檻が一つ開いた
「二娘、敵の親玉を檻車で送り出した日の予定って、普通どうなると思う?」
「戦後処理じゃないかねェ」
顧大嫂が笑った。
「アンタの場合、その次に宴会って顔してるよ」
「何で分かるの!?」
「三娘ォ、緊張が切れた後は反動で食欲が出ることもあるんだよォ」
「心理学で夕飯を正当化しないで!」
「顔色悪いのに食う気だけはあるんだね」
「そこは別問題!」
孫二娘が肩をすくめた。
「でも三娘ォ、今日は食う前に一仕事あるよ」
「……何?」
顧大嫂の顔から笑みが消えた。
「杜微だよ」
方臘を載せた檻車は、朝一番に清渓を出た。
縄を掛けられ、何重にも兵に囲まれている。
昨日まで聖公を名乗っていた男が、今日は東京開封府へ送られる囚人だった。
幇源洞まで逃げられた以上、護送の兵は多く、誰も油断していない。
「今度こそ途中で消えたりしないよね?」
思わず口にすると、隣の李俊がこちらを見る。
「消えたら護送してる連中の責任だ」
「急に他人事!」
「俺は舟を出せと言われたら出す」
「陸路の責任だけ綺麗に避けた!」
後ろで孫二娘が笑った。
「三娘ォ、李俊は責任範囲の切り分けが上手いねェ」
「そういう会社員みたいな評価いらない!」
顧大嫂が鼻で笑う。
「アンタは何でも自分で追いかけようとするから、少し見習った方がいいよ」
「昨日ちゃんと待ったでしょ!」
「一回で卒業したつもりかい?」
厳しい。
玉楼だけは味方だと思って横を見る。
「三娘様は昨日、見事にお待ちになりました」
「玉楼!」
「ですので本日も、無理をなさらずお過ごしくださいませ」
味方じゃなかった。
方臘の一行が遠ざかっていく。
最後まで振り返らなかった。
怒鳴りもしなければ、命乞いもしない。
背中だけを見れば、まだ自分が何かを支配しているつもりなのかもしれない。
けれど、もう清渓には戻れない。
幇源洞にも。
方臘の姿が道の向こうへ消えたところで、宋江が息を吐いた。
「これで一つ、終わった」
一つ――
そう、まだ残っている。
昨夜から、その名前はずっと頭の隅にあった。
――杜微――
処刑は昼前と決まっていた。
秦明を討ち、その後も方臘を逃がすために動き、清渓へ潜み、最後には王嬌嬌たちの屋敷を利用して逃げ切ろうとした男。
捕らえた時から、結末はほとんど決まっていた。
それでも処刑の場へ向かう途中、胃のあたりが重くなった。
体調のせいなのか、これから人が死ぬからなのか、自分でも分からない。
「三娘様、お顔が」
「言わないで」
玉楼が止まった。
反対側から李俊まで見る。
「何よ?」
「まだ何も言ってねぇ」
「最近みんな顔で会話しすぎなの!」
そこへ孫二娘がすっと顔を寄せてくる。
「非言語コミュニケーションは情報量が多いからねェ」
「二娘まで乗らないで!」
「顔色悪いよォ」
結局言われた。
処刑場には、すでに人が集まっていた。
花栄もいた。
顔を見た瞬間、笑う気が消える。
秦明のことがある。
杜微が縄を掛けられて連れてこられても、花栄は何も言わなかった。
ただ立って見ていた。
その静けさの方が、怒鳴られるより怖かった。
杜微は最後まで周囲を見ていた。
逃げ道を探しているようにも、人の心が揺れる場所を探しているようにも見える。
昨日までなら、それで誰かを動かせたのかもしれない。
今日は、誰も動かない。
宋江が罪状を告げた時、杜微は何か言い返そうとした。
許しを乞う声ではなかった。
まだ自分には言葉でひっくり返せると思っている顔だった。
けれど、長くは続かなかった。
王嬌嬌たちの屋敷で捕らえられたことも、逃走のために女たちを利用しようとしたことも、すでに証言が揃っている。
最後に宋江が問う。
「言い残すことはあるか?」
杜微は一度だけ笑った。
「勝ったつもりか?」
その言葉に、誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
蔡慶が前へ出る。
アタシは目を逸らさなかった。
怖くないわけじゃないし、見たいわけでもない。
でも、秦明はもういない。
杜微に利用されかけた女たちも、昨日まで自分の人生を自分で決められなかった。
なら、ここだけ都合よく見なかったことにはしたくなかった。
刃が落ちた。
それで終わった。
孫二娘が息を吐く。
顧大嫂は腕を組んだまま、しばらく動かなかった。
花栄だけが杜微のいた場所を見ている。
誰も声をかけなかった。
今は、それでいい気がした。
昼を過ぎた頃、王嬌嬌の屋敷から使いが来た。
昨日まで杜微が逃げ込んでいた屋敷から、今度は宴への招きだった。
「宴?」
思わず聞き返すと、使いの女が笑った。
「嬌嬌姐さんが、皆様へぜひお礼をと」
孫二娘が横から顔を出す。
「三娘ォ、今度は敵将を捕まえるための演奏じゃないみたいだよォ」
「そこ確認する必要ある!?」
「条件づけってあるからねェ。同じ屋敷、同じ楽器で緊張する可能性は――」
「アタシを実験動物にするな!」
夕方、屋敷へ行くと、数日前とはまるで空気が違っていた。
焦げた匂いはまだ少し残っている。
けれど戸は開け放たれ、女たちは奥へ隠れていなかった。
王嬌嬌が入口まで出てくる。
「先日は、本当にありがとうございました」
深く頭を下げた。
「今日は、私どもがお招きしたい方だけをお招きしております」
その一言で、胸に引っかかっていたものが少しほどけた。
客を選ぶのは、この人たちだ。
もう杜微じゃない。
「じゃあ遠慮なく食べる!」
「三娘様」
玉楼が即座に止めた。
「何で!?」
「体調をお考えくださいませ」
「食べるくらいいいでしょ!」
席につく前からこれである。
しかも李俊まで料理を見ている。
脂の強そうな皿へ手を伸ばしたら、先に皿をずらされた。
「ちょっと!」
「それはやめとけ」
「アタシの夕飯!」
「昨日吐きそうになってただろ?」
「今日は大丈夫!」
「そう言う奴ほど信用ならん」
孫二娘が横で嬉しそうに酒を飲んでいる。
「三娘ォ、完全に行動管理されてるねェ」
「助けて!」
「嫌だよォ。面白いから」
「妖艶なお姐さん枠の使い方、絶対間違ってる!」
顧大嫂が吹き出した。
「アンタら、もう夫婦みたいだね」
「違う!」
反射的に叫んだあと、李俊を見る。
李俊もこっちを見ていた。
何で黙るの……
何か言ってよ!
「……違うのか?」
「そこで聞き返す!?」
王嬌嬌まで袖で口元を隠している。
恥ずかしい。
敵地の宴より逃げたい。
玉楼は真顔だった。
「三娘様、お水を」
「ありがとう! 今一番信頼できる!」
「李俊殿のお選びになった料理も、身体にはよろしいかと存じます」
「そっち側だった!」
逃げ場がない。
でも、笑えた。
先日まで同じ場所で杜微を捕らえるために息を潜めていたとは思えない。
春香も、阿雀もいる。
王嬌嬌のそばで、ちゃんと自分の席に座っている。
宴が終わる頃、王嬌嬌が立った。
「明朝、皆様は清渓を発たれると伺いました」
「うん」
「では、その時に一曲だけ」
「今じゃないの?」
王嬌嬌は微笑んだ。
「お送りする音は、門の外へ向かう方へ奏でとうございます」
その意味が、何となく分かった。
翌朝――
清渓を出る隊列が動き始める。
方臘はすでに東京へ送られ、杜微もいない。
アタシたちは杭州方面へ戻り、その途中で六和寺へ寄ることになっていた。
武松や負傷者を休ませるためだという。
林冲も同行する。
少し顔色が悪いのが気になったけれど、本人は何でもないと言った。
「本当に?」
「戦の疲れだ」
「なら休んでよ?」
「六和寺でな」
いつもの答えだった。
だから、その時は深く考えなかった。
城門が近づいたところで、後ろから琵琶が鳴った。
振り返ると、王嬌嬌がいた。
春香、阿雀、翠玉、それから屋敷の女たちが並んでいる。
阿雀の拍板が重なった。
この前は、杜微を追い詰める合図になった音。
今日は違う。
誰かを閉じ込めるためじゃない。
誰かの機嫌を取るためでもない。
アタシたちを送り出すための音だった。
「三娘様」
玉楼が馬を並べる。
「うん」
後ろには孫二娘と顧大嫂がいて、反対側には李俊がいる。
アタシは一度だけ王嬌嬌たちへ手を振った。
王嬌嬌は演奏を止めなかった。
そのまま、音でアタシたちを送り出してくれた。
清渓の門を出る。
琵琶と拍板の音が、しばらく背中を追ってきた。
その音の中で、林冲がふいに口を開いた。
「六和寺まで、あと――」
言葉が止まる。
「林冲?」
ほんの一瞬だった。
けれど、林冲の口元がうまく動いていないように見えた。
本人はすぐに顔を戻す。
「……何でもない。行こう」
王嬌嬌たちの音は、まだ遠くで聞こえている。
アタシは馬を進めながら、林冲の横顔を見た。
清渓では、檻が一つ開いた。
なのに今度は、別の何かが静かに閉じ始めている気がした。
「玉楼、三娘ォが『違う!』って言った時、李俊の顔見たかい?」
「拝見いたしました」
孫二娘殿が楽しそうに笑います。
「否定する気、全然なかったねェ」
顧大嫂殿まで頷きました。
「むしろ『何で違うんだ?』って顔だったよ」
「三娘様だけがお気づきでないのでございます」
「玉楼、言うねェ」
「事実でございます!」
お二人が笑った、その時でした。
少し前を進んでいた林冲殿の身体が、ふらりと揺れます。
「……林冲殿?」
呼びかけても、すぐには返事がありませんでした。




