空けてある
「二娘、左が妙に空いてない?」
「空白を見ると埋めたくなるのが人間なんだよォ」
「戦場で心理学を実証しないで!」
顧大嫂が肩をすくめた。
「じゃあ、アタシらが見てくるかね」
「待って。それ絶対フラグ!」
「三娘ォ、今さらメタ発言?」
「今さらだから止めてるの!」
孫二娘が笑う。
「大丈夫だってェ。空いてるだけかもしれないし」
「その言い方が一番怖い!」
この時のアタシ達は、まだ分かっていなかった。
あそこは空いていたんじゃない。
空けてあった。
最初の矢は、誰にも見えなかった。
風を裂く音がしたと思った時には、梁山泊の軍旗を吊っていた縄が切れていた。
支えを失った旗が地面へ落ち、前列の兵たちが一斉に足を止める。
歙州の城壁までは、まだかなりある。
届くはずがない――そう思っていた距離から、龐万春は旗だけを正確に射ち落とした。
城壁の中央で、一人の男がゆっくりと弓を下ろす。
顔までは見えないのに、こちらを見ていることだけは嫌になるほど伝わってきた。
昱嶺関で史進たちを殺した男だ。
追えば矢を浴びせられる道へ逃げ込み、こちらが慎重になれば、その間にさらに先へ退く。
十七日もかけてようやく歙州まで追ってきたというのに、今度は城壁の上から、たった一本の矢で軍全体の足を止めてみせた。
「嫌な挨拶だねぇ」
顧大嫂が落ちた旗を見ながら言った。
「人を射たなくても止められるって見せつけたわけかァ。注意の向け方まで支配しようとしてるねェ」
孫二娘が腕を組む。
「心理戦ってこと?」
「それもあるだろうねェ」
「本当に性格悪い」
思わず口にすると、二人がそろってアタシを見た。
「何よ」
「いや、少し安心しただけさ」
顧大嫂が笑う。
「李俊のことを考えてる時とは、ずいぶん違う顔だからねぇ」
「考えてない」
即答した。
孫二娘が、あからさまに面白そうな顔になる。
「じゃあ、さっきから何度も南を見てたのは何だい?」
「城の向こうを見てただけよ」
「清渓県も、その先だったねェ?」
「二娘!」
そう返したものの、完全に図星だった。
李俊が柴進とともに睦州方面へ向かい、その先の清渓県を目指してから、ずいぶん日が過ぎている。
今ごろ、どこまで進んでいるんだろう。
柴進と予定通り動けているのか、清渓県へ入り込めたのか、怪我なんてしていないか。
考えないようにしていても、ふとした拍子に勝手に浮かんでくる。
そのうえ、あの夜のことまで思い出しそうになった。
抱き寄せられた時の腕の強さが蘇ってきて、慌てて城壁へ目を戻す。
「ほら、その顔だよォ」
「どの顔よ!」
「前より柔らかくなったねェ」
顧大嫂まで頷いた。
「刃に艶が乗ったようなもんかねぇ?」
「戦の前に何を観察してるのよ!」
「戦の前だから余計に分かるんだよォ」
孫二娘だけは妙に真顔だった。
顧大嫂は完全に笑っている。
助けを求めるように横を見ると、玉楼は最初から歙州城しか見ていなかった。
「玉楼」
「はい」
「今、何も聞いてなかった顔してるでしょ?」
「龐万春の位置を見ておりました」
「逃げたわね」
「敵前でございます」
便利な言葉を覚えたものだ。
けれど、そのやり取りのおかげで、軍旗が落ちてから張り詰めていた兵たちの空気も少し緩んだらしい。
笑い声こそ出なかったものの、俯いていた何人かが顔を上げた。
林冲が落ちた旗の前まで馬を進める。
「立て直せ」
それだけで兵が動いた。
旗竿を拾い、切られた縄を結び直している間に、朱武は地面へ棒で歙州城の形を描き始める。
門前には壕があり、その正面に大門、左には外へ張り出した櫓がある。
右側だけは城壁が少し低く、その奥を川が回り込んでいた。
「正面へ橋を出せば、三方から射られます」
朱武が地面へ線を足す。
「中央と左の櫓、それに右の低壁から射線が重なります。橋を掛ける兵を守りながら進むのは容易ではありません」
「龐万春は中央にいる」
林冲が城壁を見上げる。
「今は、でございます」
朱武は棒を止めなかった。
「あの者が、一か所に留まり続けるとは思えません」
その言葉が終わる前だった。
龐万春が動いた。
中央から右へ、城壁の上をゆっくり歩いていく。
こちらから丸見えなのに隠れる様子もなく、自分が見られていると承知した上で姿を晒しているように見えた。
「……誘ってる」
口にすると、林冲がこちらを見る。
「何をだ」
「まだ分からない。でも、見せすぎよ。隠れる気がない」
龐万春は右の低壁で止まり、背後にいた弓兵が左右へ場所を空けた。
あそこからなら壕の前はもちろん、少し後ろの指揮所まで狙える。
その一方で、左の櫓にいた弓兵はさっきより減っていた。
分かりやすい。
だからこそ、嫌だった。
林冲が朱武へ視線を送る。
「左を探れ」
「はい、ただし兵を寄せる前に射線を確かめます」
そう答えた朱武の目が、アタシと玉楼へ向いた。
嫌な予感しかしない。
「扈三娘殿、呂玉楼殿。壕の手前まで出ていただきます」
「つまり、囮よね?」
朱武は一瞬だけ黙った。
「敵の狙いを明らかにしていただきたい」
「言い換えても同じじゃない」
林冲が横から口を挟む。
「死ぬな」
説明が雑すぎる。
でも、林冲がこう言う時は、本当にそれしか求めていない。
勝てとも倒せとも言わない。
ただ、生きて戻れと言っている。
「分かったわ」
双刀を抜く。
玉楼も方天画戟を持ち直した。
毎朝振っているだけあって、長い柄を握る手にも迷いがない。
「三娘様」
「何?」
「わたくしが広く受けます。抜けた矢をお願いいたします」
「いつも通りね」
「はい。並びます」
その一言で、不思議なくらい肩の力が抜けた。
少し前まで、玉楼はアタシの半歩後ろにいるのが当たり前だった。
今は前へ出る時になると、何も言わなくても隣へ来る。
李俊なら、きっと門だけを見るなと言うだろう。
流れを見ろ。
戻る道を見ろ。
目の前の敵に腹を立てて、見えていないものを忘れるな。
本人はいないのに、都合のいい時だけ声が頭に浮かぶ。
……帰ってきたら文句を言ってやろう。
人の頭の中まで勝手に居座るなって。
たぶん、あの人は笑うだけだろうけど。
馬を進める。
壕へ近づくほど城壁は高くなり、上に並ぶ弓兵の姿も大きくなっていく。
顔までは判別できなくても、構えた弓と矢じりだけはよく見えた。
龐万春は右にいる。
弓を上げた。
来る。
「玉楼!」
弦が鳴った。
けれど、矢はアタシたちへ向かわなかった。
高く弧を描き、そのまま後方へ落ちていく。
狙われたのは、壕の幅を測るため縄を持っていた兵だった。
玉楼の方天画戟が跳ね上がる。
重い音とともに矢が刃へ当たり、軌道を逸らされた。
矢羽が兵の頬をかすめて血を飛ばし、驚いた兵が縄を落として尻もちをつく。
後ろの列が揺れた。
「下がるな!」
林冲の声が飛ぶ。
それを合図にしたように、城壁の左右から一斉に矢が降った。
玉楼が方天画戟を大きく回し、広い範囲へ落ちる矢をまとめて弾く。
そこを抜けたものだけをアタシが双刀で落とし、馬の脚へ向かった一本は手綱を引いて避けた。
「右から二本です!」
玉楼の声に反応する。
一本目を刀で弾いた直後、二本目がアタシの脇を抜けた。
後ろには兵がいる。
身体を捻って刀を返し、ぎりぎりで矢を叩き落とす。
衝撃で腕が痺れた。
普通の弓兵なら狙いが読める。
けれど、龐万春は人そのものより、軍を動かしている箇所を狙ってくる。
縄を持つ兵を射ち、馬の脚を狙い、こちらが守ろうとした場所から視線を外させる。
殺すより先に、軍を止める。
本当に嫌な男だ。
龐万春が二射目を放った。
今度は低い。
真っ直ぐ来る。
狙いは林冲だった。
「林冲!」
遠い。
それでも身体はもう動いていた。
馬を横へ向け、双刀を重ねる。
飛んできた矢が刃へ叩きつけられ、腕から肩まで衝撃が抜けた。
歯を食いしばりながら刀の面で滑らせると、矢は軌道を変えて林冲の馬の前へ突き刺さる。
林冲は顔色一つ変えない。
「よく見た」
それだけだった。
……褒めてるのよね。
たぶん。
「位置が変わりました」
朱武が城壁を指した。
「龐万春は完全に右へ寄っています」
「左が薄いな」
林冲の言葉に朱武が頷く。
確かに、左の櫓から飛んでくる矢は減っている。
見える兵も少なく、川沿いの窪地を使えば、正面から姿を隠したまま櫓の下まで近づけそうだった。
「顧大嫂」
林冲が呼ぶ。
「何だい」
「兵を率いて左へ回れ。孫二娘を付ける」
二人の顔から、それまでの笑いが消えた。
「承知した」
「任せなァ」
孫二娘の声にも、さっきまでアタシをからかっていた軽さはない。
顧大嫂を先頭に別働隊が川沿いへ移動する。
盾を構えた兵が前を固め、その後ろを橋材や縄を抱えた者たちが続いた。
アタシと玉楼は正面で矢を受け続ける。
右では龐万春が弓を放ち、そのたびに玉楼の方天画戟が広く矢を払う。
そこから抜けたものをアタシが叩き落とし、その間に顧大嫂たちが左へ寄っていく。
作戦は通っている。
そう見えた。
なのに、嫌な感じが消えない。
龐万春は、こちらを見ていなかった。
右の低壁から矢を射ちながら、時折、左へ目を向けている。
顧大嫂たちの移動を見ている。
気づいているのに、そちらへ矢を向けない。
どうして――
左の櫓を見る。
兵が少ない。
矢も来ない。
壁の下だけ、影が妙に深い。
そこでようやく分かった。
違う――
空いているんじゃない。
空けてある。
「林冲!」
振り返るより先に叫んだ。
その瞬間、城壁の右で龐万春が笑ったように見えた。
右手が上がる。
合図だ。
左の櫓の下で鈍い音が響き、石組みの一部が沈んだ。
顧大嫂たちの足元へ細い亀裂が走る。
「止まって!」
声が届くより早く、櫓の壁が内側へ開いた。
暗がりの中には、弓兵が待っていた。
一列ではない。
二列目が立ち上がり、その奥でも弓が構えられる。
伏せていた兵たちが、一斉に弦を引いた。
先頭には顧大嫂。
そのすぐ後ろに孫二娘がいる。
玉楼が方天画戟を構える。
遠い――
ここからでは、間に合わない。
龐万春の手が振り下ろされた。
左の櫓から、空が消えるほどの矢が放たれた。
左の櫓は、手薄なのではございませんでした。
手薄に見せられていたのでございます。
扈三娘様が気づかれた時には、すでに弓が並んでおりました。
私も方天画戟を構えました。
ですが、遠い……
届かない場所へ矢が降る時ほど、武器の重さを感じたことはございません。
「玉楼、今回は静かだったわね」
扈三娘様が仰いました。
「今回は、黙っていても分かりましたので……」
「何が?」
「李俊殿を思われているお顔でございます」
扈三娘様が黙られました。
少しだけ、言い返せた気がいたします。
ですが、今はそれどころではございません。
あの矢より先に、届かなければなりません。




