引っかかる。

それでも意識ははっきりしている。

アタシたちを見つけると、左手を上げた。

武松の左手には、林冲の蛇矛がある。

片腕を失った男が、半身の動かない男の武器を預かっていた。

李俊が林冲の前で頭を下げる。

「迎えに来た」

林冲はゆっくり頷いた。

「三……娘」

「いるわよ」

「……頼む」

李俊は短く答えた。

「俺の舟に乗せる。沈めない」

林冲の左側の口元が、わずかに上がる。

次に視線がアタシへ向いた。

「……行け」

たった二文字なのに、声になるまで時間がかかった。

「林冲は?」

「ここ……いる」

「また会える?」

林冲は答えなかった。

答えられなかったのかもしれない。

それでも左手を上げ、アタシの肩を一度だけ叩いた。

弱い力だった。

初めて会った頃の林冲なら、こんな触れ方はしなかった。

あの頃のアタシは、こちらの世界へ来たばかりで何も分からず、危険が迫れば身体だけが勝手に動き、双刀を振るっていた。

その身体ごと、林冲に馬から落とされた。

あの敗北の先に何が待っているのか、あの時のアタシは知らなかった。

今も未来の全部が分かるわけじゃない。

だから、別れの言葉だけを口にした。

「お元気で」

林冲は頷いた。

玉楼が深々と頭を下げる。

孫二娘は武松の前へ立った。

二人とも、すぐには何も言わなかった。

玉楼がそっと山の方へ顔を向ける。

アタシも真似をした。

鐘楼の屋根に朝日が差していた。

短い衣擦れの音がして、それから孫二娘の声がする。

「じゃあねェ」

「行け」

「それだけかい?」

「戻るな」

「言われなくても戻らないよォ」

いつもの調子だった。

けれど、孫二娘は笑わなかった。

武松も、それ以上は何も言わない。

振り返った時には、二人の間にいつもの距離が戻っていた。

アタシたちは裏門を離れた。

山道を下る途中で、六和寺の鐘が鳴る。

見送りの鐘なのか、朝の勤めの鐘なのかは分からない。

振り返ると、林冲と武松はまだ門の前にいた。

小さくなるまで見ていたかった。

けれど李俊は立ち止まらない。

だからアタシも前を向いた。

岸へ戻ると、童威と童猛が出立の支度を終えていた。

舟板へ足をかけようとして、腹が邪魔になる。

前なら簡単に乗れた高さなのに、重心が違う。

「ちょっと待って。今、自分で乗るから」

李俊が手を差し出した。

「乗れ」

「だから、自分で――」

「転ぶぞ」

玉楼と孫二娘が後ろで黙っている。

絶対に笑っている。

アタシは諦めて、李俊の手を取った。

強く引かれたわけではない。

足を置く場所を確かめるまで、手を離さなかっただけだ。

舟へ乗り込むと、玉楼が続き、孫二娘が最後に乗った。

やがて綱が解かれ、棹が岸を押すと、舟はゆっくり岸を離れていく。

土の色が水の向こうへ移り、山道が細くなり、六和寺の屋根が木々に隠れた。

宋軍へ戻る道も、戦場も、誰かに決められたアタシの最期も、全部あの岸に残っていく。

アタシは腹へ手を当てた。

中には、もう一人いる。

隣には李俊がいる。

玉楼も孫二娘も、同じ舟に乗っている。

胸の奥へ、遅れて何かが落ちてきた。

ずっと欲しかったのに、手に入った瞬間が分からなかったもの。

「アタシ……」

声が震えた。

李俊がこちらを見る。

「本当に、生き残れたんだ」

涙が出た。

自分でも驚くほど静かに流れた。

李俊は何も言わず、川下へ目を向ける。

「こういう時くらい、何か言わないの?」

「見なかったことにしている」

「聞いてるじゃない」

「泣いていないなら、聞き間違いだ」

「……そういうことにしとく」

背後で孫二娘が鼻をすすった。

振り向くと、すぐ顔を背ける。

「二娘も泣いてる?」

「風だよォ」

「川の上で便利ね、その言い訳」

「三娘ォにだけは言われたくないねェ」

玉楼が袖で目元を押さえながら笑っていた。

舟は流れに乗り、速度を上げる。

前方で川幅が広がっていた。

その先には、まだ見えない海がある。

「どこまで行くの?」

アタシが尋ねると、李俊は南を見たまま答えた。

「宋の手が届かない岸までだ」

「そこで隠れて暮らす?」

「隠れるために舟を整えたんじゃない」

李俊は舳先へ立った。

柳の枝が、その肩の向こうで揺れている。

「では、何をするのでございますか」

玉楼の問いに、李俊は短く答えた。

「まず岸を取る」

「岸って……」

李俊が振り返る。

「俺たちが沈まない国を作る」

舟は川を抜け、海へ向かった。

李俊殿の「国を作る」という言葉を聞いた瞬間、三娘様の動きが止まりました。

「……国?」

孫二娘殿が楽しそうに肩を揺らします。

「三娘ォ、生き残ったと思ったら建国が始まったねェ」

「人生の難易度、上がってない!?」

「まずは岸を取るとのことでございます」

「玉楼、普通に受け入れないで!」

「では、三娘様は反対なさいますか?」

三娘様は舳先の李俊殿を見て、少し黙りました。

「……反対はしないけど」

「意思決定が速いねェ」

「二娘!」

私は先の支度を考えました。

「では三娘様、国ができた後のお立場についても――」

「待って……今、すごく嫌な予感した」

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