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一人では行かない

「二娘、今日は絶対、一人で突っ込まないから」

「誰に宣言してるのォ?」

「みんなに!」

顧大嫂が呆れたように笑った。

「じゃあ今まで何回、一人で飛び出したんだい?」

「数えないで!」

「衝動性の自己評価って、だいたい甘いんだよォ」

「戦場で診断するな!」

「玉楼がいるなら安心だねぇ。三娘が暴走しても連れ戻せる」

「何でアタシが回収物なのよ!」

孫二娘がにやりとする。

「李俊に返さないとねェ」

「所有物じゃない!」

――でも、その日。

一人では行かないと決めたアタシは、誰かを置いて戻ることになった。

矢が空を埋めた。

顧大嫂が前の盾兵へ体当たりするように手を伸ばし、その背を押し倒す。

「伏せろ!」

声とほとんど同時に、矢が盾へ突き立った。

一枚目が鳴り、二枚目の縁が欠け、三枚目には亀裂が走る。

木片と革の切れ端が飛び散る中、孫二娘は後ろにいた兵の襟を掴み、地面へ引き倒した。

「頭を上げるんじゃないよォ!」

矢は二人の上を越え、背後の石へ当たって跳ねる。

それでも、全部は防げない。

盾の脇を抜けた矢が兵の肩へ刺さり、足元に走った亀裂へ踏み外した者が悲鳴を上げた。

橋材を抱えていた兵も倒れ、縄が泥の上へほどけていく。

「顧大嫂!」

馬を蹴った。

遠い――

さっきまでと同じ距離のはずなのに、今は向こう側まで何倍もあるように見える。

玉楼が隣へ並んだ。

「三娘様、右からも参ります」

城壁の右で龐万春が弓を引く。

狙いは、顧大嫂たちへ向かおうとするアタシたちだ。

弦が鳴った。

玉楼の方天画戟が横へ走り、飛んできた三本をまとめて弾く。

その下を抜けるように馬を進めると、今度は左から矢が来た。

「玉楼、左!」

「承知しております」

言い終わるより早く、玉楼は戟の石突を地面へ打ち込んだ。

跳ねた土が馬の目へ入る寸前で手綱を引き、身体を伏せる。

頭上を矢が通った。

「先に言って!」

「申し上げる前に動かれました」

「そっちもでしょ!」

玉楼の口元が、ほんの少しだけ動く。

こんな時に笑った?

いや、あれは笑っていない顔で笑っている。

「三娘様は前へ」

「玉楼は?」

「隣におります」

その答えだけで、身体から余計な力が抜けた。

アタシが低い矢を払い、玉楼が上を受ける。

方天画戟が大きく回れば、その内側へ入り込んで双刀を振るう。

昱嶺関では、まだ意識して合わせていた。

今は違う。

次にどこを守るか、声を掛けるより先に分かる。

「道を開けます」

「開けるだけじゃないわよ」

「では?」

「全員、帰す!」

玉楼は迷わず頷いた。

「はい。お供いたします」

顧大嫂たちまで、あと少し。

その時、左へ回っていた後続の兵から一人の男が飛び込んできた。

欧鵬だった。

「盾を寄せろ! 傷の浅い者から下がれ!」

崩れかけた列へ入り込み、盾兵を集めながら退路を作っている。

顧大嫂が顔を上げた。

「欧鵬、こっちはまだ動ける!」

「動けるなら下がれ! ここは俺が押さえる!」

「馬鹿を言うんじゃないよ!」

「早くしろ!」

再び矢が降る。

欧鵬は落ちていた盾を拾い、顧大嫂たちの前へ出た。

二本の矢が盾へ突き立ち、その脇を抜けた一本が脇腹へ刺さる。

身体が揺れた。

それでも、欧鵬は倒れなかった。

「欧鵬!」

アタシが叫んでも、振り返らない。

「扈三娘殿! この者たちを頼む!」

「自分で連れて帰りなさいよ!」

返事の代わりに、次の矢が肩へ刺さった。

欧鵬が片膝をつく。

それでも盾を地面へ突き立て、その陰へ兵を押し込んだ。

顧大嫂が歯を食いしばる。

「退くよ! 孫二娘、負傷者を!」

「分かってるよォ!」

孫二娘は倒れた兵の腕を肩へ回し、そのまま引き起こした。

玉楼が方天画戟を前へ突き出す。

「三娘様、今でございます」

分かっている。

ここで止まれば、また矢が来る。

それでも欧鵬を置いていけなかった。

馬を寄せようとした瞬間、林冲の声が飛ぶ。

「退け!」

まだ――

そう思った。

でも、身体が止まる。

欧鵬がこちらを向いた。

血に濡れた顔で、少しだけ笑った。

「早く行け」

城壁の右で、龐万春の弓が鳴った。

一本の矢が盾の縁を抜け、欧鵬の胸へ深く刺さる。

欧鵬の身体が前へ傾き、盾と一緒に地面へ倒れた。

「欧鵬!」

叫んでも動かない。

玉楼の手が、アタシの腕を掴んだ。

「三娘様」

「放して」

「放しません」

「まだ間に合うかもしれない!」

「間に合いません」

言葉が胸へ突き刺さる。

でも、玉楼は目を逸らさなかった。

「生きている方を、お連れします」

視線を向ければ、顧大嫂も孫二娘も、負傷した兵たちもまだ動いている。

分かってる。

分かってるから、嫌だった。

「……分かった」

声が掠れた。

アタシと玉楼が最後尾へ回る。

飛んでくる矢を払いながら倒れた兵を引き起こし、顧大嫂たちの別働隊を壕から引き離した。

龐万春は追わなかった。

城壁の上から、こちらが退いていくのを見ている。

勝ったと思っている顔だった。

その顔だけは、忘れない。

日が落ちる前に、梁山泊軍は陣へ戻った。

欧鵬の身体も運び戻されている。

顧大嫂は腕に浅い矢傷を負い、孫二娘も額を切っていたが、二人とも自分の足で立っていた。

「悪かったねぇ」

顧大嫂が欧鵬の前へ座る。

「アタイらを帰すために、残らせちまったねェ」

孫二娘から、いつもの軽さは消えていた。

誰も返事をしない。

火が焚かれ、負傷者の手当てが始まる。

城壁の上では敵の松明が動き続け、こちらが休んでいる間も歙州は何も変わらず立っている。

アタシは欧鵬の前へ座ったまま、なかなか立てなかった。

また一人、戻らなかった。

玉楼が隣へ来る。

「お休みください」

「眠れると思う?」

「思いません」

「じゃあ言わないでよ」

「眠れずとも、身体は休められます」

「玉楼って、意外としつこいわね」

「三娘様ほどではございません」

言い返された。

今日の玉楼、強い。

「……李俊なら、何て言うと思う?」

口にしてから、自分でも驚いた。

何で今、李俊なんだ。

玉楼は少し考える。

「生きて戻れ、と仰るのではございませんか」

「それだけ?」

「戻られた後で、抱き締められるかと」

「玉楼!」

少し離れたところで、孫二娘が噴き出した。

「玉楼まで言うようになったねェ」

「二娘まで聞いてたの!?」

「聞こえたんだよォ。あと三娘ォ、今の反応だけ見ると図星率が高いねェ」

「心理分析するな!」

顧大嫂が傷を巻かれながら笑う。

「李俊が戻ってきたら本人に確認すりゃいいじゃないか」

「何を確認するのよ!」

「抱き締めるかどうかァ?」

「本人に聞くな!!」

さっきまで胸に沈んでいたものが、ほんの少しだけ動いた。

消えたわけじゃない。

それでも、息はできる。

その時、朱武が林冲と一緒に歩いてきた。

「扈三娘殿、呂玉楼殿」

「休めって話なら聞かないわよ」

「今夜、敵が来ます」

アタシは顔を上げた。

朱武は歙州城の明かりを見ている。

「龐万春は、昼の勝利で我らが疲弊していると見ているでしょう。退いた兵を追えば、さらに崩せると考えるはずです」

「だから夜襲?」

「来る可能性が高うございます」

林冲が続けた。

「もう配置は変えた」

陣の中央では火を多く焚いているのに、人影は少ない。

左右の暗がりには兵を伏せ、さらに退路へ騎兵まで回しているらしい。

「朱武は昼から動かしていた」

林冲の言葉に、朱武が頭を下げる。

「罠へ入れられたのは我らです。ならば、次はこちらが入り口を作ります」

少しだけ気分が良くなった。

「アタシたちは?」

林冲が暗い林を指す。

「夜襲隊の退路へ回れ。龐万春が来れば、逃がすな」

「来なかったら?」

「待て」

「またそれ?」

「待て」

本当に短い。

玉楼が方天画戟を取った。

「参りましょう」

「まだ何も言ってないけど」

「三娘様は行かれます」

「決めつけないで」

「では、残られますか?」

「行くわ」

玉楼が頷く。

「存じております」

腹立つ。

でも否定できない。

二人で林へ入った。

夜が深くなり、陣の火だけが闇の中で妙に明るく見える。

しばらくして虫の声が途切れた。

草を踏む音が近づく。

敵だ――

百を超える兵が闇の中を進んでくる。

先頭にいたのは龐万春だった。

昼と同じ弓を持ち、音を立てずに梁山泊の陣へ近づいていく。

やがて手が上がった。

一斉に矢が放たれる。

陣の火の周りへ立てていた人形へ、次々と矢が刺さった。

その瞬間、左右の闇から梁山泊兵が立ち上がる。

林冲の蛇矛が夜襲隊の先頭を崩し、後ろからは顧大嫂たちの兵が押し返した。

「今だよォ!」

孫二娘の声が夜を裂く。

龐万春はすぐに気づいた。

陣へ踏み込まず、弓を射ちながら退く。

速い。

「逃がさない!」

馬を出す。

玉楼が隣を走った。

龐万春が振り向きざまに矢を放つ。

「玉楼!」

「お任せください!」

方天画戟が一射目を弾き、低く飛んできた二射目はアタシが双刀で払う。

「右へ行く!」

「塞ぎます!」

玉楼が馬を前へ出し、龐万春の右側へ回り込んだ。

方天画戟が横薙ぎに迫る。

龐万春は馬から飛び降り、そのまま地面を転がった。すぐに立ち上がり、林へ走る。

アタシも馬を捨てた。

「三娘様!」

「分かってる! 一人では行かない!」

「では、ご一緒に」

二人で追う。

木陰から矢が飛ぶ。

玉楼が前へ出て方天画戟で逸らし、そのまま間合いを詰めた。

龐万春は弓を捨て、腰の剣を抜く。

「玉楼!」

「下がりません」

剣と戟がぶつかった。

玉楼が龐万春の剣を押さえ込む。

相手が身体を捻る。

逃げるなら左だと分かっていたので、先へ回って退路を塞いだ。

龐万春が足を止める。

アタシが前を塞ぎ、後ろには玉楼がいる。

「昼は、してやられたわね」

龐万春は答えず、剣を振り下ろしてきた。

双刀で挟み込み、そのまま刃を下へ捻る。

「三娘様!」

「今よ!」

玉楼の方天画戟、その石突が龐万春の膝を払った。

体勢が崩れる。

アタシは剣を押し返し、右の刀を振り抜く。

龐万春が後ろへ退いたところへ、方天画戟の刃が回り込んだ。

逃げ場はない。

「終わりよ」

「はい。共に」

二人で踏み込んだ。

双刀が龐万春の胸を裂き、ほとんど同時に方天画戟の刃が脇腹を捉える。

龐万春の身体が揺れた。

落とした弓へ伸ばした手は届かず、そのまま膝から崩れ落ちた。

しばらく、誰も動かなかった。

玉楼が方天画戟を引く。

「討ち取りました」

「二人でね」

「はい」

夜の向こうで敵兵の叫びが上がった。

龐万春を失った夜襲隊が崩れ、林冲の声が響く。

「押し返せ!」

梁山泊軍が一斉に動いた。

アタシは地面に落ちた龐万春の弓を見る。

史進たちも、欧鵬も、戻らなかった者の名前は消えない。

それでも、あの弓から矢が飛ぶことはもうない。

玉楼が隣に立った。

「戻りましょう、三娘様」

「うん」

「李俊殿をお迎えになるためにも」

「今それ言う?」

「今でございます」

やられた。

でも、嫌じゃなかった。

二人で陣へ戻る。

その背後で、歙州の城内から鐘が鳴り始めた。

ひとつではない。

いくつもの鐘が、まだ暗い歙州城を揺らしていた。

「玉楼、三娘ォ、本当に一人で行かなかったねェ」

孫二娘殿が、妙に感心した顔をしております。

「はい、わたくしも驚きました」

「玉楼まで!?」

三娘様が振り返りました。

顧大嫂殿が笑います。

「でも二人になったら、追う速さは倍になったけどねぇ」

「そこはいいでしょ!」

「行動変容には成功、副作用ありってところかァ」

「勝手に評価するな!」

龐万春は、もう弓を引きません。

けれど、歙州の鐘は鳴り止みませんでした。

……どうやら、終わったのは一人の弓兵だけのようでございます。

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