李俊が、舟を降りた
「二娘、李俊から文が来たら、普通は嬉しいものよね?」
「そうだねェ、普通ならねェ」
「何でそこで含み持たせるのよ」
玉楼が真顔で口を挟んだ。
「李俊殿のお召し物には、独特の匂いがございましたので」
嫌な予感がした。
「待って。それ、文にも移ってる?」
孫二娘が楽しそうに笑う。
「嗅覚と記憶は結びつきやすいからねェ。好きな男の匂いなら、なおさら――」
「心理学的に良い話へ持っていかないで!」
その時、庵の外から声がした。
「李俊殿より、扈三娘殿へお届け物です」
胃が動いた……
李俊から届いた文は、アタシが吐き終わるまで開けられなかった。
使者の兵は、紙を差し出した姿勢のまま固まっている。
目の前でいきなり女が吐けば、そうなるのも仕方ないかもしれない。
しかも、その女は少し前まで梁山泊の頭領として戦場を走り回っていたのに、今は紙に染みついた水と油の匂いに負けている。
世の中、何が強敵になるか分からない。
「三娘ォ、下向きなァ」
孫二娘が後ろから髪を押さえている。
「もう……出ない……」
「さっきも聞いたよォ」
「今度こそ本当に……」
言い終わる前に喉の奥が引きつった。
でも、何も出ない。
ただ身体だけが大きく震え、目に涙がにじむ。
「ほら見なァ」
「予告なしで来るのよ……」
「敵なら気配で分かるのにねェ」
「これを敵に数えたくない……」
玉楼が水を含ませた布を差し出した。
口元を拭い、ようやく顔を上げる。
兵はまだ文を持っていた。
「ごめんなさい。文は無事?」
「は、はい」
兵は思わず紙を胸元へ引いた。
吐いたものをかけられると思ったらしい。
そこまで近くには吐いていない。
たぶん……
「玉楼、受け取って……」
「三娘様がお受け取りくださいませ」
「また匂いがしたら困るでしょ」
「李俊殿は、三娘様へ直接渡すよう仰ったのでございましょう?」
使者まで強く頷いた。
逃げ道がない。
アタシは息を止め、指先だけで文を受け取った。
「それ、恋文を受け取る顔じゃないねェ」
「今のアタシに良い顔を求めないで!」
兵には庵の外で休んでもらい、戸を閉める。
文を寝台へ置き、アタシも少し離れて座った。
孫二娘が呆れた顔をする。
「何で手紙と距離を取ってるんだい?」
「匂いが落ち着くまで待ってるの」
「李俊の文だよォ?」
「だから困ってるのよ!」
あの匂いを嗅ぐと、李俊の衣を思い出す。
胸元へ顔を寄せた時も、腕に抱かれた時も、水と油の匂いがした。
そこから先まで思い出しそうになり、慌てて頭の中から追い出した。
今朝、さんざん日数を数えたせいで、アタシは記憶の扉が開きやす過ぎる。
「三娘ォ、顔が赤いねェ」
「胃のせい!」
「胃は顔を赤くするのかい?」
「今日からするの!」
玉楼が文を見下ろした。
「開かれないのでございますか?」
「開けるわよ」
「いつでございますか?」
「心と胃の準備ができたら」
孫二娘が文へ手を伸ばす。
「なら、アタイが読もうかねェ」
「駄目!」
反射的に文を掴んだ。
孫二娘の手が止まり、口元だけが楽しそうに上がる。
「ずいぶん元気になったじゃないかァ」
「これはアタシ宛てなの!」
「はいはい。早く読みなァ」
封を切った。
中の紙には、李俊らしい短い文が並んでいる。
飾った言葉は一つもなかった。
蘇州で舟を降りる。
柳のある岸で、次の舟を整える。
用意ができ次第、必ずそちらへ向かう。
そこまで読んだところで、胸の奥に張っていたものがゆっくりほどけた。
李俊は戻る。
清渓で別れた時に言った「今はな」は、やっぱり別れの言葉じゃなかった。
本隊を離れ、次の舟を整えて、アタシを迎えに来る。
必ず向かう。
短い一文なのに、それだけで身体の芯に少し力が戻った。
最後の一行を見るまでは。
腹にもう一人いるなら、なおさら沈むな。
アタシは文を閉じた。
「何で閉じるんだい」
「読み終わったから」
「最後のところ、もう一度読んでみなァ」
「嫌よ」
「腹にもう一人いるなら――」
「声に出さないで!」
孫二娘の口を塞ごうとして手を伸ばす。
簡単によけられた。
「李俊も疑ってたんだねェ」
「何であいつまで気づくのよ!」
「三娘ォを見てたからだろォ」
「見過ぎじゃない!?」
玉楼が静かに頷いた。
「よくご覧になっておられました」
「玉楼まで!」
「清渓を発つ朝も、三娘様のお顔だけでなく、お身体の具合を気になさっておられました」
思い当たる。
李俊はあの朝、何度もアタシを見ていた。
顔色が悪いと言われたし、腹のあたりへ視線が落ちたこともある。
あの時点では確信なんてなかったはずだ。
それでも何かがおかしいとは思っていた。
「……一言くらい言えばいいのに」
「言ったではありませんか」
玉楼が文を返した。
「沈むな、と」
もう一度、最後の一行を見る。
腹にもう一人いるなら、なおさら沈むな。
昨日、医師から身籠っていると告げられた時、李俊はもう六和寺を発ったあとだった。
それなのに、遠くへ行く前から可能性だけは考えていたらしい。
アタシ一人へ向けた言葉じゃない。
今はもう、いると分かっている。
まだ腹も膨らんでいないし、動く気配もない。
でも、あの夜からつながった命がここにいる。
李俊は来る。
だったら、それまで沈まなければいい。
吐こうが、食べられなかろうが、身体が言うことを聞かなかろうが、待っていればいい。
文を握り直した。
「分かったわ」
「何がだい?」
孫二娘が覗き込む。
「李俊が迎えに来るまで、ここで待つ。ちゃんと食べて、休んで、倒れないようにする」
「良い心がけだねェ」
「それと……」
腹へ手を当てる。
昨日より自然に手が動いた。
「この子も守る」
口にした途端、恥ずかしくなった。
孫二娘の口元が上がる。
「もう一回言ってみなァ」
「言わない!」
「今朝まで『妊婦って呼ばないで』って顔してたのにねェ」
「慣れるのに時間がかかるの!」
「現実受容が一段進んだってやつかねェ」
「心理学で実況しないで!」
玉楼は笑わず、真面目に頭を下げた。
「では、わたくしも全力でお守りいたします」
「玉楼の場合、全力が怖いのよ」
「まず日月双刀は引き続きお預かりいたします」
「返す気なかった!」
孫二娘が肩を揺らした。
「馬も駄目だねェ」
「それさっきも聞いた!」
「走るのも無し」
「戦場じゃないんだから走らないって!」
「吐く時は呼びなァ」
「それは一人でできる!」
「髪まで吐いたもので固めたいなら好きにしなよォ」
想像してしまった。
嫌だ……
「……呼ぶわ」
「素直でよろしい」
「二娘まで玉楼みたいにならないで!」
勢いよく立ち上がった瞬間、胃が持ち上がった。
「うっ……」
孫二娘は何も言わず桶を差し出し、もう片方の手で髪を押さえる。
「……笑わないで」
「笑ってないよォ」
声が笑っている。
結局、その日も昼までまともなものは入らなかった。
冷ました白湯を少しずつ飲み、玉楼が作った薄い粥を二口だけ食べる。
三口目は無理だったけれど、二口は入った。
それを二人が大げさに喜んだ。
「たった二口よ」
「昨日は一口も入らなかっただろォ」
「吐かなかっただけでも十分でございます」
二人に褒められながら粥を食べる日が来るとは思わなかった。
食事を終えた頃、六和寺から僧が来た。
林冲が再び目を覚ましたという。
意識ははっきりしており、命もひとまず取り留めた。
けれど、右腕と右脚はまだほとんど動かず、言葉も口の中で崩れてしまうらしい。
「会わせて」
今回は玉楼も孫二娘も止めなかった。
寺内へは入れないため、林冲を裏門の内側まで運んでもらうことになった。
アタシたちは門の外で待つ。
やがて武松が姿を見せた。
右手には、林冲の蛇矛。
その後ろから僧たちが戸板を運んでくる。
林冲は上体を起こし、重ねた布へ身体を預けていた。
顔色は悪い。
右腕は膝の上に置かれたままで、右脚も自分では動かせないようだった。
それでも目は、いつもの林冲だった。
一人ずつ確かめるように見て、最後にアタシへ止まる。
「林冲」
左手が少し上がった。
「三……娘」
音は崩れている。
でも、分かった。
「うん。いるわ」
林冲の視線が腹へ落ちた。
またそこ。
「みんなして、そこを見るのやめてくれる?」
左側の口元だけが、わずかに動いた。
笑ったらしい。
右側は動かない。
その違いに、胸が詰まった。
孫二娘が門柱へ寄りかかる。
「生きてたねェ」
「……ああ」
「返事は一度でいいよォ。無理して喋るんじゃない」
林冲は素直に頷いた。
武松が蛇矛を持ち上げる。
「これは、しばらく俺が預かる」
林冲の目が柄を追った。
昨日は「持てぬ」と言い、武松に預けるしかなかった。
悔しくないはずがない。
けれど今日は左手を伸ばさず、長い間蛇矛を見つめたあと、武松へゆっくり頷いた。
「……頼む」
今度は、はっきり聞こえた。
武松も何も言わずに頷く。
置けないなら預ける。
林冲は、自分でそれを選んだ。
「林冲」
アタシは門の外から声をかけた。
「アタシ、ここで李俊を待つことにしたわ」
林冲の目が細くなる。
「必ず来るって書いてあった。だから、それまで沈まない」
最後の一行までは言わなかった。
言えば、横にいる妖艶なお姐さんが絶対に余計なことを言う。
林冲は左手を上げた。
その手が、アタシの腹の高さで止まる。
完全にばれている。
「……守れ」
短い言葉だった。
身体は動かなくても、言いたいことは分かる。
「うん」
今度は否定しなかった。
すると孫二娘が隣で、にやりとする。
「素直になったねェ」
「今そこ拾わなくていいから!」
玉楼も嬉しそうに頷いた。
武松までこちらを見る。
「守れ」
「何で武松まで二回目を言うの!?」
林冲の左側の口元がまた少し上がった。
以前のようには笑えない。
それでも、笑っている。
アタシも笑った。
六和寺での日々は、それから少しずつ形を変えていった。
孫二娘は匂いの強いものを庵へ持ち込まなくなり、玉楼は冷ました粥や干し梅、薄く焼いた餅など、アタシが口にできるものを探してくれた。
食べられた日は褒められ、吐いた日は髪を押さえられる。
アタシは毎日、李俊の文を読んだ。
用意ができ次第、必ずそちらへ向かう。
その一行を読むたび、もう少しだけ待てる気がした。
悪阻はすぐには消えなかった。
良い日が来たと思えば、翌朝には井戸の横へ駆け込む。
それでも少しずつ水が飲めるようになり、粥も半分くらいなら腹へ収まるようになった。
そんな日が何日か続いた朝、本隊から新しい使者が来た。
今度の使者は、アタシへ渡す文を持っていなかった。
代わりに、妙に深刻な顔をしている。
「蘇州にて、李俊殿が中風を発しました」
息が止まった。
右手から蛇矛が落ち、右脚が動かなくなり、言葉まで崩れていった林冲の姿が、一瞬で頭に蘇る。
でも、その直後、李俊の文にあった言葉が浮かんだ。
蘇州で舟を降りる。
柳のある岸で、次の舟を整える。
使者は沈痛な顔のまま続けた。
「童威殿と童猛殿が看病のため残り、李俊殿は本隊から外れたとのことです」
中風。
本当に倒れたのか。
それとも――
蘇州で舟を降りるための偽りなのか。
閻婆惜は言っていた。
急に元気にならず、疲労が限界に達したように振る舞え、と。
まさか中風までやるとは聞いてない。
でも、李俊ならやる。
しかも童威と童猛まで残っているなら、答えはもう分かっていた。
「あいつ……」
孫二娘が顔を寄せる。
「どうしたんだい?」
アタシは寝台の横に置いてあった文を開いた。
もう匂いを嗅いでも、今朝は吐かなかった。
柳のある岸で、次の舟を整える。
その一行を指で押さえ、立ち上がる。
「李俊が、舟を降りたわ」
李俊殿が中風を装って本隊を離れたと知ると、三娘様は文を握ったまま眉を寄せました。
「よりによって中風のふりって……林冲を見たあとだと笑えないんだけど」
「ですが、皆様には信じていただけたのでございましょう?」
孫二娘殿が口元を上げます。
「閻婆惜の演技指導が効いたんだろうねェ。観察学習ってやつかい?」
「林冲で学習しないで!」
「三娘ォ、そこじゃないよォ」
私は李俊殿の文へ目を落としました。
「三娘様。これで迎えに来る準備が始まったのでございますね」
三娘様は少し黙り、それから腹へ手を当てます。
「……来る前に、言うこと増えちゃったけどね」
孫二娘殿が笑いました。
「一人分ねェ?」
「数えないで!」




