潘巧雲がいるじゃない!!
「二娘、潜入任務ってどこまでやっていいと思う?」
「目的達成に必要な範囲じゃないかねェ」
顧大嫂が笑った。
「その聞き方、もう嫌な予感しかしないよ」
「敵の懐に入るのは分かる。名前を変えるのも分かる。でも――娘婿になるのは範囲内!?」
孫二娘が首を傾げる。
「三娘ォ、それは状況適応能力が高かったってことで」
「適応しすぎ!」
「で、誰なんだい?」
「柴進」
顧大嫂の笑いが止まった。
アタシは続けた。
「潘巧雲がいるのに……」
今度は二娘まで黙った。
理由は、すぐに分かった。
「柴進がいる」
李俊が幇源洞の方角を見たまま言った。
「……どこに?」
「中だ」
「中って?」
「方臘の懐だ。今は柯引と名乗ってる」
そこまでは聞いている。
李俊と柴進は清渓へ潜り込む途中で別れ、柴進は燕青とともに方臘の側へ入り込んだ。その後も戻ってこなかったから、まだ敵地にいること自体は分かる。
問題は次だった。
「方臘の娘婿になってる」
「…………は?」
「駙馬だ」
「潘巧雲がいるじゃない!!」
思ったより大きな声が出た。
近くにいた兵まで振り返る。
孫二娘は一瞬ぽかんとした後、腹を抱えて笑い始めた。
「三娘ォ、真っ先にそこ!?」
「そこ大事でしょ! あの二人、もうそういう仲じゃない!」
顧大嫂まで肩を揺らしている。
「敵の親玉の娘婿になって帰ってきたら、そりゃ巧雲も驚くだろうねぇ」
「驚くで済む!?」
李俊だけは妙に冷静だった。
「潜るには必要だったんだろ」
「それ潘巧雲本人にも言える?」
「俺が言うことじゃねぇ」
「逃げた!」
「柴進が自分で岸へ戻れば、自分で話す」
「すごい。ものすごく正論っぽく責任を柴進へ流した」
孫二娘が嬉しそうに覗き込んでくる。
「三娘ォ、他人の男女関係にはずいぶん敏感になったねェ」
「何でアタシの話になるの!?」
「最近、観察対象が増えたからじゃないかねェ」
その視線が李俊へ向いた。
やめて……
本人の目の前で心理分析するな。
李俊は気にした様子もなく、アタシの馬の轡へ手を添えた。
「行くぞ」
「何でまた馬を引くの?」
「幇源洞までだからだ」
「アタシ一人で乗れる」
「昨日もそう言った」
「過去の発言を証拠に使わないで!」
玉楼が反対側へ並ぶ。
「李俊殿のおっしゃる通りでございます」
「玉楼まで完全にそっち側になってない!?」
「三娘様がお元気になられるまででございます」
二対一。
しかも後ろでは孫二娘と顧大嫂が楽しんでいる。
敵地へ向かってるのに、味方の包囲網が一番突破しづらい。
幇源洞へ近づくにつれ、そんなことを言っていられる空気ではなくなった。
山あいに築かれた方臘最後の拠点には、まだ多くの兵が残っている。
宋江軍もすでに展開していた。
長い戦の末にここまで来た。
睦州も清渓も落ち、杜微まで捕らえたのに、方臘自身が残っている限り終わりにはならない。
遠くで陣太鼓が鳴り、方臘軍が動き出した。
その先頭近くに、一際目立つ武将がいる。
方杰――
長戟を手に馬を進め、迫ってきた梁山泊の将と激しく打ち合う。
ここまで追い詰められた軍の将とは思えないほど動きが鋭い。
「強い……」
「方臘軍にも、まだあれほどの者がおりましたか」
玉楼が方天画戟を握り直した。
その顔を見て、嫌な予感がする。
「玉楼、行きたい?」
「三娘様ほどではございません」
「その比較やめない?」
横から李俊が言った。
「お前も行きたい顔してるぞ」
「してない!」
「してるねェ」
「二娘まで!」
孫二娘は妖しく笑いながらも、すでに得物へ手を掛けていた。
冗談はここまでらしい。
方杰が梁山泊の包囲を振り切ろうと馬首を返す。
その退路に、立派な甲冑をまとった一騎の男が立った。
方臘軍の兵たちは、その姿を見ても警戒しない。
むしろ助かったという顔をしている。
「……あれ?」
李俊の目が細くなる。
「柴進だ」
あれが?
敵地へ潜った男の姿じゃない。
完全に敵の偉い人になってる。
しかも、その後ろには燕青までいた。
方杰が叫ぶ。
「駙馬!」
やっぱり駙馬なんだ。
改めて聞くと腹が立つ。
柴進は槍を上げた。
方杰の顔から緊張が抜ける。
味方が来たと思ったんだろう。
次の瞬間、柴進の槍先が方杰へ向いた。
方臘軍の兵がどよめく。
方杰も反応したが、一瞬遅れた。
退路を塞がれ、前から追ってきた梁山泊勢へ押し戻される。
燕青まで動いた。
方杰は馬首を返し、なおも脇を抜けようとした。
けれど、その前へ柴進が踏み込む。
鉄槍が方杰の身体を貫いた。
「ぐっ……!」
方杰が馬上で崩れたところへ、燕青が駆け込む。
一閃。
方杰はそのまま地へ落ち、動かなくなった。
方臘軍の兵たちが凍りつく。
「今だ!」
柴進が声を張り、兜を脱ぎ捨てた。
「俺は柯引ではない!」
「梁山泊、小旋風柴進だ!」
あちこちから怒号が上がった。
それを合図にしたように、方臘軍の中から別の兵たちまで向きを変える。
柴進が潜伏中に味方へ引き込んでいた者たちらしい。
敵陣の中央で、前後がひっくり返った。
「……派手」
これしか出てこなかった。
敵の娘婿にまでなって、最後の最後に軍勢ごと裏返す。
潜入任務の規模がおかしい。
「三娘ォ、これは効くよォ」
孫二娘が珍しく感心した声を出した。
「味方だと思ってた相手が敵だったと分かった瞬間、集団の信頼関係が一気に崩れる。誰を信じればいいのか判断できなくなるからねェ」
「つまり?」
「今が一番脆い」
林冲も同じ判断だった。
蛇矛が上がる。
「進め!」
梁山泊軍が一斉に押し出した。
アタシも馬腹を蹴る。
すぐ横へ玉楼が並んだ。
「三娘様、右をお任せください!」
「お願い!」
前へ出る。
ただし、一人では行かない。
敵兵の槍を双刀で払い、開いたところへ馬を入れる。
横から別の兵が来た瞬間には、玉楼の方天画戟が進路を断っていた。
アタシが斬り込めば玉楼が幅を作り、玉楼の死角へ回ろうとする相手にはアタシが入る。
そのさらに後ろから孫二娘が声を飛ばした。
「三娘ォ、左が空くよ!」
「分かってる!」
「なら戻りな!」
言われる前に馬首を返す。
少し前なら、そのまま突破していた。
今は違う。
戻った場所へ敵兵が踏み込もうとした瞬間、顧大嫂が叩き返した。
「やっと戻ることを覚えたじゃないか!」
「今褒める!?」
「後で忘れるかもしれないからね!」
ひどい。
でも、笑えた。
方臘軍はすでに崩れ始めている。
前では梁山泊軍が押し、内側では柴進たちが裏返す。
どこへ向けば味方がいるのか分からなくなった兵から、武器を捨てていった。
その混乱の中を、柴進が走る。
「こちらだ! 中へ入れる!」
敵地に長く潜っていた分、幇源洞の道を知っている。
普通なら最も攻めにくいはずの場所を、内部を知り尽くした人間が案内している。
方臘側からしたら、本当に最悪だ。
李俊がアタシの横へ来た。
「前へ出すぎるな」
「分かってるって!」
「顔色が悪い」
「今それ言う!?」
「今だから言う」
それでも止めろとは言わない。
アタシが戦うこと自体は止めず、戻れる距離だけを見ている。
それが分かってしまうのが、また悔しい。
「李俊」
「何だ?」
「柴進、生きて帰れるよね」
「あいつは沈む前に岸を選ぶ」
「もう敵の娘婿になってるけど?」
「岸を間違えたな」
思わず吹いた。
「本人に言って!」
「巧雲に言われるだろ」
それはたぶん、もっと怖い。
幇源洞の奥で大きな叫びが上がった。
「陛下をお守りせよ!」
流れが変わる。
まだ残っていた方臘直属の兵が奥へ集まり始めた。
梁山泊軍も追う。
だが、柴進の表情が変わった。
「急げ! 奥に抜け道がある!」
その声とほとんど同時に、山側から煙が上がった。
逃走を隠すために火を放ったらしい。
宋江の命令が飛ぶ。
「方臘を逃がすな!」
兵が奥へ殺到した。
アタシも進もうとしたが、李俊に轡を取られた。
「待て」
「また!?」
「煙の中へ馬で入る気か」
言われて止まる。
悔しいけど正しい。
玉楼もアタシの隣に戻ってきた。
「三娘様、ここから先は足場も悪うございます」
「分かった。分かったから二人で止めないで」
孫二娘が後ろから笑う。
「三娘ォ、保護者が増えたねェ」
「玉楼は従者!」
「李俊は?」
「……知らない!」
言った瞬間、李俊がこっちを見た。
見ないで。
今そこ拾わなくていいから。
やがて煙の向こうから柴進と燕青が戻ってきた。
二人とも無事だった。
その姿を確認した途端、李俊の肩から僅かに力が抜けたのが分かった。
柴進は李俊を見る。
「遅かったな」
「それはこっちの台詞だ」
短く笑い合う。
そこへアタシは馬上から身を乗り出した。
「柴進!」
「何だ?」
「潘巧雲にちゃんと説明しなさいよ!」
柴進の顔が固まった。
燕青が横を向いた。
李俊まで口元を押さえている。
「なぜ今その話だ!?」
「今だからでしょ!」
背後で孫二娘と顧大嫂が爆笑した。
でも、笑っていられたのはそこまでだった。
山側から伝令が駆け下りてきた。
「方臘が抜け道から逃走!」
宋江が振り向く。
「追手は!」
「すでに入っております! ですが――」
伝令が息を呑む。
「魯智深殿の姿が見えませぬ!」
誰も答えなかった。
アタシは煙の向こうへ続く山道を見た。
方臘が逃げた先へ――
魯智深も、消えていた。
「玉楼、三娘ォがちゃんと戻った時、ちょっと嬉しかったろ?」
「当然でございます」
孫二娘殿が、にやりと笑いました。
「前なら、そのまま突っ込んでたからねェ」
顧大嫂殿も頷きます。
「ようやく止まることを覚えたってわけだ」
「三娘様は、以前から聞き分けのよいお方でございます!」
「玉楼、それはさすがに身内びいきだよォ」
「事実でございます!」
そこで三娘様が、李俊殿に轡を取られておられるのが目に入りました。
「……あちらは止める者が増えましたねェ」
「大変よろしいことでございます」
顧大嫂殿が吹き出しました。
ですが、その後――
山へ入った魯智深殿だけが、戻ってきていなかったのでございます。




