↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
139/210

急がない。でも、逃がさない

「二娘、歙州まで十七日って長すぎない?」

「現実の行軍に場面転換はないからねェ」

「知ってるけど!」

顧大嫂が荷を見ながら鼻で笑った。

「嫌なら一行で飛ばすかい? 『その後、歙州へ着いた』って」

「雑すぎる!」

孫二娘が肩をすくめる。

「三娘ォは待つのが苦手だから、体感時間も長いんだよォ」

「心理学で片づけるな!」

「李俊待ってる時なんて、もっと長そうだねェ」

「何でそこで李俊!?」

……十七日後。

歙州の城壁には、あの嫌な男が待っていた。

昱嶺関を抜いても、龐万春には追いつけなかった。

あの男は、馬では通れない細い下り道へ逃げ込んだ。

岩陰を縫うように続き、木の根まで斜面へ浮き出ていて、こちらが追えば馬を捨てるしかないような道だった。

「追うな」

林冲は、短く言った。

「でも、龐万春が」

「追えば、また射られる」

それで終わりだった。

アタシは唇を噛んだ。

分かっている。喉元まで詰めて、刀の切先が届く寸前だったからこそ腹が立つけれど、龐万春はただ逃げたわけじゃない。

こちらが追えば危険になる道を選び、その先へ消えた。

こういう敵が、一番嫌いだ。

「……嫌な男ね」

思わず呟くと、玉楼が横に立ったまま答える。

「生き残ることに長けておられるのでしょう」

「褒めてる?」

「敵として厄介だと申しております」

「まあ、そういうことよね」

倒せなかった。

でも、昱嶺関は抜いた。

だから次へ進めばいい――と簡単にはいかなかった。

史進たちの遺体を集め、負傷兵を下げ、壊れた荷を直さなければならない。

狭い山道でそれをやるだけでも時間がかかり、勝ったからといって翌朝には何事もなかったように進軍できる場所ではなかった。

こういう時、物語なら一行で済む。

――梁山泊軍は、歙州へ向かった。

楽だ。

ものすごく楽だ。

でも実際には、折れた矢を拾い、血のついた岩を避けながら荷車を通し、馬の脚を確かめて進ませるか休ませるかまで決めなければならない。

負傷兵のうめき声だって、夜になったからといって消えてくれるわけじゃない。

戦は終わっていない。

次へ進むための面倒が、山ほど残っている。

孫二娘と顧大嫂は、そういう面倒になると妙に強かった。

「水を先に回しな! 飯はその後だよ!」

顧大嫂が兵を追い立て、その横では孫二娘が血に濡れた布を受け取っている。

「騒ぐ前に圧迫しなァ。血を見て慌てると判断力まで持ってかれるよォ」

「それ心理学?」

「半分くらいねェ」

「半分って何よ」

「残りは経験則ゥ」

「便利ね、その分類!」

孫二娘は笑ったまま負傷兵の腕を押さえ直した。

こういう時の二人を見ると、後ろが崩れない理由がよく分かる。

前で誰かが勝っても、後ろで人が死んでいたら意味がない。

……そう思えるようになった自分にも、少しだけ驚いた。

玉楼は方天画戟を担ぎ、いつの間にかアタシの半歩後ろへ戻っている。

「並ばないの?」

「今は行軍中でございますので」

「戦の時だけ?」

「林冲殿は、戦列において並び立てと命じられました」

「そこ、きっちり分けるんだ」

「当然でございます」

真面目か――と思ってから、今さら何を言っているんだと自分で気づいた。

玉楼は昔からこうだった。

ただ、一度隣に来た肩を見てしまったせいで、半歩後ろに戻られると前ほどしっくりこない。

方天画戟を担いだ玉楼の目は前を見ているのに、足だけはきちんとアタシの少し後ろにある。

守る位置は、まだそこらしい。

「三娘ォ」

後ろから孫二娘の声がした。

「何?」

「玉楼が下がるたびに見てるねェ」

「見てない」

「視線追跡したら面白そうだねェ」

「しなくていい!」

顧大嫂が笑う。

「李俊がいない間に、今度は玉楼まで気になって仕方ないのかい?」

「話を混ぜるな!」

「李俊の名前が出たァ」

「二娘!」

また笑われた。

最近、本当に味方が少ない。

それでも夜になって寝床へ入ると、今度は誰もいないところで李俊のことを考えてしまう。

睦州へ向かい、その先は清渓県。

今ごろ、どこまで進んでいるんだろう。

無事なのか。

ちゃんと食べているのか。

……いや、最後のは余計なお世話かもしれない。

李俊ならアタシよりよほど自分の面倒を見られる。

それでも気になるものは気になる。

昱嶺関を出て三日目、その気持ちを吹き飛ばすように一本の矢が飛んできた。

真正面ではなく、左の岩場から。

矢は先頭の兵の足元へ刺さっただけで、誰も傷ついていない。

それなのに列が止まった。

誰もが山の上を見る。

龐万春の矢かどうかは分からない。

でも、昱嶺関で何があったかを知っている以上、たった一本を笑って済ませる者はいなかった。

林冲が馬を止め、朱武がすぐに兵を下げて斥候を出す。

「時間を取られるねぇ」

顧大嫂が腕を組んだ。

「焦って死ぬよりはマシよ」

そう答えると、孫二娘が妙な顔でアタシを見る。

「三娘がそれ言うんだァ」

「何よ?」

「認知の修正が進んでるねェ」

「人を治療中みたいに言うな!」

「でも前なら飛び出してたろ?」

顧大嫂にまで言われ、反論が詰まった。

……たぶん、行っていた。

一本射られただけで射手を探し、山へ駆け上がっていた気がする。

今は違う。

龐万春は、こちらが怒って前へ出るのを待つ。

それを知っているから、待つ。

待つのも戦だ。

林冲に言われた言葉が、こんなところまで追いかけてくる。

本当に面倒な言葉だ。

一度覚えると、勝手に頭の中から出てくる。

斥候が戻ったのは半刻ほど後だった。

岩場に残っていた弓兵は二人。

一人は逃げ、もう一人は自害しており、その先には馬の胸ほどの高さに細い縄が張られていたという。

気づかず駆け込めば馬ごと転び、その上から射られる。

「やっぱり嫌な男」

「龐万春の指図とは限りません」

玉楼が言う。

「でも、やり方が似てる」

「……はい」

そこは否定しないんだ。

林冲はその日の進軍を止め、近くへ陣を置いて道を調べ直した。

それだけで、一日が消えた。

昔なら焦っていたと思う。

今も焦っていないわけじゃない。

ただ、その焦りをそのまま足へ移すほど馬鹿ではなくなった。

たぶん。

……いや、そこは少し自信がない。

夜、身体が鈍るのが嫌で玉楼に小石を投げてもらった。

「またでございますか?」

「暗い時もやっておきたいの」

「では、本日は三十で止めます」

「二十でいい」

「二十五で」

「何で増えるのよ!」

玉楼は真顔だった。

暗い中では、昼のように目だけを頼れない。

石が風を切る音を拾い、身体を動かした先まで考えなければ間に合わない。

瓊英は、そういうところまで容赦がなかった。

今さらだけど、弟子入り先を間違えた気もする。

でも、その地獄みたいな特訓のおかげで龐万春の矢を弾けた。

文句を言いにくいのが悔しい。

「三娘ォ、夜まで元気だねェ」

いつの間にか孫二娘が近くに立っていた。

「見学しなくていいから」

「李俊が帰ってきた時に体力落ちてたら困るもんねェ?」

危うく石が額に当たりかけた。

「二娘!!」

「注意が逸れましたね」

玉楼まで真面目に言う。

「今のは二娘のせいでしょ!」

「注意転導だねェ」

「原因のくせに分析するな!」

顧大嫂の笑い声が、暗い陣の向こうまで響いた。

七日目、ようやく山道を抜けた。

道幅が広がって馬の列も伸び、遠くには低い丘と、その向こうで光る川が見える。

それでも、歙州はまだ遠い。

山に閉じ込められていた息苦しさが薄れた代わりに、今度は敵の小さな砦が増えた。

大きな戦にはならない。

けれど放っておけば後ろを突かれるため、一つずつ潰して道を確保し、荷を通してから次へ進むしかない。

ここも、書くだけなら簡単だ。

――途中の砦を落としつつ、軍は歙州へ迫った。

一行。

実際には三日かけて砦を一つ落とし、半日かけて荷を通したところで、また次の斥候を出す。

雨が降れば道はぬかるみ、馬が滑れば列が止まり、負傷兵が熱を出せば孫二娘と顧大嫂が怒鳴りながら世話をする。

戦場以外のことばかりが、戦を遅くする。

でも、そのおかげで人が死ににくくなる。

朱武が地図を直し、林冲が前衛を押さえ、盧俊義は本隊を無理に急がせない。

その中で、アタシと玉楼は前へ出る時だけ並んだ。

敵が射れば、玉楼が方天画戟で広く払う。

そこを抜けた矢はアタシが双刀で落とし、そのまま射手のいる場所へ踏み込む。

何度か繰り返すうちに、兵たちの反応まで変わった。

「扈三娘殿と玉楼殿が前へ出るぞ!」

誰かがそう言えば、列が自然に整う。

玉楼は少し困ったように眉を寄せた。

「どうしたの?」

「名を並べられることに慣れておりません」

「慣れれば?」

「簡単に申されますね」

「難しく考えすぎなのよ」

玉楼は答えず、方天画戟を握り直した。

でも、そのまま半歩後ろへ下がることはなかった。

歙州の城が見えたのは、昱嶺関を抜いてから十七日目だった。

白い城壁が遠くに浮かび、その手前には川沿いの町と壕が見える。

山城とは違う。

だからといって、楽な城でもない。

城壁の上には弓兵が並び、その中央に一人だけ動かない男がいた。

遠すぎて顔までは見えない。

それでも分かった。

「いた」

玉楼も同じ場所を見ている。

「向こうも、こちらを見ております」

龐万春だった。

城壁の上で、その弓が上がる。

距離がある。

普通なら届かない。

でも、相手は龐万春だ。

「下がれ!」

林冲の声より早く、矢が放たれた。

高く弧を描いた矢は先頭の兵ではなく、軍旗へ落ちてくる。

旗竿を折るつもりだ。

「玉楼!」

「はい!」

方天画戟が跳ね上がる。

落ちてきた矢が刃へ当たり、横へ流れて地面へ突き刺さった。

重い音だけが残る。

龐万春の矢は、まだ届く。

城壁の上からでも、こちらの足を止められる。

林冲は地面へ刺さった矢を見てから、城壁へ目を戻した。

「急ぐな。陣を敷く。水を押さえ、道を切れ。城門へ近づくのは、それからだ」

盧俊義が頷き、朱武もすぐに兵を走らせる。

また、待つのか……

そう思ったけれど、今度は口に出さなかった。

龐万春を倒さない限り、歙州は落ちない。

でも、焦ればまた誰かが落ちる。

アタシは双刀の柄を握り直した。

その横で、玉楼がいつものように半歩下がろうとする。

「玉楼」

「はい」

「城攻めの時は?」

玉楼は少し考え、それから答えた。

「並びます」

思わず笑いそうになる。

「よろしい」

「三娘様」

「何?」

「お顔が緩んでおります」

「出てない」

「出ております」

そこは見なくていい。

歙州の城壁では、龐万春がゆっくり弓を下ろしていた。

急がない。

でも、逃がさない。

昱嶺関からここまで、もうかなりの日が過ぎている。

歙州を落とすには、さらに時間がいるだろう。

それでいい。

李俊が向かった道も、今は見えない。

それでも、アタシ達は止まっていない。

一つずつ進む。

次は、歙州を落とす。

「玉楼、さっき兵が『三娘と玉楼が前へ出る』って言ってたねェ」

孫二娘殿が、妙に楽しそうに申しました。

「聞こえておりました」

「二人一組で認識され始めたんだねェ。集団認知って面白いよォ」

「勝手に研究対象にしないで!」

三娘様がすぐに割り込みます。

顧大嫂殿は笑いました。

「でも玉楼、嬉しくないのかい?」

「……慣れておりませんので」

「嫌とは言わないんだァ」

孫二娘殿の指摘に、返す言葉がございません。

すると三娘様が、わたくしの袖を軽く引きました。

「慣れればいいのよ。次も並ぶんだから」

「……はい」

歙州城の上では、龐万春がまだ弓を持っております。

次は、半歩下がっている暇などなさそうでございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。