宋代の蚊、強すぎない?
「二娘、待つだけって、こんなに疲れるものなの?」
「三娘ォは前へ出ることで不安をごまかすタイプだからねェ。行動化ってやつだよォ」
顧大嫂が鼻で笑った。
「要するに、じっとしてられないだけだろ」
「雑にまとめないで!」
「でも今回は座って待つんだろォ?」
「……そのつもり」
二人が同時に黙った。
「何その顔!?」
「成長したねェ」
「病気じゃないだろうね?」
「ひどくない!?」
顧大嫂が山の方を見た。
「で、魯智深は?」
アタシもそっちを見る。
「まだ戻ってない」
孫二娘の笑いが消えた。
「三娘ォ」
「何?」
「走るなよォ」
「先に釘刺すのやめて!」
魯智深は、戻ってこなかった。
方臘が幇源洞の抜け道から山へ逃げ、その後を追ったはずなのに、煙が薄くなっても姿が見えない。
柴進から山中の道を聞いた朱武は、出口になりそうな場所へ兵を回していた。
林冲も追手を出しているけれど、むやみに人数を増やせば、細い山道で互いに邪魔になる。
つまり、今できることは――待つこと。
一番苦手なやつだった。
「……遅くない?」
馬上から何度目か分からない山道を見ていると、隣の李俊が答えた。
「山だぞ。舟みたいに真っ直ぐ戻ってくるわけじゃねぇ」
「それは分かってる」
「分かってる顔じゃねぇな」
また顔?
最近この人、アタシの表情を読む能力だけ異様に上がってない?
鐙へ力を入れた途端、李俊が轡を押さえた。
「何してる?」
「ちょっと様子を見に――」
「行かせねぇよ」
「まだ最後まで言ってない!」
「山へ行くんだろ?」
「……何で分かるの?」
李俊は答えず、反対側にいる玉楼を見た。
玉楼まで真顔で頷く。
「わたくしにも分かりました」
「何で二人して意思疎通できてるの!?」
後ろから孫二娘が笑った。
「三娘ォ、行動の予測可能性が高すぎるんだよォ。考えたことが表情から身体へ直結してるからねェ」
「今アタシの心理分析いる!?」
「便利じゃないか。止める側には」
「止める側って何!?」
顧大嫂まで肩を揺らしている。
「安心しな。アンタ一人くらいなら、四人がかりで止められるよ」
「敵将みたいに扱わないで!」
言ってから周囲を見ると、李俊と玉楼が左右を固め、後ろには孫二娘と顧大嫂までいる。
本当に四人がかりだった。
方臘軍より突破しづらいんだけど……
「三娘様、こちらへ」
玉楼が近くの平らな岩を示した。
「座れって?」
「はい」
「座ったら負けた気がする」
顧大嫂が即座に返す。
「倒れた方が負けだよ」
「正論やめて!」
しかも、身体の方は完全に顧大嫂へ賛成していた。
昨日から続く妙なだるさは抜けず、肩には杜微の飛刀で受けた傷も残っている。
戦っている間は気にならなかったのに、力を抜いた途端、じわじわ疼き始めた。
腹の奥にも重さが残っている。
原因はさっぱり分からないけれど、今山道を駆け上がれば、途中で自分が救助対象になる未来だけは見えた。
最悪……
「……分かった。座るわよ」
孫二娘の目が丸くなった。
顧大嫂まで黙る。
「何その反応!?」
「いやァ、三娘ォが自分から座るとはねェ」
「アタシだって成長する!」
「心理学的にも行動変容は――」
「研究対象にするな!」
近くにいた林冲が、こちらを見て笑った。
「待つのも戦だ」
前にも言われた言葉だった。
あの時は、頭では分かっていた。
今は少し違う。
前へ出る方が、ずっと簡単だ。
敵が見えれば斬ればいいし、怖くても馬を走らせればいい。
何かしている間は「何もできない」という感覚から逃げられるけれど、待っている時はそれができない。
だから、きつい。
岩へ腰を下ろすと、李俊がすぐ隣に立った。
「そこまで見張る?」
「見張ってねぇ」
「じゃあ何してるの?」
「いるだけだ」
余計に困る。
そういうことを平然と言うの、本当にやめてほしい。
孫二娘を見ると、案の定にやにやしている。
「二娘」
「何だい?」
「こっち見ないで」
「見てないよォ」
「口元が笑ってる!」
「三娘ォ、自意識過剰じゃないかねェ」
絶対違う。
顧大嫂が孫二娘の肩を叩いた。
「ほどほどにしときな。顔が真っ赤になってるよ」
「誰のせい!?」
李俊がこっちを見る。
「見ないで!」
「何でだ?」
「今は!」
「分からん」
分からなくていい!
そんな馬鹿なやり取りをしている間にも、時間は過ぎていく。
山へ入った兵が何人か戻ったが、魯智深も方臘も見ていないという。
方臘の足跡らしいものは残っていたものの、岩場へ入ると途切れ、そこから先は追いにくいらしい。
柴進が朱武と地面に図を描きながら話している。
「この先で道が二つに分かれる。一方は崖へ出る。もう一方は谷へ下りる」
「魯智深殿なら?」
「道を選ぶ男か?」
朱武が黙り、アタシも言葉を失った。
たぶん魯智深は道なんて選ばず、方臘が逃げた方へそのまま突っ込んでいる。
そう思うと、妙な安心感と不安が同時に押し寄せた。
「魯智深なら大丈夫だよ」
口にしたのに、自分で自分を納得させているだけなのが分かる。
玉楼が隣へ立った。
「はい、あのお方であれば」
「玉楼もそう思う?」
「はい、ただし三娘様が追いかける理由にはなりません」
「先回りされた!」
本当に味方が強い。
どれくらい待ったのか。
幇源洞から立ち上っていた煙がほとんど消えた頃、山の奥で重い何かが岩へぶつかったような音が一度だけした。
兵たちが一斉に顔を上げる。
「……今の何?」
返事はない。
李俊がアタシの前へ半歩出た。
玉楼も方天画戟を握る。
さっきまで笑っていた孫二娘の表情からも、ふっと軽さが消えた。
枝が揺れた。
今度は足音が聞こえる。
一人じゃない。
何かを引きずるような音まで混じっている。
林冲が蛇矛を構えた。
「まだ射るな!」
弓兵が弦を引いたまま止まる。
山道の影から、最初に姿を現したのは禅杖だった。
泥にまみれ、岩へ打ちつけたらしい傷が増えている。
続いて太い腕と、あちこち破れた僧衣に包まれた大きな身体が現れた。
「魯智深!」
誰かが叫んだ。
生きてる。
それだけで身体から一気に力が抜けた。
「よかった……」
思わず立ち上がろうとしたところで、李俊に肩を押さえられる。
「座ってろ」
「今くらいいいでしょ!」
「後ろを見ろ」
後ろ?
魯智深は一人ではなかった。
片手に禅杖を持ち、もう片方には縄を握っている。
縄は後方へ伸びていた。
そこから、白い衣の男が現れる。
裾は裂け、全身は泥だらけで、額からも血が流れている。
それでも背筋だけは不自然なほど伸びていた。
見覚えがある。
幇源洞の奥へ逃げ、最後まで聖公を名乗り続けた男――方臘。
今度こそ、声が出なかった。
周囲まで静まり返る。
魯智深は、そんな空気など知ったことかという顔で縄を引いた。
「逃げ足だけは大したものよ」
方臘がよろめく。
「歩け。ここまで追わせておいて、最後に担がせる気か」
そこなの?
天下の逆賊を捕まえたとか、もう少し何かないの?
顧大嫂が吹き出した。
孫二娘も肩を震わせる。
「三娘ォ、魯智深は最後まで魯智深だねェ」
「安心するけど、何か違う!」
林冲が駆け寄った。
「魯智深殿、傷は?」
「こんなもの、蚊に食われたようなものだ」
僧衣の肩は裂け、そこから血まで滲んでいる。
宋代の蚊、強すぎない?
「それ絶対蚊じゃない!」
思わず言うと、魯智深がこちらを見た。
「扈三娘、おぬしも顔色が悪いぞ」
「今そこ!?」
何で捕らえてきた方臘よりアタシの顔色が話題になるの!
孫二娘が笑いを堪えきれなくなった。
「三娘ォ、もう戦場全体の共通認識なんじゃないかねェ」
「嫌すぎる!」
方臘は宋江の前まで引き立てられた。
武器も幇源洞も失い、方杰は討たれ、杜微まで捕らえられている。
もう方臘に逃げる場所はないのに、膝をつかなかった。
魯智深に縄を引かれても、自分の足で立っている。
その姿を見ているうちに、ようやく胸の中へ実感が落ちてきた。
終わった。
方臘との戦が、本当に終わった。
嬉しいはずなのに、浮かれてはいられない。
ここまで来る間に、何人もの仲間を失った。
歙州まで来てからも、欧鵬、李雲、石勇が死んだ。
勝ったからって、それがなかったことになるわけじゃない。
でも――これ以上、この戦で誰かが死ななくて済む。
アタシは玉楼を見る。
振り返れば孫二娘と顧大嫂がいて、反対側には李俊が立っている。
みんな、生きてここにいる。
その事実だけで、今日は十分だった。
「三娘」
李俊が呼んだ。
「何?」
「終わったな」
「まだ方臘を東京へ送る仕事が残ってるでしょ」
「細けぇな」
「そっちが言う!?」
李俊が笑った。
その顔を見て、胸の奥が少し軽くなる。
孫二娘が、すぐにそこへ入ってきた。
「三娘ォ、戦が終わった直後は感情が緩みやすいからねェ。今なら抱きついても自然だよォ」
「何の誘導!?」
「心理的解放感による接触行動の増加」
「適当な理屈つけるな!」
顧大嫂まで笑う。
「昨日は人前で口づけまでしたじゃないか」
「それはそれ! これはこれ!」
「違いが分からないねぇ」
アタシにも説明できない!
李俊が何も言わずこっちを見ている。
だから、その顔で待つな!
立ち上がろうとしたら、腹の奥が重くなった。
一瞬だけ気持ち悪さが込み上げる。
すぐに息を整えると治まった。
孫二娘が眉を寄せる。
「三娘ォ?」
「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
「そうかい?」
探るように見られたので、先に睨み返した。
「心理学禁止」
「まだ何も言ってないよォ」
「顔が言ってる!」
言い返した瞬間、李俊が吹き出した。
「何よ?」
「お前も顔を読むようになったな」
「誰のせいよ!」
笑い声が広がった。
その向こうで、方臘は縄を掛けられたまま立っている。
戦は終わった。
けれど、片づけなければならないことは残っている。
方臘は東京へ送られる。
そして清渓には、もう一人――裁きを待つ男がいた。
杜微――
「玉楼、さっきから三娘ォの顔ばかり見てるねェ」
「従者として当然でございます」
孫二娘殿が笑いました。
「李俊も同じことしてたよォ」
「……それは存じております」
顧大嫂殿が眉を上げます。
「張り合ってるのかい?」
「張り合っておりません!」
「じゃあ三娘が李俊に寄りかかったら?」
「支えます」
「どっちを?」
「三娘様に決まっております!」
お二人が同時に吹き出しました。
「玉楼、即答なんだねェ」
「当然でございます!」
そこへ兵が駆け込んできます。
「杜微の処刑について、宋江殿がお呼びです!」
笑いが止まりました。
そしてもう一つ。
王嬌嬌殿からも、使いが来ていたのでございます。




