隣にいない
「二娘、これ護衛よね?」
「建前はねェ」
「建前!?」
顧大嫂が反対側から笑った。
「逃げなきゃ護衛で済むよ」
「逃げる前提で話さないで!」
「三娘ォの場合、衝動統制に不安があるからねェ」
「患者みたいに言うな!」
「じゃあ玉楼の言うこと聞けるかい?」
「……善処します」
「それ、聞かない奴の返事だねぇ」
左右から同時に疑われるって何なのよ。
その時のアタシは、護送されることばかり気にしていた。
隣に玉楼がいないことの方が、ずっと危ないなんて知らずに。
小彪将なのに、護送されている。
清渓へ向かう道の上で、アタシはその現実を何度も噛みしめていた。
もちろん、自分の馬には乗っている。
けれど右には顧大嫂の馬、左には孫二娘の馬がぴたりと並び、どちらへ寄ってもすぐ腕を掴まれそうな距離を保っていた。
少し前を兵の列が進み、その先頭には玉楼がいる。
今日は、アタシの隣じゃない。
小彪将代行として、隊の前を預かっている。
「……これ、護衛じゃなくて護送でしょ」
思わず呟くと、孫二娘が横から笑った。
「ようやく気づいたのかい?」
「認めてない!」
「認めなくても、逃げようとしたらアタイが馬ごと止めるよォ」
「馬ごと!?」
「担がれるよりいいだろ?」
「選択肢がおかしい!」
顧大嫂が反対側からこちらの顔を覗き込む。
「三娘、息が上がったら言いな」
「上がってない!」
「今ので少し上がったねぇ」
「監視が細かい……」
「細かく見てないと、あんたはすぐ前へ出るからだよ」
返す言葉がなかった。
前へ行こうとすれば玉楼が止め、左右へ逸れようとすれば孫二娘と顧大嫂がいる。
後ろには林冲と朱武まで控えているのだから、布陣だけ見れば敵将を囲む時より念入りだ。
「何でアタシ一人にここまで戦力使ってるのよ」
「要警戒人物だからじゃないかい?」
「味方に付ける分類じゃないでしょ!」
顧大嫂は笑ったが、孫二娘は手綱を握るアタシの指先まで見ていた。
呼吸の乱れだけでなく、姿勢や顔色まで確認しているらしい。
こういう時だけ専門家の目になるの、本当にヒドいと思う。
歙州を出てから数日が経っていた。
吐き気は最初ほどひどくなくなり、水も飲めるし、粥なら腹に入る。
それでも長く馬に揺られると腹の奥が重くなり、休憩しても身体のだるさが抜けない。
血の匂いが濃くなると、まだ喉まで詰まりそうになることがあった。
戦えるかと聞かれたら戦えると答えるけれど、前と同じように動けるかとなると少し迷う。
それが腹立たしい。
アタシの身体なのに、勝手に言うことを聞かなくなったみたいだった。
清渓へ近づくほど道は細くなり、左右には竹林が増えていく。
湿った土の匂いに混じって、遠くから水音が届いた。
どこかで川が流れている。
李俊がいるかもしれない水路へ続く川だと思っただけで、気持ちが落ち着かなくなる。
李俊の安否は、まだ分かっていない。
割れた木札は本物だったけれど、あれが船団の敗北を示すのか、敵がこちらを揺さぶるために流したものなのか、それとも別の意味があるのか、誰にも判断できなかった。
水の上で李俊が簡単にやられるとは思えない。
そう信じたいのに、戦場では「大丈夫」と思った相手ほど、次には名前だけになって戻ってくることがある。
だから確かめたかった。
自分の目で、李俊が生きているところを見たい。
「顔」
孫二娘が言った。
「また?」
「今度は水路の方を睨んでる顔だねェ」
「睨んでない!!」
「川が見えたら、そのまま飛び込んでいきそうだよ」
「川に斬り込んでどうするのよ……」
「今の三娘ならやりかねないねェ」
「衝動性の評価、上がってる?」
「かなりねェ」
「下げて!」
ひどい言われようだった。
でも、絶対にやらないと言い切れない自分が、もっと嫌だった。
前方で玉楼が馬を止めた。
方天画戟を手にしたまま竹林と道幅を見比べ、兵たちへ指示を出す。
「左の列を詰めすぎてはなりません。竹林との間を空けてください。弓を持つ者は馬首より前へ出ず、二歩下がって構えなさい」
声を張り上げなくても、玉楼の命令はよく通った。
兵たちはすぐ間隔を取り直し、竹林との間に視界が開く。
アタシの代わりに前へ立つ玉楼は、以前なら半歩後ろにいた。
今は違う。
アタシが下がるしかない時に、あの子は迷わず前へ出て、隊全体を見ている。
悔しいのか、誇らしいのか、自分でもよく分からなかった。
「様になってるねぇ」
顧大嫂が言った。
「……うん」
「寂しいかい」
「別に……」
「今のは嘘だねぇ」
本当に、この人たちはアタシの顔を読みすぎる。
玉楼が振り返った。
一瞬だけ目が合う。
「三娘様、もう少し後ろへお下がりください」
「もう下がってる」
「さらに半歩」
「過保護」
「必要な措置でございます」
言い返す前に、顧大嫂の馬が少し寄ってきて、アタシの馬を自然に後ろへ押した。
「ほら、半歩」
「顧大嫂まで……」
「玉楼の言うことは聞いときな。あの娘は今、あんたの代わりに前を見てる」
その言葉で、口を閉じた。
玉楼は隣にいなくても、離れたわけじゃない。アタシが前を見られない分まで、危険を探しているだけだ。
少し後ろでは、林冲と朱武が隊全体の動きを見ていた。
その時だった。
竹林の奥で、一瞬だけ光が走った。
「伏せ――」
玉楼の声より早く、鋭い風切り音が飛んだ。
矢じゃない。
前列の兵が呻き、肩を押さえて崩れる。
何が飛んだのか見えないまま、別の兵の兜が弾け、小さな刃が石の上へ転がった。
飛刀――
そう気づいた時には、次が来ていた。
玉楼が方天画戟を返し、刃の腹で小刀を叩き落とす。
甲高い音が竹林へ跳ね返った。
「敵襲!」
兵が叫ぶ。
林の奥から男の笑い声がした。
「よく弾いたな」
こちらの反応を楽しんでいるような声だった。
竹の影から男が姿を見せる。
大柄ではないが細身でもなく、腕だけが妙に長い。
しなやかな指の間には、何本もの小刀が挟まっていた。
「杜微……」
朱武が名を呼ぶ。
方臘軍の将だ。
飛刀を使う厄介な男だとは聞いていたが、実際に目の前で見ると、その一言では足りない。
杜微の手首がわずかに返る。
次の瞬間、玉楼の馬の首へ飛刀が走った。
玉楼は手綱を引きながら方天画戟の柄で弾いた。
だが、その隙を狙って二本目が肩口へ伸びる。
上体を捻って避けたものの、完全にはかわしきれない。
衣が裂け、赤い線が走った。
「玉楼!」
叫んだ瞬間、顧大嫂がアタシの腕を掴む。
「動くんじゃない!」
「離して!」
「まだ早い!」
何が早いっていうのよ。
玉楼が血を流しているのに、杜微はもう次の飛刀を指に挟んでいる。
この状況で待つなんて無理だった。
絶対に無理。
孫二娘が馬を寄せ、アタシの前へ回り込む。
「三娘ォ、今出たら狙われるよ!」
「玉楼が狙われてる!」
「だから落ち着けって言ってるんだよォ!」
落ち着けるわけがない。
玉楼は方天画戟を回しながら兵を下がらせ、自分が盾になるように前へ残っている。
孫二娘もアタシを止めながら後方の兵へ手を振り、射線から外れるよう位置を変えさせていた。
今のアタシには、それすらできない。
その事実が、余計に腹立たしかった。
杜微は正面から勝負する気などない。
兵を倒すだけでなく、馬を怯ませ、玉楼が武器を扱う腕まで狙いながら、遠くからこちらを削って焦らせようとしている。
性格悪すぎでしょ。
飲み会にいたら絶対嫌われるタイプだ。
「林冲!」
アタシが叫ぶと、林冲は前を見たまま答えた。
「動くな」
「玉楼が!」
「分かっている」
「なら!」
「今のお前が出れば、杜微はお前を狙う」
それくらい分かっている。
それでも、玉楼がもう一度傷を負い、次の刃が喉へ向かったらと思うだけで、頭に血が上った。
杜微の指が動く。
三本の飛刀が同時に放たれた。
一本が兵へ向かい、もう一本は玉楼の馬を狙う。
そして最後の刃だけが、まっすぐ玉楼の顔へ伸びてきた。
玉楼は方天画戟を縦に返した。
馬を庇いながら二本を叩き落としたが、残った一本が頬をかすめ、血が飛んだ。
ほんの細い傷だった。
アタシには、それで十分だった。
「もう無理」
自分の声が聞こえた。
顧大嫂が伸ばした手を振り払い、孫二娘が止めるより先に馬を前へ出す。
「三娘!」
背後から怒鳴り声が飛ぶ。
身体は重く、前みたいには動かない。
それでも手綱を握り直して馬腹を蹴った。
腹の奥が鈍く痛む。
喉に酸っぱいものが戻りかける。
知るか――
今だけは、身体の言い分なんて聞いていられない。
「三娘様!」
玉楼がこちらを見た。
その一瞬が、悪かった。
杜微が笑う。
「よそ見か?」
飛刀が放たれた。
今度の狙いは玉楼ではない。
アタシだ。
胸の前へ銀色の光が走る。
避けるには近すぎる。
払おうとしても、腕が思うように上がらない。
玉楼が馬を返そうとし、林冲の声が飛ぶ。
孫二娘が息を呑んだ気配まで、妙に遠く聞こえた。
次の瞬間、杜微のもう一方の手が動いた。
一刀目は囮。
二刀目が、本命だった。
その飛刀は、アタシではなく――
玉楼の喉へ向かっていた。
「孫二娘殿、三娘様をお止めするお役目では?」
「止めたよォ。止まらなかっただけさ」
「それを失敗と申すのでは?」
顧大嫂殿が吹き出しました。
「玉楼、あんたも人のこと言えないだろ。三娘が飛び出した途端、真っ先に振り向いたじゃないか」
「それは……」
「相互依存が強くなってるねェ」
「そのような分析は不要でございます!」
「でも杜微には、そこを読まれた」
笑っていた孫二娘殿の声から、急に軽さが消えました。
そして、わたくしへ迫る飛刀は、もう目の前まで来ていたのでございます。




