終わったと思ったのに
「二娘、龐万春を倒したんだから、今度こそ終わりよね?」
「その台詞、かなり危険だねェ」
「何が!?」
顧大嫂が肩を揺らした。
「三娘が『終わった』って言うと、大抵もう一人出てくるじゃないか」
「ゲームの第二形態みたいに言わないで!」
「達成感の直後は警戒心が下がりやすいんだよォ。認知的にも――」
「だから戦場で講義するな!」
その時は、次に出てくるのが将軍だけだと思っていた。
……まさか、アタシ自身まで変になるとは思ってなかったけど。
龐万春を討ち取った。
それでも、歙州城は落ちなかった。
夜襲隊は敗れ、城内へ逃げ戻った兵もいる。
それなのに門の上では松明が増え、城壁の影はかえって濃くなっていた。
逃げ惑う声も怒号も聞こえず、あれだけの将を失った直後とは思えないほど、城は妙に静かだ。
おかしい――
これで終わりだと、少しだけ思っていた。
歙州を抜ければ、清渓へまた近づく。
李俊は柴進とともに、そこへ向かっている。
早く行きたい。
そう考えた自分に、舌打ちしたくなった。
戦の途中で何を考えてるのよ、アタシは……
朱武が城門を見たまま口を開いた。
「歙州は、この方面における最後の城でございます」
「最後の城……」
「ならば、王寅は城内にいると見てよろしいでしょう」
「王寅?」
思わず聞き返す。
「歙州方面の兵を束ねる将でございます。龐万春が弓で軍を止める者なら、王寅は騎兵で陣を割る者」
林冲が蛇矛を握り直した。
「出てくるか」
「龐万春を討たれた今、こちらが気を緩めると見れば、打って出ることもありましょう」
また嫌な予想をしてくる。
でも、こういう時の朱武はだいたい当てる。本当にやめてほしい。
「もう一つ、厄介なことがございます」
朱武がこちらを見る。
「王寅には、転山飛という馬がございます。山道でも速度を落とさず、人馬を押し退ける名馬と聞きます」
「馬で押し潰すってこと?」
「王寅ならば、いたしましょう」
冗談じゃない。
「三娘ォ、今の説明で顔が完全に嫌そうだねェ」
いつの間にか孫二娘がこちらを見ていた。
「馬に押し潰されたい人がいる?」
「危険刺激に対する正常な反応だよォ」
「それなら分析いらないでしょ!」
顧大嫂が横で笑う。
「李俊の名前が出た時よりは分かりやすい顔だねぇ」
「何で比較対象がそこなのよ!」
「最近ずっとそこだからァ」
「今は王寅の話!」
その時、城門の奥から重い軋みが響いた。
夜襲に敗れた敵が、城を捨てて出てくる――前列の兵がそう思ったのも無理はなかった。
けれど、門の奥で土煙が膨らみ、松明の火がその向こうに黒い馬影を浮かび上がらせた瞬間、逃走ではないと分かった。
「下がれ!」
林冲の声が飛ぶ。
大きな馬だった。
細かな姿までは見えなくても、近づいてくる蹄の響きだけで他とは違う。
後ろから数十騎が続いているのに、先頭の一頭だけが岩の塊になって走ってくるように見えた。
その背には、長槍を構えた男がいる。
「王寅だ!」
味方の兵が叫び終えるより早く、転山飛が盾列へ食い込んだ。
止まらない。
構える暇さえ与えず、盾を持った兵ごと後ろへ押し込む。
木が裂け、鉄の縁が跳ね、崩れた列の間に見えた人影が次の瞬間には土煙へ呑まれた。
悲鳴は、その後から届いた。
「嘘でしょ……」
ゲームなら攻撃範囲くらい見える。
ただし、触れた瞬間に終わるやつ――
王寅の長槍が横へ払われ、立て直そうとした兵が盾ごと弾かれる。
後続の騎兵は王寅と同じ場所へ殺到せず、左右へ広がって、逃げようとする兵を馬首で押し戻していた。
王寅が割り、その後ろから騎兵が裂け目を広げる。
単純なのに、止めづらい。
そこへ李雲が飛び込んだ。
「馬の脚を断て!」
大刀を低く構え、転山飛の斜め前へ回る。
反対側から石勇も迫った。
「馬を止めれば、上の者も落ちる!」
狙いは正しい。
相手が、普通の馬なら。
転山飛は避けなかった。
速度を落とさず、李雲の大刀が届く間合いへ自分から踏み込む。
前脚が上がったと思った時には、刃より早く蹄が肩へ落ちた。
骨の砕ける音がした。
李雲の身体が地面へ押し込まれるように沈む。
「李雲!」
石勇が叫び、横から斬りつけた。
王寅が手綱を引く。
走っていた転山飛の巨体が捻れ、黒い肩が石勇へぶつかった。
人と馬では重さが違いすぎる。
石勇は地面へ弾き飛ばされ、仰向けになった胸の上へ後ろ脚が落ちた。
そこで、音が遠くなった。
馬は嘶き、兵は叫び、槍と盾がぶつかり続けている。
それなのに、李雲と石勇の周りだけが妙に静かに見えた。
腹の奥が熱くなる。
「止まりなさいよ!」
気づけば馬腹を蹴っていた。
玉楼がすぐ隣へ並ぶ。
「三娘様、正面から受けてはなりません」
「分かってる!」
分かってる……
でも、見過ごせるわけがない。
王寅がこちらを向いた。
邪魔なものを払うような目だった。
槍先がアタシへ向く。
「参ります!」
玉楼の方天画戟が前へ出た。
槍と戟がぶつかり、火花が散る。
玉楼の馬が横へ押し流されたが、崩れない。
「あの馬、反則でしょ!」
「反則ではございません。敵でございます」
「真面目に返さないで!」
転山飛の首元へ双刀を伸ばす。
王寅が槍の石突を返し、腹を狙ってきた。
身体を伏せると、風圧だけで脇腹が痛い。
玉楼が方天画戟を振り上げる。
王寅は槍を立てて受け、そのまま押し返した。
玉楼の上体が揺れる。
「玉楼!」
「まだ退けません!」
玉楼は馬腹を締め、方天画戟の刃を下げた。
狙っているのは人じゃない。
馬の進路だ。
転山飛が一歩、外へ逃げようとする。
そこへアタシが入ると、王寅が初めて舌打ちした。
顔が動いたのは、その一瞬だけだった。
王寅は強い。
けれど、林冲とは違う。
林冲の前へ正面から出れば、長くは持たない。
だから中央を避け、崩れた前列だけを割っている。
厄介なのは王寅一人じゃない。
あの男と転山飛が、一つの武器みたいに動いていることだ。
「玉楼!」
「はい!」
言わなくても、玉楼は動いた。
方天画戟の石突が地面を打ち、刃が転山飛の前へ滑り込む。
馬を斬るためじゃない。
そこへ脚を出せば危ないと分からせ、進ませないためだ。
転山飛が首を振る。
王寅が槍を振り下ろし、玉楼が正面から受けた。
その瞬間、アタシは馬を寄せる。
長槍は、近づけば振り回しにくい。
普通なら――
王寅は柄を短く持ち替え、槍を棍のように打ち下ろしてきた。
「そう来る!?」
双刀を交差させて受ける。
身体が沈み、両腕が痺れた。
それでも前へ出る。
「三娘様!」
玉楼の方天画戟が横から差し込まれ、二人で槍を押し返した。
王寅の身体が、わずかに後ろへ傾く。
届く――
双刀の片方を引き、胸へ突き込もうとした瞬間、転山飛が前脚を上げた。
玉楼の馬が怯み、王寅の槍が大きく回る。
ここで下がれば、また抜けられる。
「行かせない!」
身体を伏せ、転山飛の胸元ぎりぎりへ潜り込んだ。
馬の熱気と汗の匂いが、一気に押し寄せる。
うっ……
一瞬、胃の奥が揺れた。
何よ、今の……
けれど考えている暇はない。
双刀の片方で王寅の槍を跳ね上げ、もう片方を下から突き込む。
王寅が身を捻った。
浅い。
足りない分を、玉楼が埋める。
方天画戟の刃が王寅の退く先を塞ぎ、男の目が細くなった。
その時、林冲の声が飛ぶ。
「今だ!」
蛇矛が届く距離ではない。
それでも王寅の意識が、一瞬だけ林冲へ流れた。
十分だった。
鐙を踏み、身体ごと前へ出る。
双刀が胸当ての隙間へ入った。
王寅の息が止まり、手から槍が落ちる。
転山飛が大きく嘶いで前脚を跳ね上げたところへ、玉楼が方天画戟を返して王寅の肩口を払った。
男の身体が馬上から崩れ落ちる。
転山飛が暴れ、後続の騎兵もつられて乱れた。
「王寅が落ちたぞ!」
叫びが上がった。
味方の声か、敵の声かは分からない。
でも、門前の空気が変わった。
城門へ逃げ戻ろうとする騎兵が現れ、王寅の身体を見て動きを止める者もいる。
暴れる転山飛から距離を取ろうと、馬首を返す者まで出始めた。
林冲が蛇矛を掲げる。
「押せ!」
梁山泊の兵が動いた。
流れが、城門へ向かう。
李雲と石勇は戻らない。
それでも王寅は倒れた。
歙州の門が、ようやく揺らぎ始める。
息を吐こうとして、うまく吐けなかった。
血の匂いが濃い。
馬の汗も土煙も、全部が喉の奥へ張りついてくる。
「三娘様?」
玉楼の声が近い。
「大丈夫よ……」
そう答えたつもりだったのに、声が少しかすれた。
清渓へ近づける。
李俊も、そこへ向かっている。
早く行きたい……
そう思った瞬間、胃の奥がむかついた。
目の前の城門が、ふっと遠くなる。
「……何、これ」
手綱を握る指に力が入らない。
疲れただけ。
血の匂いに当てられただけ。
そう思おうとした。
玉楼が、アタシの腕を掴む。
「三娘様、お顔の色が――」
答えようとしたその時、胃の底から何かが込み上げた――
「二娘殿、三娘様のお顔が尋常ではございません」
「玉楼、まず馬から下ろそうかァ」
「何で二人ともそんな顔してるのよ。ちょっと気持ち悪いだけだから!」
顧大嫂殿が眉を上げました。
「その台詞、戦の最中に言う奴ほど信用できないねぇ」
「アタシの信用どこ行ったの!?」
「自己評価と身体症状は別だからねェ。鑑別は必要だよォ」
「急に医者みたいになるな!」
いつもの調子で怒る三娘様を支えながら、わたくしは少し安心しました。
ですが、孫二娘殿だけは笑っておりませんでした。




