夜に消える女
「玉楼、帯が締まらない」
「三娘様。それ以上締めてはなりません」
「……太った?」
背後で孫二娘が吹き出した。
「三娘ォ、そこまで現実逃避するとは思わなかったねェ」
「現実逃避じゃない! 確認!」
玉楼がアタシの下腹へ目を落とす。
「確認するまでもないかと存じます」
「二人して腹を見るな!」
孫二娘は楽しそうに笑うと、なぜか戸口へ向かった。
「じゃ、アタイは今夜も出かけてくるよォ」
「待って。今度はそっちを確認させて!」
お腹が、膨らんできた――
身籠っていることは、とっくに分かっている。
医師にも言われたし、李俊の子だということも、もう疑っていない。
それでも、見た目まで変わり始めると話は別だった。
悪阻がひどかった頃は、食べても吐くことばかり考えていて、腹の中に子がいると言われても、正直、実感なんて追いつかなかった。
それからひと月ほど経った今、帯を締める位置が明らかに違う。
前までと同じように締めると苦しくて、玉楼に即座に止められた。
仕方なく結び目を緩めれば、着物の上からでも下腹の丸みが分かる。
鏡代わりの磨いた銅板へ横向きの姿を映し、アタシは何度目か分からない確認をした。
「……本当に出てきた」
後ろから孫二娘が覗き込む。
「何を今さら驚いてるんだい」
「分かってたわよ。でも、こうやって見えるようになると違うの」
「腹なんだから、育てば膨らむだろォ」
「もう少し感動とかないの?」
「散々吐いた後で、何もいなかった方が怖いねェ」
身も蓋もない。
玉楼は朝の粥を運びながら、満足そうに頷いた。
「ようやく、お身体の変化にも実感が追いつかれたのでございますね」
「認めてなかったわけじゃないから!」
「今朝も帯を元の位置へ締めようとなさいました」
「習慣よ!」
「三娘ォ、認知と行動がまだ一致してないねェ」
「朝から心理学で追い詰めないで!」
二対一になると勝ち目がない。
ただ、悪阻は前よりずっと軽くなった。
粥なら一椀食べられる日が増え、干し梅も薄い餅も少しずつ戻ってきた。
薬草の匂いだけはまだ苦手だけれど、僧が戸口へ立っただけで庭へ飛び出すほどではない。
身体が落ち着くにつれて、庵での一日にも形ができた。
朝は玉楼と井戸まで歩く。
日が高くなる前には六和寺の裏門へ向かい、林冲の具合を聞く。
会える日は門を挟んで顔を見た。
このひと月、林冲の病状は大きく崩れなかった。
右腕と右脚は、まだ自由にならない。
それでも左手だけで身体を起こせるようになり、短い言葉なら以前より聞き取れる。
僧が作った杖も試したが、右脚は思うようについてこず、二歩目で身体が傾いた。
その時は武松が支えた。
片腕を失った武松が、右半身の動かない林冲を支えている。
二人とも以前と同じ身体じゃない。
それでも、できないことを数えるより先に、今できる方法を探していた。
「腹……出たな」
ある朝、林冲にまで言われた。
「第一声がそれ?」
「分かり……やすい」
「林冲、喋れるようになったら急に遠慮がなくなってない?」
林冲は左側の口元だけで笑った。
隣にいた武松も、ほんの少しだけ顔を緩めている。
その武松へ、孫二娘が目を向けた。
空になった袖を一度見て、それから顔を見る。
武松も孫二娘を見た。
何も言わない。
最近、この二人は昼間ほど何も言わなくなった。
理由は、たぶん夜にある。
最初に気づいたのは、夜中に喉が渇いた時だった。
隣の寝台が空いている。
厠かと思って待ったけれど、なかなか戻ってこない。
戸へ手をかけたところで、背後から玉楼に呼び止められた。
「三娘様?」
「孫二娘がいないの」
「左様でございますね」
「探しに行かないと。夜の山道よ」
玉楼は灯りを手にしたまま、静かに首を振った。
「お待ちくださいませ」
「でも――」
「孫二娘殿は、戻ってこられます」
妙に確信のある言い方だった。
「玉楼、何か知ってる?」
「存じません」
「今、絶対に知ってる人の止め方だった」
「知らぬ方がよいこともございます」
「危ないことじゃないの?」
少し考えてから、玉楼が答えた。
「危ういことと、止めるべきことは、同じではございません」
そこまで言われると、戸を開ける方が不粋らしい。
アタシは渋々寝台へ戻った。
その夜、孫二娘が帰ってきたのは空が白み始める前だった。
裾には、六和寺の裏道を歩けばつくような湿った黒い土がついている。
「どこ行ってたの?」
「夜風に当たってただけさァ」
「夜明け前まで?」
「良い風だったんだよォ」
玉楼は寝返りを打っただけだった。
たぶん起きているのに、何も言わない。
そして、それは一晩だけでは終わらなかった。
孫二娘は灯りが消える頃になると、ほとんど毎夜のように庵を抜けた。
雨でも関係ないらしく、月のものが来ている時でさえ、夜明け前には裾へ土をつけて戻ってくる。
最初のうちは心配したけれど、そのうち心配する方が馬鹿らしくなった。
必ず戻ってくる。
しかも孫二娘が出ていった翌朝は、六和寺の裏門が開く時刻が少し遅い。
それだけで十分だった。
「二娘」
ある晩、夕餉を終えた孫二娘が珍しく縁側へ座ったまま動かなかった。
「今日は夜風に当たらないの?」
口にした途端、玉楼がこちらを見る。
遅かった。
孫二娘が眉を上げた。
「何の話だい?」
「何でもない」
「今、夜風って言ったねェ?」
「言ってない」
「腹が出ると、嘘まで下手になるのかい?」
「関係ないでしょ!」
孫二娘は笑ったが、すぐ山へ目を戻した。
六和寺の鐘が鳴る。
その音を聞き終えてから、孫二娘が言った。
「李俊が来たら、アタイも行くよォ」
冗談の調子ではなかった。
「南へ?」
「ああ」
「武松は?」
名前を出すと、孫二娘はしばらく黙った。
玉楼は止めなかった。
今度は聞いてもいいらしい。
「武松は、ここに残る」
「二娘も残りたいんじゃないの?」
「残りたいかどうかだけで決められるなら、楽だったねェ」
笑っているのに、声は明るくない。
「アタイとあいつは、同じ場所へ行くために会ったんじゃない」
「じゃあ、何のため?」
「それが分かったら、こんなに面倒じゃなかったさァ」
孫二娘は膝を立て、そこへ腕を置いた。
「最初はアタイが蒙汗薬で潰そうとした。あいつを怒らせて、ひどい始まり方をした。そこを綺麗な話にする気はないよォ」
アタシは黙って聞いた。
「でも、二龍山で一緒にいて、梁山泊でもずっと見てきた。あいつがどんな男かは、嫌ってほど分かったさ」
孫二娘の視線が、六和寺の方へ向く。
「口数は少なくて愛想もないし、融通も利かない。けど、仲間を売らないし、逃げる時に自分だけ先へ行ったりもしない。男としてなら、信じられる」
「それで、好きになった?」
「さあねェ」
「そこまで言って誤魔化すの!?」
「三娘ォ、全部言わせる気かい」
「毎晩いなくなる人に言われたくない!」
孫二娘の口元が上がった。
「毎晩って、数えてたのかい?」
「数えたくなくても分かる!」
玉楼が茶を置いた。
「三娘様……これ以上は、本当に不粋でございます」
「分かってるわよ!」
「じゃあ、夜に何してるか教えてやろうか?」
「いらない!」
孫二娘は声を立てて笑った。
久しぶりに聞いた、腹の底からの笑いだった。
笑い終わると、孫二娘はアタシの腹へ手を伸ばした。
でも、触れる直前で止める。
「触っていいかい」
「急に礼儀正しいわね」
「アタイだって、そのくらいは聞くよォ」
頷くと、手のひらがそっと重なった。
武器を握り、人を殴り、包丁を振るってきた手だ。
その手が、驚くほど慎重に腹の丸みを確かめている。
「まだ動かないねェ」
「アタシにも分からない」
「李俊に似たら、腹の中でもじっとしてなさそうだねェ」
「どうして?」
「舟乗りの子だろォ。揺れてる方が落ち着くんじゃないかい」
「また水軍の例え?」
「嫌なら三娘に似ればいいさ」
「それも落ち着きなさそうなんだけど……」
玉楼が涼しい顔で茶を飲む。
「お行儀でしたら、私がお教えいたします」
「頼むよォ。三娘だけじゃ心配だねェ」
「まだ生まれてもいないのに教育方針を決めないで!」
孫二娘は笑ったまま腹を撫で、やがて手を離した。
その横顔が、少しだけ遠くを見る。
「二娘」
「何だい?」
「子ども、欲しいの?」
孫二娘の目が戻った。
玉楼は何も言わない。
少しの間だけ、鐘の余韻が山へ消えていく音が聞こえた。
「……前は、考えたこともなかったねェ」
「今は?」
孫二娘は六和寺の方を見る。
「好きな男の子供なら、産みたいと思うくらいにはねェ」
からかう声ではなかった。
アタシは何も返せなかった。
武松との始まり方が最悪だったことは、アタシも知っている。
それでも、二龍山と梁山泊で過ごした時間まで最悪だったわけじゃない。
その積み重ねの先で、今の言葉が出たのだ。
孫二娘は立ち上がった。
「じゃ、行ってくるよォ」
「今の話の直後に!?」
「何だい。子どもは念じればできると思ってるのかい?」
「そこまで具体的に言わなくていい!」
玉楼が静かに茶をすすった。
「三娘様、お休みになりましょう」
「玉楼、逃げた!」
「何のことでございましょう?」
孫二娘は肩を揺らしながら戸口へ向かう。
「戻る?」
アタシが聞くと、肩越しに振り返った。
「戻るよォ」
それから少しだけ目を細める。
「一緒に行く人は、もう決めてるからねェ」
誰のことを言ったのか、聞かなかった。
武松じゃない。
たぶん、アタシと玉楼だ。
でも、それだけでもない気がした。
その夜もアタシは追わなかった。
孫二娘が戻ったのは、空が白み始める少し前だった。
「おかえり」
布団へ潜り込んだ孫二娘が、手だけを出す。
「ただいまァ」
それで十分だった。
翌朝、六和寺の僧が庵へ駆け込んできた。
普段は足音を立てない人が、息を切らしている。
「麓の川辺に、見慣れぬ舟が着きました」
アタシは立ち上がった。
孫二娘も布団を跳ね上げる。
玉楼はもう戸口へ向かっていた。
僧は息を整え、続けた。
「舳先に、柳の枝が結ばれております」
寝台の脇には、何度も読み返した李俊の文がある。
柳のある岸で、次の舟を整える。
孫二娘がアタシを見た。
今度は茶化さなかった。
「迎えだねェ」
三娘様は「迎えだ」と分かった途端、なぜか御髪を何度も触り始めました。
「玉楼、変じゃない?」
「いつも通りでございます」
孫二娘殿が笑います。
「三娘ォ、戦場へ出る時より確認してるねェ」
「だって一か月以上会ってないのよ!」
「しかも腹まで出てるしねェ」
三娘様の手が止まりました。
「……最初に何て言えばいいと思う?」
私は少し考えます。
「お帰りなさいませ、でよろしいのでは?」
「その次!」
孫二娘殿が即答しました。
「あなたの子、育ってるよォ」
「絶対それは言わない!」
その時、川辺の方から足音が近づいてまいりました。




