生きてる?
「二娘、今日こそ静かにしててよ」
「三娘ォ、それは無理な相談だねェ」
「何で即答なの!?」
横で顧大嫂まで笑っている。
「だってアンタ、朝からずっと水路ばっかり見てるじゃないか」
「見てない!」
「三娘ォ、特定対象への注意の偏りが――」
「心理学で恋愛判定するな!」
「恋愛とは言ってないよォ」
「今言わせようとしたでしょ!?」
顧大嫂が肩を揺らした。
「まあ、本人が帰ってきたら分かるさ」
「何が!?」
「顔見りゃ全部ねぇ」
その時のアタシは、二人まとめて黙らせたいと思っていた。
まさか本当に、顔どころじゃ済まなくなるとは知らずに……
王英が死んだと聞いても、アタシは泣かなかった。
泣く理由がない。
そう思った。
清渓へ向かう途中で、アタシ達は先行していた一路軍と合流した。
戻ってきた兵たちは疲れ切っていて、鎧には泥がこびりつき、傷口を覆った布にも乾いた血が残っている。
それでも、隊列は崩れていなかった。
湿った風の中で梁山泊の旗が揺れ、ようやく離れていた軍が一つになる。
それなら少しくらい安心できそうなのに、合流して間もなく届いた報せが、そんな気分を吹き飛ばした。
睦州から烏竜嶺、その周辺で倒れた者たちの名が伝えられていく。
親しく話したことはなくても、忠義堂や陣中で何度も見かけた相手なら顔が浮かぶ。
昨日までどこかで戦っていた人が、もう戻らない側へ移っていく。
その中に、王英の名があった。
「王英も、討たれたそうだ」
誰かがそう告げた時、ほんの少しだけ息が止まった。
王英――
好きだったわけじゃない。
むしろ迷惑だった。
何度も嫌な目で見られ、近づかれるたびに身構えた。
今さら「あれも梁山泊の仲間だった」なんて都合よく美談にする気もない。
死んだと聞けば、せいせいすると思っていた。
なのに、そこに残ったのは喜びじゃなかった。
もう二度と、あの嫌な視線はこっちへ来ない。
もう二度と、玉楼が一歩前へ出て遮ることもない。
もう二度と、アタシが顔をしかめることもない。
それだけのはずなのに……
「……死んだんだ」
口から出た声には、自分でも驚くほど何も乗っていなかった。
孫二娘は茶化さず、顧大嫂も黙っている。
玉楼はわずかに目を伏せただけで、王英を惜しんでいるようには見えなかった。
それはそうだと思う。
王英がアタシをどう見ていたか、玉楼はずっと知っている。
あの男が近づくたびに半歩前へ出ていたのも、偶然なんかじゃない。
嫌いな人間が死んだからって、嬉しいだけで終われるわけでもないらしい。
人間関係、死んだ後まで面倒くさすぎる。
「三娘ォ」
孫二娘が横から呼んだ。
「何?」
「無理に悲しまなくていいからねェ」
「悲しんでない」
「うん……だから、それでいいんだよォ」
珍しく分析しない。
それが逆に調子を狂わせた。
「……心理学用語は?」
「必要ない時まで使ったら、ただの面倒な大学教授だろ?」
「自覚あったの!?」
顧大嫂が吹き出した。
ほんの少しだけ、いつもの空気が戻る。
けれど、立ち止まっている暇はなかった。
清渓は近い。
それに今のアタシには、王英の死とは別に確かめなきゃいけないことがある。
方臘軍の舟に掲げられていた、李俊の旗。
それ自体なら作戦の内でもおかしくない。
李俊は敵の舟へ紛れ込み、水路から清渓へ近づく予定だった。
問題は、確認するはずの印がまだ見つかっていないことだ。
朱武が水路から戻った伝令を呼び寄せた。
「予定の印は?」
「いまだ確認できませぬ」
その返事を聞いた途端、手綱を握る指に力が入り、巻いた布の下で昨日飛刀を受けた肩が引きつった。
痛みで我に返る。
李俊の旗が敵の舟にあるだけなら、まだいい。
策が今も生きている証がない。
「水路から入る報せは続けて拾ってください。確かでないものも捨てぬように」
朱武は淡々と指示を出している。
本人が慌てていないのは心強いけれど、何度も確認している時点で、予定通りだと言い切れないのも分かった。
そこへ林冲が馬を寄せてきた。
「清渓前に敵が出る」
その一言で、軍の空気が切り替わった。
合流したばかりの兵たちが武器を握り直す。
疲れは隠せなくても、戦う目はまだ残っている。
朱武が前方を見た。
「方臘も、ここまで退いてきた兵に戦えるところを見せねばなりません。逃げ続ければ、外から破られる前に内側から崩れます」
「だったら、ここで一度ぶつかる?」
「その可能性が高いでしょう」
道が開けたところへ出ると、その読みは当たっていた。
方臘軍が待ち構えている。
歙州で見た軍勢ほどの厚みはないが、こちらも一路軍との合流直後だ。
簡単に押し潰せる相手じゃない。
しかも、その後方には方臘自身の旗まで見えていた。
「いる……」
玉楼も同じものを見ている。
「ございますね」
「逃げる前に一発殴り返す気かな」
「三娘様は殴らないでくださいませ」
「比喩よ!」
「三娘様の場合、確認が必要でございます」
何でそこだけ信用がないのよ……
後ろから孫二娘まで口を挟んできた。
「玉楼、正しいよォ」
「二娘まで!?」
「行動履歴って大事だからねェ」
「戦場でログ参照するな!」
顧大嫂の笑い声まで聞こえた。
そこへ敵の太鼓が鳴り、冗談を続けている場合じゃなくなった。
方臘軍が前へ出ると、林冲の蛇矛が上がった。
「列を割るな! 受けてから押し返せ!」
梁山泊軍の盾が揃い、その隙間から伸びた槍へ敵兵がぶつかる。
衝撃が道いっぱいに広がった。
アタシも馬腹を蹴った途端、昨日の傷が痛み、遅れて腹の奥まで重くなった。
吐くな。
今ここで吐くな。
戦場で突然「体調不良につき性能制限中」とか、本当に理不尽すぎる。
「三娘ォ!」
ほら来た。
「無理するんじゃないよォ!」
「してない!」
してる。
めちゃくちゃしてる。
それでも、前みたいに勢いだけで突っ込むのはやめた。
玉楼の位置を見る。
少し先で方天画戟を振り、押し込まれそうな兵の列を支えている。
アタシは最短距離で敵へ向かわず、その隣へ馬を寄せた。
「三娘様」
「今日も置いていかないで」
「置いてはまいりません」
方天画戟が敵の槍を跳ね上げ、空いたところへ双刀を滑り込ませる。
無理に先頭へ出なくていい。
並べる場所で、並べばいい。
それなら今の身体でも戦える。
敵の列が少しずつ押し戻されていった。
その時、水路の方から大きな音が響いた。
舟同士がぶつかったような、腹に響く音だった。
思わずそちらを見る。
木々の隙間から、方臘軍の舟が見える。
その一隻に――李俊の旗。
「李俊!」
馬を向けかけた瞬間、玉楼の方天画戟が進路を塞いだ。
「三娘様」
「分かってる!」
「まだ何も申し上げておりません」
「顔で分かる!」
また勝手に走るな、でしょ。
分かってる。
……たぶん。
けれど、次に見えたものは予想外だった。
李俊の旗を掲げた舟が、隣の方臘軍の舟へ横から突っ込んだ。
「え?」
敵兵が水へ落ちる。
さらに別の舟からも方臘兵へ刃が向いた。
混乱が水路から陸へ伝わる。
朱武が目を見開いた。
「策は生きております!」
その言葉を聞いた瞬間、身体から余計な力が抜けた。
「李俊……」
生きている。
少なくとも、あの旗は奪われたものじゃない。
喜ぶ暇はなかった。
方臘軍も異変に気づき、後方が乱れ始める。
水路を押さえていた味方同士が斬り合っているのだから当然だ。
林冲が機を逃さない。
「押せ!」
梁山泊軍が前へ出た。
玉楼が道を開き、アタシはその隣から崩れた敵だけを狙う。
孫二娘と顧大嫂も横へ回り、逃げ始めた兵を追い立てた。
前と水路から同時に圧を受け、方臘軍は持ちこたえられなくなっていく。
そこへ、見覚えのある白い光が走った。
飛刀――
「杜微!」
昨日の記憶が一気に戻る。
玉楼の方天画戟が上がり、アタシも双刀を構えた。
けれど、杜微はこっちへ来なかった。
方臘のそばまで下がり、こちらを見ながら何かを告げている。
すぐに方臘の旗が動いた。
逃げる。
「追うな!」
林冲の声が飛んだ。
昨日なら、たぶん聞かなかった。
けれど今日は馬を止めた。
悔しいけれど、杜微がわざわざ姿を見せた理由くらい、もう分かる。
追わせたいんだ。
「……性格悪い」
「同感でございます」
玉楼が真顔で答えた。
そこは否定しないんだ。
敵の主力は崩れ、武器を捨てる者まで出た。
それでも方臘と杜微を追わせないために残った兵が道を塞ぎ、二人の姿はその向こうへ消えていった。
戦いそのものは、こちらの勝ちだった。
けれど、アタシは水路の方ばかり見ていた。
朱武が伝令を散らし始める。
敵の舟にあった旗は策だった。
だったら李俊本人は、どこにいるの?
馬上で身を乗り出した瞬間、身体がふらついた。
「三娘様!」
玉楼が手を伸ばす。
その時だった。
水路の方から声が飛んだ。
「三娘!!」
聞き間違えるはずがない。
泥と水にまみれた兵たちが岸から上がってくる。
方臘軍の装いを崩し、その下へ隠していた梁山泊の印を見せていた。
その中に――李俊がいた。
顔は泥だらけで、鎧までびしょ濡れだった。
でも、立っている。
生きている。
「李俊……」
馬を降りようとして、足に力が入らなかった。
落ちる。
そう思った時には、李俊が走っていた。
「三娘!」
玉楼が支えるより先に、その腕がアタシを受け止める。
次の瞬間には肩を抱かれ、身体ごと引き寄せられていた。
温かい。
本物だ。
「生きてる?」
「生きてるに決まってるだろ」
「本当に?」
「本当だ」
「嘘じゃない?」
李俊が困ったように笑った。
「嘘じゃねえぞ」
それでも足りなくて、アタシは李俊の胸元を掴んだ。
顔を上げる。
李俊も何も言わなかった。
唇が重なった。
ほんの一瞬のはずなのに、さっきまで聞こえていた兵の声まで全部遠くなった気がした。
離れた途端、我に返る。
ここ、戦場。
しかも、みんないる。
「……見た?」
「何をだ?」
「今の!」
「見てない奴の方が少ないと思うよォ」
孫二娘がすぐそばにいた。
「二娘ぁ!!」
「三娘ォ、さっきまで倒れそうだったのに顔色よくなったねェ」
「今そこ観察しないで!」
顧大嫂まで笑う。
「李俊には薬効があるらしいねぇ」
「人を薬にしないで!」
「外的刺激による覚醒効果としては――」
「研究対象にもするな!」
李俊だけが意味の分からない顔をしている。
説明する気はない。
李俊はアタシの背中を支えたまま、顔を覗き込んだ。
「無理をしたな?」
「してない」
「顔色が悪いぞ」
「今よくなったって言われた!」
「元が悪かったんだろ」
ひどい……
抱きしめてキスした直後に正論を重ねるの、余韻とかないの?
でも、その普通の言い方が嬉しかった。
清渓前の戦いには勝ち、何より李俊が生きてここにいる。
それなのに、朱武は戻ってきた伝令の報告を聞いたまま顔を上げなかった。
やがて、こちらまで声が届く。
「方臘の姿が見えませぬ」
李俊の腕の中で顔を上げる。
林冲が尋ねた。
「杜微は」
「見当たりませぬ。清渓へ入った形跡も、いまだ掴めておりませぬ」
李俊の腕にわずかに力が入り、アタシはその袖を掴んだ。
やっと会えて、無事をこの目で確かめられた。
それでも、戦はまだ終わらない。
倒れた旗の向こうで、踏み荒らされた土が濁った水を吸っている。
方臘はいない。
杜微もいない。
勝ったはずの戦場で、アタシは李俊の袖を握ったまま、消えた二つの影を見ていた。
「孫二娘殿、なぜ笑っておられるのですか」
「玉楼が三娘ォの口づけを止めなかったからねェ」
「止める理由がございません」
顧大嫂が眉を上げました。
「へえ、従者公認かい」
「その言い方はおやめください!」
孫二娘殿は、さらに楽しそうに笑います。
「でも玉楼、ちゃんと見てたろ?」
「護衛でございますから!」
「接触時間まで?」
「測っておりません!」
三娘様のお顔が真っ赤になりましたので、この話は終わりにしたかったのでございます。
ですが、その間にも伝令は走っておりました。
方臘と杜微――
二人の行方だけは、まだ誰にも分からなかったのでございます。




