身体がついてこない
「二娘、もし戦場で急に気持ち悪くなったら、どうする?」
「まず馬から下ろすねェ」
「誰を!?」 顧大嫂が呆れた顔をした。
「自分の話じゃないのかい?」
「仮定の話!」
「三娘ォの『大丈夫』は自己評価として信頼性が下がってきてるからねェ」
「勝手に統計取るな!」
「李俊の名前を出せば起きるんじゃないかい?」
「人を目覚まし時計みたいに使わないで!」
……その時のアタシは、身体の異変より先に、李俊の名前で本当に立ち上がろうとすることになるなんて知らなかった。
胃の底から込み上げたものを、アタシは戦場の真ん中で吐いた。
最悪だった――
よりによって、このタイミング。
王寅を討った直後で、歙州の門がようやく揺らぎ始めたところだ。
前へ出るなら今しかないのに、喉は焼けるし、目の奥まで熱い。
馬の汗と血の匂いが鼻の奥に貼りついて、息を吸うたび胃がまた嫌な動きをする。
「三娘様!」
玉楼の声がすぐ隣から飛んできた。
腕を掴まれて初めて、自分が馬上で傾いていたことに気づく。
本人としては普通に座っていたつもりなのに、どうやら身体の方には別の意見があるらしい。
「大丈夫……」
言った瞬間、胃がもう一度ひっくり返った。
冗談でしょ。
二回目はないでしょ。
いや、あるらしい。
身体って、本人の都合をこんなに無視するものだったっけ。
「大丈夫ではございません」
「大丈夫って言ってるでしょ」
「その御様子で信じる者はおりません」
正論で殴らないでほしい。
城門の方では、まだ戦が続いていた。
王寅を失った敵騎は足並みを崩し、主を失った転山飛も暴れている。
そこへ林冲たちが押し込み、さっきまで梁山泊軍を食い破っていた勢いが、そのまま逆方向へ押し返されていた。
今なら押せる。
そう思って手綱を握り直したのに、指先へうまく力が入らない。
「何で……」
漏れた声は、自分でも情けないくらい小さかった。
玉楼が馬を寄せ、アタシの前へ出る。
「お下がりください」
「嫌よ」
「三娘様」
「王寅は倒した。門も崩れかけてる。ここで下がるとか意味分かんない」
「意味はございます」
「ない!」
「ございます!!」
返しが早すぎる。
玉楼は方天画戟を片手で持ち、もう片方の手でアタシの腕を支えていた。
戦場の真ん中でそんな余計な仕事を増やしているのに、その手は少しも震えていない。
「欧鵬殿も、李雲殿も、石勇殿も戻られません」
その名を出されると、息が詰まった。
「だからこそ、戻れる方まで倒れてはなりません」
言い返せない。
遠くで門の内側から悲鳴が上がった。
誰が押し込んだのかまでは、夜明け前の薄暗さと土煙で見えない。
それでも流れだけは分かる。
歙州が折れ始めている。
「三娘!」
顧大嫂が馬を飛ばしてきた。
その後ろには孫二娘もいる。
二人とも武器を手にしたままだったのに、アタシの顔を見るなり戦場を見る目ではなくなった。
「ちょいと、顔が真っ白じゃないか」
「血の匂いに当てられただけ」
「三娘が?」
孫二娘が眉を寄せる。
「人の肉も骨も見てきた女が、今さら血の匂いで吐くかい」
「言い方」
「言い方より顔色だよォ」
顧大嫂が玉楼を見る。
「どれくらいだい?」
「先ほど一度。今も吐き気が続いているように見受けます」
「玉楼、報告しないで」
「必要なことです」
「病人扱いしないでよ」
「今は病人でございます」
即答された。
この主従関係、たまにおかしい。
戦場で主に向かって病人と言い切る従者がいるか。
いる。
ここにいる。
顧大嫂が馬から身を乗り出し、アタシの額へ手を当てた。
「熱はひどくなさそうだねぇ」
「だから平気だって」
「平気な奴は、そんな声をしないよ」
孫二娘がこちらをじっと見ている。
普段なら、もうこの辺で李俊の名前を出してアタシをからかっているはずなのに、今日は妙に真面目だ。
「三娘ォ、押し込みは林冲たちに任せな。今のあんたが行っても、玉楼の仕事が増えるだけだよォ」
「アタシ、そこまで足手まとい?」
「今はねェ」
「容赦ないわね!」
「現実検討は大事だからァ」
妖艶なお姐さんの顔で、言うことだけ妙に臨床的なのが腹立つ。
けれど、怒鳴り返すほどの力は残っていなかった。
喉には酸っぱいものが残り、息を吸うたび吐き気が戻ってくる。
敵の叫びも味方の怒号も、蹄の音も兵を運ぶ足音も、全部が耳の奥で濁っていた。
やがて、門の方から大きな歓声が上がった。
「門を押さえたぞ!」
続いて林冲の声が響く。
「逃げる者を追い過ぎるな! 降る者は縛れ! 城内を乱すな!」
その声で、ようやく少し息が入った。
歙州の門が開いた。
王寅は倒れ、龐万春もいない。
この方面の最後の城が、ついに落ちる。
清渓へ行ける。
そこへ李俊も向かっていると思うだけで、胸の内側が急に熱くなった。
「玉楼、アタシも――」
「なりません」
「まだ何も言ってない」
「お分かりになります」
「分かりすぎでしょ」
「三娘様のお側におりますので」
それはずるい。
顧大嫂が呆れたように息を吐いた。
「三娘、ここは折れな。今、無理して倒れたら清渓どころじゃないよ」
「……清渓」
口に出した途端、焦りが強くなる。
もう遠くないはずなのに、身体だけがついてこない。
画面の端で体力ゲージが赤くなっているみたいだ。
しかも、この時代にはエナジードリンクがない。
あったら買い占めてる。
孫二娘がアタシの顔を覗き込んだ。
「三娘ォ、最後にちゃんと眠ったのはいつだい?」
「……さあ?」
「飯は」
「食べてる」
「どれくらい?」
「普通に」
「『普通』って答える人ほど具体量を言わないんだよォ」
「面接みたいに聞くな!」
「睡眠不足に食事量の低下、それから連戦によるストレス。身体症状に関係するものはいくらでもあるからねェ」
「戦場で問診始めないで!」
顧大嫂が鼻で笑った。
「あとで粥を食べな。胃に優しいやつをね」
「戦の後に粥の話?」
「戦の後だからだよ」
そんな会話をしている間にも、歙州城の中では梁山泊の兵が動いていた。
朱武が門前まで来て林冲と短く言葉を交わし、城壁の上では方臘軍の旗が降ろされていく。
代わりに掲げられた梁山泊の旗が、夜明け前の風を受けて広がった。
歙州は落ちた。
けれど、勝ったという実感は薄かった。
李雲と石勇の亡骸が運ばれてきたからだ。
二人とも馬を止めようとした。
狙いは間違っていなかったのに、相手が転山飛だった。
それだけで、戻ってこられなかった。
「……ごめん」
誰にも届かないくらいの声だったのに、玉楼だけが反応した。
「三娘様のせいではございません」
「分かってる」
分かっていても、言わずにはいられなかった。
林冲がこちらへ馬を寄せてくる。
蛇矛の刃にはまだ血が残っていたが、その目からはもう戦の熱が引き始めていた。
「城は押さえた」
「うん」
「しばらく休め」
「無理」
林冲の眉が動く。
「無理ではない。命令だ」
「清渓へ行かなきゃ」
「行く。そのために休めと言っている」
正論二人目。
今日は正論で包囲される日なのかもしれない。
朱武も続いて近づいてきた。
「歙州を押さえれば、清渓への道は開きます。ただし、城内の始末に負傷者の手当、それから補給の確認も要ります。すぐに全軍を動かすのは危うございます」
「どれくらい?」
「半日は見ていただきたく」
たった半日なのに、今のアタシにはやけに長く感じる。
「清渓では、方臘の残る兵が集まり始めているはずです」
朱武の言葉に胸がざわついた。
「柴進は?」
「まだ詳しい報せはありません」
「李俊は?」
「そちらも確認を急がせます」
分かっている。
朱武が悪いわけじゃない。
戦場の向こう側で起きていることを、全部同時に知れるはずもない。
それでも、知りたかった。
李俊が今どこにいて、無事に清渓へ向かえているのか。
あの人なら大丈夫だと思いたい。
でも、戦場で「大丈夫」は何度も裏切られてきた。
考えた途端、腹の底が重くなった。
吐き気だけではなく、足元まで遠くなるようで、手綱を握る指の感覚も薄れていく。
「三娘ォ?」
孫二娘が近づいた。
「平気……」
自分で言っておいて、全然説得力がない。
玉楼の手が肩へ回る。
「三娘様、お顔の色が戻っておりません」
「さっきも聞いた」
「何度でも申し上げます」
視界の端では、歙州の門が開いている。
あの先には、清渓へ続く道がある。
行かなきゃ。
李俊に会わなきゃ。
そう思うのに、身体が前へ出ない。
「……何でよ」
悔しくて声が震えた。
斬られたわけでも、矢を受けたわけでもない。
王寅の槍も転山飛の蹄も避けたのに、立っていられない。
こんなの、イベントの後に強制デバフが入るやつじゃない。
聞いてない。
そんな仕様、聞いてない。
顧大嫂の声から笑いが消えた。
「三娘、降りな」
「嫌」
「降りな」
今度は逆らえなかった。
玉楼が先に馬を下り、アタシの腰へ手を添える。
悔しいけれど、その支えがなければ下りることすらできなかった。
足が地面についた瞬間、膝が抜けた。
「三娘様!」
玉楼が抱き留める。
孫二娘が顔を覗き込んだ。
いつもの軽口が消えていた。
「大嫂」
「分かってる」
顧大嫂の顔つきも変わる。
「医者を呼びな。できれば女の者もだ」
「大げさよ……」
「黙ってな」
叱られた。
本気で。
言い返そうとしたところで、また胃の奥がせり上がった。アタシは玉楼の腕にしがみつく。
情けない。
けれど今だけは、その腕を離せなかった。
その時、城内から早馬が駆けてきた。
「伝令!」
兵が叫ぶ。
「清渓方面より急報!」
清渓――
その一語だけで、無理やり顔を上げた。
伝令の男は馬から飛び降り、林冲の前で膝をつく。
泥と汗で顔を汚し、息を切らしながら報告した。
「方臘軍、清渓へ兵を集めております! また、水路にて李俊殿らが敵影と接触したとの報せ!」
李俊――
耳の奥で、その名だけがはっきり響いた。
立たなきゃ――
そう思った。
でも、身体が動かない。
玉楼がアタシを支え、顧大嫂が伝令へ厳しい目を向ける。
孫二娘は、珍しく何も言わなかった。
伝令は、さらに言葉を続けた。
「李俊殿の安否、いまだ確認できず!」
目の前の歙州城が、音もなく揺れた。
「玉楼、三娘ォから目を離しちゃ駄目だよ」
「承知しております」
「何その警備体制!」
顧大嫂殿が笑いました。
「倒れたばかりだってのに、まだ清渓へ行く気なんだからねぇ」
「行けるなら行くわよ!」
「ほらねェ」
「誘導尋問やめて!」
孫二娘殿が肩をすくめます。
「行動抑制が利かないなら、環境調整も必要かなァ」
「人を隔離対象にするな!」
三娘様をお止めすることなら、わたくしにもできます。
ですが――李俊殿の安否までは、どうすることもできませんでした。




