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隣だけ見ろ

「林冲先生が、とうとう“見るな”って言ったのよ!」

孫二娘が鍋を混ぜる手を止めた。

「新人研修、方針転換したのかァ?」

「違う! 霧の中じゃ見たもの全部が怪しいの!」

顧大嫂が酒を置く。

「じゃあ何を見るんだい?」

「隣」

「玉楼かァ」

「そう、玉楼がいる。それだけは間違えない」

孫二娘がにやりとする。

「ずいぶん信頼したねェ」

「今そこ拾わないで!」

見える敵は増える。

声も鐘も、距離まで狂う。

だから林冲は言った。

「遠くを見るな。隣だけ見ろ」

アタシの隣には玉楼がいた。

それなら逃げ切れると思った。

――高唐州を背にしたはずなのに、鐘が前から鳴るまでは……

玉楼が槍を振る。

乾いた音が弾け、飛んできた矢が霧の中へ消えた。

アタシは反射で身を沈めたまま、次を待つ。

来ない。

一本だけだった。

「……何それ」

大量に来るより、嫌だった。

狙いを確かめたのか、それともこっちがどう動くか見ているのか、どちらにしても、偶然飛んできた一本には思えない。

周囲では盾が上がっていたが、誰も前へ出ようとはしなかった。

矢が飛んできた方角さえ、本当に正しいのか分からない。

「玉楼、どこから来たか分かった?」

「正面からに見えました」

「“見えました”なのね」

「はい」

断言しないところが怖い。

霧の奥で鐘が鳴る。

ゴォン――

高唐州までは、まだ遠い。

頭では分かっているのに、音だけはさっきより近く、胸の内側へ直接落ちてきたみたいに響いた。

左で馬が暴れた。

手綱を取っていた兵が必死に宥めるが、馬は白い霧へ向かって首を振り、後ろ脚で地面を蹴る。

騎乗していた兵まで何かを見つけたらしく、突然槍を振り回した。

「いた! 今そこに――!」

穂先が空を切る。

誰もいない。

それでも兵の目は、何かを追っていた。

「……見えてるのね」

玉楼がその兵と足元を交互に見た。

「わたくしたちとは、違うものが」

嫌な確認だけど、たぶん正しい。

その時、霧の中から人が出てきた。

梁山泊の兵だった。

肩から血を流し、片手で傷を押さえながらこちらへ歩いてくる。

足元の霧も乱れている。

今度は幻じゃない。

「助け――」

声が途切れた。

兵の背後で、細長い影が揺れた。

「玉楼!」

「見えております!」

二人同時に踏み込んだ。

兵の身体が大きく震え、そのまま前へ崩れる。

アタシは倒れる身体を避けて双刀を振った。

手応えがない。

玉楼の槍も霧を裂いただけだった。

「いない!?」

「下がってください!」

玉楼に肩を引かれる。

その直後、アタシがいた場所へ何かが走った。

風だったのか。

刃だったのか。

それすら分からない。

右から悲鳴が上がる。

振り向けば、今度は左で鎧がぶつかった。

「後ろだ!」

「違う、前だ!」

兵たちの声が重なり、隊列がざわめく。

敵が見えないんじゃない。

見えすぎる。

しかも、一人ずつ違うものを見せられている。

「これ、最悪のチーム戦じゃない!?」

「何でございましょう?」

「全員に別画面見せてるの!」

「意味は分かりませんが、厄介なのは同意いたします」

そこは伝わるんだ。

玉楼が槍を横へ構え、近くの兵へ声を飛ばした。

「離れないでください! 見えたものへ一人で向かわないように!」

アタシも続ける。

「隣に確認して! 自分だけ見えてるなら追わない!」

霧の中から返事がいくつか来る。

全員には届かない。

鐘が鳴った。

今度は本当にすぐ近く――

そう感じた瞬間、霧の中へ人影がいくつも浮かび上がった。

三つ。

五つ。

もっと。

歩いているはずなのに、近づいているのか離れているのか分からない。

湿った風が霧を揺らした。

その向こうに、無数の矢じりが浮かんだ。

「伏せろ!」

林冲の声が通った。

次の瞬間、矢が降った。

盾へ突き刺さる音が続き、馬が嘶き、地面へ落ちた矢が跳ねる。

正面から来たと思った一本が横を抜け、遠くに見えた矢がいきなり目の前へ迫った。

アタシは身体を捻る。

頬の横を矢が掠めた。

「うわっ!」

玉楼の槍が続けて鳴る。

一本、二本と弾き、三本目を逸らしたところで、霧の向こうから兵同士がぶつかる音がした。

「敵だ!」

「俺だ! 味方だ!」

「槍を下ろせ!」

まずい。

幻を相手にしているうちに、こっちが勝手に潰し合う。

アタシが走りかけると、今度は玉楼が袖を掴んだ。

「待ってください」

「でも!」

「どこへ行かれるおつもりですか?」

言われて止まった。

……分からない。

声がした方。

それしか分からない。

「クッソ、これ腹立つ……」

「お気持ちは分かります」

「玉楼が分かってくれると余計腹立つ!」

「では、分からないことにいたしますか?」

「そこは分かってて!」

こんな状況で何をやってるんだ、アタシたち……

でも、その一往復で頭が少し戻った。

玉楼が隣にいる。

それだけは本当だ。

さっき三娘様と呼んだ声も、袖を掴んだ手も、ここにある。

アタシは玉楼の腕を掴み返した。

「離れないで」

「先ほど、わたくしが申し上げました」

「今はアタシが言ってるの!」

玉楼が一瞬だけこちらを見て、頷いた。

「承知いたしました」

前でも後ろでもない。

隣。

見るものが狂うなら、隣にいる相手を確かめればいい。

アタシが右を見る。

玉楼は左を見る。

何か見えたら、まず相手へ聞く。

二人とも見えたから本物、とはもう限らない。

さっきは同じ白い影を見た直後に矢が来た。

それでも、一人で決めるよりましだった。

前方の霧がゆっくり割れた。

白い隙間の奥に林冲が立っている。

蛇矛を下げたまま、高唐州の方を見ていた。

「動くな」

声が真っ直ぐ通る。

兵たちの動きが止まった。

「陣を崩すな」

林冲は一拍置いた。

「見るな」

……え?

今まで散々、まず見ろって言ってた人が?

「先生、教育方針変わるの早くない!?」

近くの兵がこんな時なのに吹き出した。

林冲だけは振り向かない。

「遠くを見るな。隣だけ見ろ」

あ……

玉楼と顔を見合わせた。

同じこと考えてた。

何それ、ちょっと悔しい。

「三娘様、林冲殿も同じ結論のようでございます」

「言わなくていい!」

「良い教えかと」

「優等生!」

鐘が鳴る。

頭の中で響いたような音に、兵たちの肩が揺れた。

それでも今度は、誰も影へ飛びつかなかった。

隣と足元だけを見て、手の届く範囲を確かめる。

林冲の命が短く飛ぶ。

「下がれ。二人一組を崩すな」

軍が少しずつ動き始めた。

その時、後ろから声がした。

「待ってくれ!」

何人かが振り向く。

霧の中に梁山泊の兵がいた。

片腕を押さえ、こちらへ手を伸ばしている。

足元も――

見えない。

霧が濃すぎる。

「置いていくのか……!」

兵が一歩出ようとした。

「行くな」

林冲が止めた。

「でも!」

霧の中の男が、また手を伸ばす。

「たす……け……」

声が歪んだ。

次の瞬間、その身体が横へ滑った。

歩いたんじゃない。

足を動かさないまま、霧の奥へ流れて消えた。

誰も追わなかった。

追えなかった。

玉楼が槍を握り直す。

「あれは、人ではございません」

「……うん。アタシも今のは同じの見た」

一致して嬉しくないものばっかり増える。

林冲が蛇矛を上げた。

「野営地を捨てる」

その言葉に、荷を守っていた兵たちが顔を上げた。

「持てるものだけ持て。霧の外まで下がる」

荷車も天幕も、ここまで運んできたものだ。

それを捨てる。

でも誰も反論しなかった。

ここに留まる方が危ないと、もう全員が知っている。

霧のどこかから笑い声がした。

近いようで遠い。

今度は誰も探さない。

「聞くな。動け」

林冲の一言で、兵たちが後退を始めた。

誰も走らず、隣を失わない速度で下がっていく。

盾持ちは仲間の肩を確かめ、槍兵も前ではなく互いの位置を見る。

馬には布をかけたままだ。

アタシも玉楼と並んで下がった。

「これ、逃げてるのよね?」

「戦う場所を変えているのでは?」

「先生の優等生は言い方まで前向きね!」

「では、逃げております」

「急に現実を突きつけないで!」

玉楼、絶対ちょっと楽しんでる。

こんな状況なのに、口だけはいつも通りだ。

それがありがたいなんて、本人には絶対言わない。

少しずつ野営地が遠ざかる。

いや、遠ざかっているはずだった。

霧の中では、置いてきた天幕がまだ近くに見える。

数十歩下がったのに、さっきの火がすぐ横で揺れているようにも見えた。

「玉楼」

「見ないでくださいませ」

「まだ何も言ってない」

「火をご覧になっておられましたので」

先回りされた。

アタシは視線を地面へ落とす。

自分と玉楼の足、それから前を行く兵の踵だけを追った。

今はそれだけでいい。

後方で馬が暴れた。

悲鳴が上がる。

反射で振り向きそうになった兵を、その隣が肩を掴んで止めた。

教わったことが回っている。

見るな。

一人で行くな。

隣を確かめろ。

少し前なら、アタシも真っ先に駆けていた。

今だって行きたい。

でも、玉楼の手がここにある。

アタシの手も、玉楼の腕を掴んでいる。

だから止まれる。

やがて霧が少し薄くなった。

兵たちの輪郭が戻ってくる。

遠くの木も見え始めた。

誰かが息を吐いた。

「抜けるぞ……」

その声に、初めて空気が緩んだ。

アタシも思わず高唐州の方を振り返りそうになる。

「三娘様」

「分かってるって」

前を見る。

林冲の白い披風が、ようやく普通の距離に見えた。

ここまで来れば――

ゴォン。

鐘が鳴った。

兵たちが止まる。

アタシも止まった。

誰も高唐州の方を見ていない。

必要なかった。

音の方向だけは、全員が分かったから。

今度は、前から聞こえた。

玉楼でございます。

「玉楼、三娘に“離れないで”って言われたんだって?」

顧大嫂様が酒を置きました。

「はい」

孫二娘様が鍋を混ぜます。

「いつもと逆じゃないかァ?」

「わたくしも先に申し上げております」

幕舎の外から声が飛びました。

「今はアタシが言ったの!!」

「承知しております」

「そこ譲って!!」

顧大嫂様が笑います。

「で、林冲は?」

「遠くを見るな。隣だけ見ろ、と」 「玉楼じゃないかァ」

「はい、良い教えでございます」

「また優等生!!」

霧の中では、目も耳も信用できませんでした。

ですが、三娘様が隣にいることだけは確かめられます。

それなら下がれる――

そう思っておりました。

高唐州は、すでに背後のはずでした。

それなのに――

次の鐘は、私たちの前から聞こえたのでございます……

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