辞令書でございます
「二娘、六和寺って休むところだよね?」
「そうだねェ。少なくとも戦場じゃないよォ」
「なのに、何でアタシ嫌な予感しかしないの?」
孫二娘がアタシの顔を覗き込んだ。
「予期不安ってやつかねェ。緊張が長く続いた後は、安全な場所でも警戒を解けないことがあるんだよォ」
顧大嫂が鼻で笑う。
「三娘の場合、嫌な予感が当たりすぎるのが問題なんだよ」
「縁起でもないこと言わないで!」
「じゃあ今日は何も起きないといいねェ」
「その言い方がもうフラグなの!」
「三娘、前見な」
「何?」
顧大嫂の笑顔が消えた。
その直後、前方で硬いものが地面を叩く音がした。
六和寺の門が見えたところで、林冲の膝が崩れた。
蛇矛の石突が地面を叩き、乾いた音が響く。
「林冲!」
馬から飛び降りようとした瞬間、先に武松が動いた。
片腕で林冲の身体を受け止め、そのまま地面へ倒れるのを防ぐ。
「触るな!」
孫二娘の声が飛び、アタシの足が止まった。
「でも!」
「今は囲む方が邪魔だよォ。玉楼、寺へ人を呼んどくれ!」
「承知いたしました!」
玉楼がすぐに駆けていく。
林冲は意識を失ってはいなかった。
武松に支えられながら何度か口を動かし、ようやく声を絞り出す。
「……だい、じょう……」
全然大丈夫じゃない。
蛇矛を握ろうとしている右手の指が、思うように動いていなかった。
「三娘ォ、そこで止まりな」
孫二娘に腕をつかまれる。
「二娘……」
「心配なのは分かる。でも、今のアンタまで倒れたら患者が増えるだけだよォ」
「患者って言わないで!」
「じゃあ要観察者」
「心理学っぽく言い換えても駄目!」
顧大嫂が小さく吹き出した。
「まだ言い返せるなら、アンタは大丈夫そうだね」
「アタシの判定基準おかしくない!?」
林冲が寺へ運び込まれ、門前がようやく落ち着いた頃、本隊の方から一人の女が歩いてきた。
腕には紙の束。
「……閻婆惜?」
久しぶりに見る顔だった。
閻婆惜はいつものように丁寧に頭を下げる。
「ご無沙汰しております、三娘様」
「本当に久しぶり……って、何その紙?」
「辞令書でございます」
出た――
久しぶりに会った第一声の次が辞令書。
何も変わってない。
「何の?」
「六和寺にて、凱旋列から一時離脱していただく方々についてでございます。先に上げました稟議は、宋江様より決裁をいただいております」
閻婆惜が書面へ目を落とした。
「林冲様、武松様、扈三娘様、孫二娘様、呂玉楼様。以上五名でございます」
「アタシ入ってる!」
孫二娘が肩を揺らす。
「三娘ォ、とうとう組織的に止められたねェ」
「笑うところじゃない!」
玉楼は即座に閻婆惜へ頭を下げた。
「適切なご判断、ありがとうございます」
「玉楼!?」
完全に敵陣だった。
「何でアタシまで?」
「ここ数日の体調不良が続いております。歩けることと、凱旋行事へ参加させてよいことは別でございます」
「正論で殴らないで!」
閻婆惜の視線が一瞬だけアタシの腹へ落ちた気がした。
でも、何も言わない。
「二娘まで残る理由は?」
「三娘様への配慮でございます」
「またアタシ!?」
孫二娘の眉が上がった。
「玉楼様は従者として三娘様のお側を離れないでしょう。しかし、三娘様が無理を押し通された場合、玉楼様だけでは止めきれない可能性がございます」
「何その評価!」
「実績による判断でございます」
顧大嫂がとうとう声を上げて笑った。
「よく見てるじゃないか!」
「笑わないで!」
「ゆえに、姉代わりとして遠慮なく止められる孫二娘様にも残っていただきます」
孫二娘がアタシの肩へ腕を回す。
「三娘ォ、アタイまで正式に姉扱いされたよォ」
「喜んでる場合!?」
「悪くないねェ」
妖艶なお姐さんが、ものすごく楽しそうだった。
李俊が閻婆惜を見る。
「宋江は本当に承知してるのか?」
「はい、林冲様と武松様は療養、三娘様は休養。玉楼様と孫二娘様は付き添いでございます」
早い……
アタシが知らないうちに、全部終わってる。
閻婆惜は辞令書を抱え直した。
「全員を元の列へ戻すことが、正しいとは限りませんので」
その声だけが少し静かだった。
「戦が終わったからと申しまして、失ったものまで元に戻るわけではございません。戻れない方を、無理に同じ列へ並べる必要もないと存じます」
返事ができなかった。
梁山泊は勝ったけれど、もう元の梁山泊じゃない。
昨日まで隣にいた人が消え、残った人にも傷がある。
それでも凱旋となれば、みんな同じ方向を向いて歩くものだと思っていた。
閻婆惜は、そうじゃないと言っている。
この人はたぶん、アタシたちよりずっと先まで見ている。
そして、夫の孫新が本隊にいる顧大嫂は、ここで別れることになった。
「三娘、今度こそ大人しくしてな」
「分かってる」
「その返事が一番信用できないんだよ。孫二娘、任せたよ」
「任せなァ」
顧大嫂が去ると、閻婆惜は今度は李俊を呼び止めた。
「李俊様、確認がございます」
「何だ?」
「三娘様を、後ほど迎えに来られますね?」
李俊は一瞬も迷わなかった。
「来る」
心臓が跳ねた。
もう少し考えるとかないの?
即答されると余計に困る。
「蘇州で費保殿たちと合流されましたら、まず受け入れの支度を整えてくださいませ。船、人員、それから三娘様が無理なく移動できる場所も必要でしょう」
李俊の目が細くなった。
「……待て。何で費保を知ってる?」
「存じております」
「答えになってねぇ。費保たちのことは宋江にも話してねぇぞ」
「そうでございますね」
何、その会話?
「どこで知った?」
「必要なことは把握しております」
「怖ぇ女だな」
「褒め言葉として承ります」
孫二娘が横でにやにやしている。
「三娘ォ、あの二人、相性悪そうで会話は噛み合ってるねェ」
「そこ分析する?」
閻婆惜は何事もなかったように続けた。
「蘇州で離脱なさる際も、急に元気にならないようお願いいたします」
「は?」
「疲労が限界に達したように振る舞ってくださいませ。突然倒れるのは、かえって不自然です」
「芝居までさせるのか?」
「離脱していただくのでございますから」
「細けぇな」
「失敗されるよりはよろしいかと」
アタシは頭を抱えた。
「何で離脱に演技指導まで入るの!?」
「李俊様が迎えに来られなくてもよろしいのですか?」
「それは駄目!」
「では必要でございます」
ぐうの音も出ない。
閻婆惜、マジ強い……
「もう一つ。できましたら、迎えに来られるのは三娘様のお身体が落ち着いてからにしてくださいませ」
李俊がアタシを見て、すぐ閻婆惜へ視線を戻した。
「分かった」
「早い!」
「無理させる理由がねぇ」
閻婆惜がほんの少しだけ目を細める。
何か知っているような顔だったが、それ以上は言わなかった。
李俊がアタシの前へ来る。
「蘇州へ行く。費保たちと合流して、支度ができたら戻る」
「……うん」
「待ってろ」
最近、また待ってばかりだ。
でも今度は、帰ってくる相手を待つ。
「来なかったら?」
李俊が少し笑った。
「舟を沈めても来る」
「沈めないで来て」
「注文が多いな」
「当たり前でしょ」
李俊の手がアタシの手に触れ、そのままほんの少しだけ握った。
「迎えに来る」
今度は、はっきり言った。
アタシも頷く。
李俊が本隊へ戻っていく。
見えなくなるまで見送っていたら、孫二娘が隣へ来た。
「三娘ォ、顔が完全に恋する乙女だねェ」
「今それ言う!?」
「今だからだよォ」
玉楼まで静かに頷く。
「わたくしも同意いたします」
「玉楼まで!?」
また味方がいない。
その向こうで、閻婆惜も辞令書をまとめていた。
どうやら、このまま本隊へ戻るらしい。
孫二娘がそちらを見る。
さっきまで笑っていた顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。
「……姉さん」
閻婆惜の手が止まる。
二人が姉妹なのは知っている。
前の職場では、閻婆惜はアタシの先輩でもあった。
だから二娘がそう呼ぶこと自体に驚いたわけじゃない。
ただ、その一言が出た途端、二人の間だけ空気が変わった。
「何でございますか?」
「三娘ォは、アタイが見てるよ」
閻婆惜は一度アタシを見てから、静かに頷いた。
「お願いいたします」
「姉さんは?」
「私には、まだ片づける仕事がございますので」
「相変わらずだねェ」
「あなたこそ」
孫二娘が笑った。
いつもの、人をからかう時の妖艶な笑みだった。
なのに、目だけが少し違って見えた。
閻婆惜が一歩近づき、孫二娘の肩へ手を置く。
「身体を大切になさい」
「それ、姉さんに言われたくないねェ」
「そうでございますね」
閻婆惜も笑った。
二娘はしばらくその顔を見てから、急に閻婆惜の肩を抱いた。
ほんの短い間だった。
「じゃあね、姉さん」
「ええ」
それだけ。
また会おうとも、気をつけてとも言わなかった。
閻婆惜は身体を離すと、いつもの顔へ戻り、本隊の方へ歩いていった。
二娘は追わない。
「……二娘?」
呼ぶと、孫二娘はいつものように笑った。
「何だい、三娘ォ?」
「いや……何でもない」
今は、何も言わない方がいい気がした。
そして、閻婆惜の背中が見えなくなるまで、二娘はその場から動かなかった。
その日の夕方、六和寺へ出入りしている医師が呼ばれた。
先に診てもらった林冲は、脈だけでなく目や手足の動きまで確かめられた。医師の顔が次第に険しくなる。
「中風の兆しがございます。しばらく動かしてはなりません」
誰も驚かなかった。
ずっと見えていた異変に、ようやく名前がついただけだった。
林冲が何も言わずにいると、武松が隣へ座った。
「俺がいる」
それだけだった。
林冲はしばらく武松を見てから、ほんの少しだけ頷く。
そのやり取りを見ていたら、胸が痛くなった。
林冲はずっと、人が帰れる場所を残そうとしてきた。
今度は、この人自身が立ち止まる番なのかもしれない。
次に医師がアタシを見た。
嫌な予感がする。
「次は扈三娘殿を」
「アタシ?」
「三娘ォ、逃げるなよォ」
孫二娘が先に出口へ立った。
「何で塞ぐの!?」
「予測可能性が高いからねェ」
玉楼まで反対側へ回る。
「三娘様、どうぞ」
「また包囲!?」
仕方なく座ると、医師が手首へ指を置いた。
妙に長いうえ、一度手を離したあと、今度は反対の手首まで取られる。
何で二回? 嫌なんだけど。
「何か悪い病気?」
聞いても、医師はすぐ答えなかった。
玉楼が固まり、孫二娘まで黙っている。
その沈黙が一番怖い。
やがて医師が顔を上げる。
「病ではございません」
「じゃあ何?」
医師は静かに頭を下げた。
「おめでとうございます。まだ日は浅いようですが――身籠っておられます」
頭の中が真っ白になった。
李俊の顔が浮かぶ。
あの夜も、その翌朝も。
「……は?」
それしか出なかった。
孫二娘が、ゆっくりアタシの肩へ手を置く。
玉楼は目を見開いたまま動かない。
アタシは自分の腹を見る。
ずっと重かった場所。
気持ち悪くて、だるくて、何かがおかしいと思っていた場所。
そこに――
李俊の子がいる。
「三娘様、しばらく日月双刀はお預かりいたします」
「何で!?」
「お身体に障ってはなりませんので」
孫二娘殿が笑いました。
「玉楼、もう過保護が始まったねェ」
「当然でございます!」
「妊娠しただけでアタシ武将解任されてないから!」
「三娘ォ、そういうところを止めるためにアタイが残されたんだよォ」
「閻婆惜、そこまで読んでたの!?」
私は日月双刀を抱え直しました。
顧大嫂殿が本隊へ戻られた今、三娘様をお守りする人数は減っております。
ですから、私と孫二娘殿で――
「ねえ玉楼」
「はい?」
三娘様が急に黙りました。
「……李俊に、どうやって言おう?」
孫二娘殿と私は顔を見合わせました。
そのことだけは、まだ考えていなかったのでございます。




