行きたいのに
「二娘、行かなきゃいけない時に限って、身体が言うこと聞かないの何なの?」
「身体からの強制終了じゃないかねェ」
「勝手にシャットダウンするな!」
顧大嫂が笑った。
「清渓まで担いでいってもらうかい?」
「レディーの運搬方法じゃない!」
「行動意欲と身体機能は別物だからねェ。李俊への動機づけだけ上がっても――」
「そこだけ分析するな!」
その時は、行けないことが一番つらいと思っていた。
水路から戻ってきたものを見るまでは……
歙州城が揺れた。
本当に城が動いたわけじゃない。
分かっているのに、伝令の声を聞いた瞬間、目の前の石壁も開いた門も、地面へ落ちた方臘軍の旗も、ぐにゃりと歪んだ。
李俊殿の安否、いまだ確認できず――
その言葉だけが耳の奥に残っている。
「行かなきゃ」
自分の声なのに、ひどく遠く聞こえた。
「三娘様」
玉楼の腕が、倒れかけた身体を支えている。
「李俊が……」
「今はお立ちになれません」
「立てる」
膝へ力を入れたつもりだった。
けれど身体は動かず、足が地面についている感覚さえ妙に薄い。
腹の奥は重く沈み、喉にはまだ酸っぱいものが残っていた。
最悪だ……
よりによって、李俊の名が出た時に……
こんなイベント、誰が許可したのよ。
「玉楼、離して」
「離せません」
「命令よ」
「お聞きできません」
即答だった。
主従関係とは……
いや、これまでも何度か疑ったけど、今のはかなり強い。
顧大嫂が伝令から目を離さずに尋ねた。
「詳しく言いな。敵影と接触したって、どこでだい」
泥だらけの伝令が顔を上げる。
「清渓へ入る水路の手前にて、李俊殿の船団が偵察の敵船を追ったところ、岸辺から伏兵が現れたとのこと。後続の船も散らされ、いまだ戻らぬ者がおります」
「火の手が見えたというのは?」
「岸辺から確認した者がおります。ただ、どの船が燃えたのかまでは……」
火と伏兵という言葉を聞いただけで、水路を進む船が囲まれる光景まで勝手に頭へ浮かんだ。
やめて。
まだ何も分かっていないのに、最悪の場面だけ先に作るな。
「李俊は?」
喉が痛んだ。
伝令が答えに詰まる。
その沈黙だけで、足元がまた遠くなった。
「……確認できておりませぬ」
分かっている。
さっきも同じ報せを聞いた。
それでも、聞かずにはいられなかった。
孫二娘がこちらへ回り込む。
「三娘ォ、今のあんたが行ってどうするんだい。馬にもまともに乗れないじゃないか」
「乗れるわよ」
「立つのも玉楼頼みなのに?」
「今だけよ」
「『今だけ』を根拠に無理するのは、正常性バイアスって言いたくなるねェ」
「アタシを教材にするな!」
いつもならそこで笑うはずの孫二娘が、今日は笑わなかった。
「それと、分からないところを全部最悪の想像で埋めるのもやめなァ。まだ李俊がどうなったかは分かってない」
「分かってるわよ」
「分かってない顔してるねェ」
「今日はみんなアタシの顔を読みすぎ!」
顧大嫂が一瞬だけこちらを見た。
何か引っかかった。
「何?」
「何でもないよ」
「今の顔、絶対何かあるでしょ」
「三娘、今は横になる方が先だ」
「何かあるなら言って」
顧大嫂は答えず、玉楼へ目を向けた。
その合図だけで、玉楼がアタシを支える腕に力を込める。
「三娘様、城内に休める場所を用意いたします」
「休まない」
「休まれます」
「清渓へ行く」
「清渓へ行くためにも、今ここで倒れてはなりません」
また正論だ。
正しいことくらい分かっているから、余計に腹が立つ。
林冲が朱武を見た。
「兵をすぐ出せるか」
朱武は落ちたばかりの歙州城を見渡した。
門の周囲では武器を集める者と負傷者を運ぶ者が行き交い、降った敵兵もまだ完全には整理されていない。
「少数ならば可能でございます。ただ、全軍を動かせば城内の残兵に背を突かれる恐れがございます」
「ならば速い者を出せ」
「すぐに」
朱武は近くの兵を呼び、必要なことだけを伝えて走らせた。
こういう時の朱武は本当に動きが早くて助かる。
それでも、今のアタシには遅く見えた。
「アタシも行く」
「ならぬ」
林冲だった。
短い。
逃げ道がない。
「林冲」
「行ってはならぬ」
「まだ何も言ってない」
「同じことを言う顔をしている」
何なの……
本当に今日は全員、読心術でも覚えたの?
「李俊の安否が分からないのよ」
「だから、動ける者を出す」
「アタシが――」
「今のそなたは、守られる側だ」
胸を刺されたようだった。
守られる側。
その言葉が、嫌だった。
王英のものにもならず、宋江の駒にもならず、戦場では自分の足で立つ。
そのためにここまで来たのに、今は玉楼の腕がなければ身体さえ支えられない。
反論しようとした途端、また吐き気が上がってきた。
「三娘様」
玉楼がすぐ気づく。
「違うわ……吐かない」
「吐かぬよう、無理をなさらないでください」
「実況しないで……」
孫二娘がようやく少しだけ笑った。
「それだけ言い返せるなら、意識はしっかりしてるねェ」
「慰めになってない」
「半分くらいは慰めだよォ」
「残り半分は?」
「観察」
「患者扱いするな!」
「今は患者みたいなもんだろ?」
顧大嫂まで加わった。
味方がいない。
戦が終わった途端に四面楚歌になるとは思わなかった。
顧大嫂はいつの間にか、城内から年配の女を一人連れてきていた。
粗末な衣を着ているが、こちらを見る目は落ち着いている。
「奥に横になれる場所を借りた。まず行くよ」
「だから休まないって」
「言い争えるなら、その元気で歩きな」
「使い道がおかしい!」
結局、玉楼と孫二娘に両側から支えられ、城門脇の建物へ連れていかれた。
歩いたというより、半分運ばれたに近い。
石畳を踏むたび腹の奥が鈍く揺れる。
城内には戦の名残がまだ濃く残っていた。
焦げた木の臭いが湿った土に混じり、血と汗の臭いをまとった兵が負傷者を運んでいる。
その間を、怯えた民が壁際へ身を寄せていた。
歙州は落ちた。
けれど、勝った瞬間から誰も楽になれるわけじゃない。
そんな光景を見ているのに、頭へ浮かぶのは李俊のことばかりだった。
水の上なら李俊は強い。
誰よりも水を知っている。
アタシなんかが心配する必要はない。
そう思いたいのに、伝令が話した伏兵と火の手が、どうしても頭から離れなかった。
案内されたのは城門近くの小さな詰所だった。
床には敷物が広げられ、水を入れた椀まで置かれている。
「横になりな」
「すぐ起きるから」
「横になりな」
顧大嫂の二回目は、相談じゃなかった。
仕方なく敷物へ腰を下ろすと、それだけで息が上がる。
悔しい。
玉楼が隣に膝をついた。
「お水を」
「いらない」
「一口だけでも」
「今はいらないって」
「三娘様……」
いつもと同じ呼び方なのに、声がわずかに揺れていた。
顔を上げる。
玉楼は怒っているわけでも、泣きそうなわけでもない。
ただ、怖がっているのだと分かると、言い返す言葉が消えた。
「……一口だけ」
玉楼が差し出した椀を受け取る。
ぬるい水だったけれど、焼けていた喉にはありがたかった。
少し離れたところで、年配の女と顧大嫂が何か話している。
声を抑えているせいで、逆に気になる。
「何を話してるの」
「疲れが重なったんだろうって話さ」
「本当に?」
「今、言えるのはそれくらいだよ」
今――
その言葉が引っかかった。
「今って何?」
顧大嫂がこちらを見る。
すぐには答えなかった。
孫二娘まで、その沈黙に気づいて表情を変える。
「大嫂?」
「まだ決めつける時じゃない」
玉楼の手が、アタシの肩で止まった。
「何の話?」
誰も答えない。
何なのよ。
アタシだけ知らないイベントが、別画面で進行してる感じがする。
こっちはプレイヤー本人なんだけど!
外から足音が近づき、林冲が入口に姿を見せた。
「偵察を出した」
「どっちへ?」
「水路と清渓への道、両方だ」
「アタシも――」
「言うと思った」
林冲はそこで遮った。
「一刻だけ休め。その後、立てるなら話を聞く」
「一刻?」
「それ以上は、そなたが聞かぬだろう?」
分かってるじゃない。
半日ではなく、一刻。
それなら何とか我慢できる。
「李俊の報せが来たら、すぐ教えて」
「ああ」
「隠したら怒るわよ」
「隠さん」
林冲は顧大嫂へ任せると言い残して外へ戻った。
アタシも敷物へ横になる。
眠るつもりなどなかった。
李俊の安否は分からず、清渓には方臘軍が集まり始めている。
こちらは歙州を落としたばかりで、すぐには動けないのだから、休んでいる場合じゃない。
それなのに、身体は沈むように重かった。
「玉楼」
「はい」
「一刻だけだから」
「承知しております」
「李俊の報せが来たら絶対に起こして」
「すぐにお伝えいたします」
返事を聞いたところで、少しだけ息が抜けた。
その時、外で馬が激しく嘶いた。
続けて足音が近づく。
眠気が一瞬で消えた。
「伝令か?」
孫二娘が入口へ向かう。
顧大嫂がアタシへ振り返った。
「三娘、動くんじゃないよ」
もう遅い。
身体を起こそうとした途端、腹の奥がずんと重くなり、視界が白く滲んだ。
玉楼がすぐに肩を支える。
「三娘様!」
「報せ……」
「わたくしが聞きます」
「だめ」
「なりません」
外から兵の声が飛び込んできた。
「水路より戻った者がございます!」
戻った。
その一言だけで心臓が跳ねる。
孫二娘が入口で振り返った。
その顔から、さっきまで残っていた軽口の気配が消えている。
兵が駆け込み、濡れた布包みを差し出した。
「水路にて拾われました!」
布がほどかれる。
中から出てきたのは、端の焦げた木札だった。
水を吸って黒ずみ、半分から先が失われている。
それでも、残った印には見覚えがあった。
李俊の船団で使われている印だった。
息が止まる。
兵が続けた。
「付近に船影なし。血の跡あり。李俊殿の姿、確認できませぬ!」
玉楼の手が、アタシの肩を強く支えた。
けれど、もう部屋の床も、壁も、天井も、まっすぐには見えなかった。
半分に割れた木札だけが、やけにはっきり見えていた。
「玉楼、主の命令をあそこまで無視していいのかい?」
顧大嫂殿が笑いました。
「三娘様のお命に関わる命令は、お聞きできません」
「そこだけ従者の権限強すぎない!?」
孫二娘殿が肩をすくめます。
「主従関係の再構築ってところかねェ」
「勝手にアップデートするな!」
三娘様がお怒りになれるうちは、まだ安心できます。
ですがその後、孫二娘殿と顧大嫂殿が同時に黙り込みました。
……お二人がそろって同じような顔をなさる時は、大抵ろくなことがございません。




