置けぬなら、預けろ
「二娘、妊娠って分かった瞬間から、周りの扱い変わりすぎじゃない?」
「三娘ォ、本人より周囲の認知が先に変わることはあるんだよォ」
玉楼が深く頷いた。
「三娘様には、今後いっそうご自愛いただきます」
「その言い方、絶対何か企んでるでしょ?」
「まさか」
孫二娘が玉楼の視線を追った。
「……玉楼、さっきから三娘ォの腰ばっかり見てないかい?」
「え?」
反射的に日月双刀を押さえる。
「玉楼?」
「何でもございません」
「待って……何で一歩近づいたの?」
孫二娘が楽しそうに笑った。
「三娘ォ、逃げるなら今だよォ」
「何から!?」
診察後、アタシたち三人は裏手の庵へ行くことになった。
六和寺は女人禁制だった。
追い返されたわけじゃない。
門前まで迎えに出た老僧は、申し訳なさそうに頭を下げた。
「当寺は女人禁制にございます」
孫二娘の眉が跳ね上がる。
「ここまで連れてきといて、今さら女は入れないってのかい?」
「ご不便は承知しております。寺の裏手に、使われておらぬ庵がございます。すでに人をやり、掃除と寝具の支度を始めさせました」
老僧が山裾を示す。
木々の間から小さな屋根が見えた。
六和寺の塀に沿った細道を使えば、そう遠くはないらしい。
「裏門までは庵からすぐにございます。何かございましたら、僧を走らせます」
先触れを受けた時点で、女が三人いると分かっていたのだろう。
用意はいいけど、できれば清渓を出る前に教えてほしかった。
女人禁制なんて、現地に着いてから表示される条件じゃないでしょ。
「アタシたちは庵で構わないわ」
そう答えると、孫二娘が横から睨んだ。
「三娘ォ、簡単に決めるんじゃないよォ」
「寺の決まりを破って入っても、落ち着かないでしょ」
「アタイは落ち着くよォ」
「お坊さんが落ち着かないの!」
玉楼が口元を隠した。
今、笑ったよね?
「玉楼?」
「何でもございません」
絶対笑った。
しかも診察が終わってから、玉楼は明らかにアタシとの距離を詰めている。
一歩動けば一歩ついてくるし、さっきからアタシの腰の日月双刀をちらちら見ていた。
嫌な予感がする……
「三娘様」
「何?」
「日月双刀をお預かりいたします」
「やっぱり!」
玉楼は返事を待たず、腰から双刀を外した。
「何で!? 身籠っただけで武将解任されたわけじゃないから!」
「存じております」
「じゃあ返して!」
「それとこれとは別でございます」
孫二娘が肩を揺らす。
「玉楼、早速始まったねェ」
「何が?」
「過保護だよォ。三娘ォはしばらく一人で厠にも行かせてもらえないんじゃないかねェ」
「そこまで!?」
「必要でしたら、お供いたします」
「必要ない!」
冗談で言ったはずの孫二娘まで一瞬黙った。
玉楼、本気だ。
閻婆惜が二娘を残した理由、今さら分かった気がする。
玉楼一人だと止める方向がおかしくなる。
「三娘ォ、安心しな。アタイがちゃんと調整してやるよォ」
「二娘……!」
「厠は一人で行かせる」
「調整する基準そこ!?」
孫二娘が楽しそうに笑う。
さっき姉と別れた時とは、もういつもの顔に戻っていた。
林冲は少し離れたところで、そんなアタシたちを見ていた。
診察では、中風の兆しがあると言われたばかりだ。
本来なら寺へ入って、すぐ横になっていなきゃいけない。
なのに蛇矛を手にしたまま、門の外へ出てきている。
「林冲、何してるの?」
「庵まで見る」
「休めって言われたでしょ」
「近い」
「距離の問題じゃない!」
林冲は何でもないことのように答えた。
「道を確かめるだけだ」
その言い方は、林冲隊を率いていた頃と変わらない。
まず道を見て、退く場所を確かめ、誰をどこへ置くか決める。
戦が終わっても、林冲の中では役目が終わっていない。
武松も寺の中から姿を見せた。
空になった左袖が風に揺れている。
「俺が送る」
「お前さんは自分の傷を見せな」
孫二娘が即座に返した。
「布の下がどうなってるか、アタイはまだ見てないよォ」
「見せる必要はない」
「片腕で包帯を巻き直せるようになってから言いなァ」
武松が黙った。
言い負かされたというより、面倒になった顔だ。
「無茶したら残った方の腕を引っ張って連れ戻すからねェ」
「どこへだ」
「どこでもだよォ」
「乱暴な女だ」
「今さら気づいたのかい?」
武松は答えず、右手だけ上げて寺へ戻った。
その背中を見送る孫二娘の横顔を、林冲が見る。
「お前も武松ばかり見ているな」
「見てないねェ」
「見ていた」
「林冲、そういう余計なところだけ急に鋭くならないでよ」
アタシが割って入ると、今度は孫二娘がこっちを見た。
「三娘ォは人のこと言えないだろ」
「何で?」
「李俊が見えなくなるまで突っ立ってたのは誰だったかねェ」
「今それ蒸し返す!?」
「選択的注意ってやつだよォ」
「心理学で恋する乙女認定しないで!」
玉楼まで真面目な顔で頷いた。
「ですが、李俊殿をお見送りになった時の三娘様は――」
「玉楼まで参加しない!」
林冲がほんの少しだけ笑った。
けれど、その笑みが消える時、右の口元だけが遅れた。
アタシは言葉を止める。
見間違いかと思った。
林冲はもう前を向いている。
庵までの道は細く、片側が緩い斜面になっていた。
木の根が土を持ち上げ、足元もあまり良くない。
林冲が先頭へ出ようとすると、孫二娘が肩を並べた。
「今日はアタイが前を歩くよォ」
「必要ない」
「三娘ォは吐きそうな顔してるし、玉楼は三娘ォばっかり見てる。だったらアタイしかいないだろ」
「わたくしは周囲も見ております」
「今も三娘ォ見てたよォ」
「同時に確認しております!」
「便利な目だねェ」
「二娘、玉楼をいじめないで!」
「アンタが庇うと余計に喜ぶよォ」
「何で!?」
玉楼がわずかに頬を染めた。
本当に何で?
庵は六和寺の塀から少し下った場所にあった。
小さいけれど、荒れ果ててはいない。
若い僧たちが戸を開け、積もった埃を掃き出している。
庭には井戸があり、裏手には薪も積める。
「しばらく使ってなかったにしては悪くないねェ」
孫二娘が中を覗く。
「三人で暮らすには十分でございます」
玉楼はもう寝台と炊事場の位置を見ていた。
どこへ行っても、最初に人が暮らせる形を考える。
戦場でも町でも、玉楼が隣にいると妙に安心する。
アタシが庵へ上がろうとした時、炊事場から湯気と一緒に匂いが流れてきた。
胃がひっくり返る。
「うっ……」
口を押さえて戸口から離れると、玉楼がすぐ背中へ手を添えた。
「三娘様!」
「大丈夫……吐いてない」
「吐かなければ大丈夫ということではございません」
孫二娘も振り返った。
「朝から大して食べてないだろォ」
「食べたら出そうなのよ」
「何が?」
「聞かないで!」
「そういうところだけ乙女になるんだねェ」
「今はなるわよ!」
林冲までこちらを見る。
その視線が、アタシの顔から腹へ移った。
今そこ見られると、ものすごく恥ずかしい。
「ちょっと、林冲まで何よ?」
林冲は少し間を置いた。
「李俊は、知っているのか?」
「まだ知らないわ」
答えた途端、妙に現実味が増した。
李俊は知らない。
アタシの腹に、自分の子がいることを。
蘇州へ行って、費保たちと合流して、支度を整えて、それから迎えに戻ってくる。
その時、どう言えばいいんだろう?
おかえり、子どもできてました。
軽すぎる……
あなたの子です。
重すぎる……
「……二娘」
「何だい?」
「李俊に言う時、一緒にいて」
「嫌だねェ」
「即答!?」
「そこは当事者二人でやりなァ。アタイが横で心理的安全性を確保する話じゃないよォ」
「何のためのお姉さん枠なの!?」
「からかうためだよォ」
「最っ低!」
玉楼が咳払いした。
「三娘様、まずはお身体を休めて――」
その時だった。
後ろで、硬い音がした。
林冲の蛇矛が地面へ落ちていた。
本人は立っている。
けれど右手は、何かを掴もうとした形のまま動いていない。
「林冲?」
「滑った……だけだ」
声が濁っている。
林冲は左手で蛇矛を拾おうと腰を屈めた。
右脚から力が抜けた。
膝が崩れ、身体が斜めに傾く。
孫二娘が飛びつき、アタシも反対側から支えた。
「離せ」
「離したら倒れるでしょ!」
「立て……る」
言葉の端が潰れている。
林冲自身も気づいたらしい。
口を動かし、もう一度言おうとするのに、声にならない。
「林冲、アタシが分かる?」
強く頷いた。
意識はある。
なのに右腕は垂れたまま、右脚にも力が入っていない。
玉楼が林冲の顔を見て息を呑む。
「お口が……」
右の口元が下がっていた。
「僧を呼んで!」
庵を掃除していた若い僧が裏道へ走る。
林冲は左手で地面を押し、起き上がろうとした。
「動かないで!」
「寺へ……武松を……」
「武松を呼べってこと?」
林冲がかすかに頷いた。
孫二娘が林冲の肩を支えたまま怒鳴った。
「分かったから、今は自分の身体を見な!」
林冲の目が、落ちた蛇矛へ向いた。
右手を動かそうとしている。
指先がわずかに震えた。
それでも腕は上がらない。
「矛がどうしたの?」
林冲は答えようとした。
喉から崩れた音が漏れる。
何度目かで、ようやく一つの言葉になった。
「……持てぬ」
あの林冲が、自分の口で言った。
蛇矛を持てないと。
六和寺の裏門が開き、武松と僧たちが駆けてくる。
武松は林冲の姿を見るなり片膝をついた。
「いつからだ」
「今、急に……右が動かない。言葉も変」
武松が林冲の左手を握る。
「俺が分かるか」
林冲は強く握り返した。
「……武、松」
名は言えたし、意識も記憶もある。
それなのに身体だけが、林冲を置き去りにしようとしている。
僧たちが戸板を寄せると、林冲は左手で武松の腕を掴み、首を振った。
「寺には……入らぬ」
「何を言っている」
「私は……」
続かない。
林冲の目が六和寺の方へ向いた。
寺へ入れば休めるし、もう戦わなくてもいい。
誰かを守るために、蛇矛を握らなくてもいい。
それなのに左手は地面を探り、落ちた柄へ伸びている。
武松が蛇矛を拾った。
「これは俺が持つ」
林冲の目が鋭くなる。
返せ、と言いたいのだろう。
武松は蛇矛を抱え、林冲の耳元へ顔を寄せた。
「置けぬなら、預けろ」
林冲の左手が武松の袖を強く掴んだ。
まだ力は残っている。
やがて、その指が少しずつ緩んでいく。
「林冲?」
目は開いている。
呼びかけにも応じようとしているのに、もう言葉が形にならない。
林冲は息を吸い、何かを伝えようとした。
六和寺の鐘が鳴り始める。
一つ目の音が山へ広がり、二つ目が庵の屋根を震わせた。
三つ目が響いた時、林冲の瞼がゆっくり下がる。
「林冲!」
アタシが名を呼んでも、返事は返ってこない。
それでも左手は、武松の袖を離していなかった。
武松が顔を近づける。
林冲の唇が、最後にもう一度だけ動いた。
「何て言ったの?」
武松は答えなかった。
蛇矛の柄を右手で握ったまま、しばらく林冲の顔を見ている。
僧たちが戸板を寄せた。
その時になって、武松はようやく顔を上げた。
「急げ」
そして林冲の身体を支えながら、はっきり言った。
「こいつは、まだ死ぬ気がない」
林冲殿が運ばれたあと、三娘様はしばらく六和寺の方を見ておられました。
「……様子、見に行った方がいいかな?」
「駄目でございます」
「まだ何もしてない!」
孫二娘殿が笑います。
「三娘ォ、その台詞は行動化の直前によく出るやつだねェ」
「何その危険人物みたいな分析!?」
「実績に基づく評価でございます」
「玉楼まで閻婆惜みたいになってる!」
三娘様が頬を膨らませました。
「アタシは大丈夫だから」
孫二娘殿と顔を見合わせます。
「三娘ォ」
「三娘様」
「何よ?」
「本日、その言葉は使用禁止でございます」




