半歩横から、前へ
「二娘。玉楼って、いつもアタシの半歩横にいるでしょ?」
孫二娘が頷いた。
「三娘ォが突っ走るからねェ」
「そこは否定して!」
顧大嫂が笑う。
「後ろまで見てもらってるくせに何言ってんだい」
「アタシだって見てるわよ!」
「前しか見てない時あるよォ?」
「心理分析みたいに言うな!」
二娘が肩をすくめた。
「じゃあ三娘ォが前に出られなかったら、玉楼はどうすると思う?」
「……横にいるんじゃない?」
顧大嫂がにやりとした。
「どうだろうねぇ」
「その顔やめて!」
この時のアタシは、まだ知らなかった。
半歩横にいた玉楼が、真正面へ出るとどうなるのかを――
待つのも戦だ――
林冲は、そう言った。
だからアタシは、前には出されなかった。
昱嶺関へ向かう二路軍の中でも、孫二娘と顧大嫂がいる後方寄りに置かれている。
荷を運ぶ者、負傷兵を下げる者、水や布を用意する者が行き交う中で、アタシだけが何度も山道の先を見ていた。
「三娘ォ、首伸ばしても前は見えないよォ?」
隣から孫二娘に言われた。
「伸ばしてない」
「伸びてるねェ」
「伸びてない!」
顧大嫂まで荷の向こうから笑う。
「じゃあ、そのまま後ろ向いてな。前を見ると行きたくなるんだろ?」
「何でアタシだけ危険物みたいな扱いなのよ!」
「昨日、林冲に監視命令まで出された女が何言ってんだい?」
反論できなかった。
しかも身体まで林冲の判断に味方している。
朝よりはましになったとはいえ、歩幅を広げると昨夜の名残がまだひりつく。
全力で馬を走らせ、そのまま敵へ斬り込めと言われたら、たぶん戦える。
でも、終わったあと普通に歩ける自信はなかった。
「……李俊は、今ごろどこだろ?」
つい口から出た。
孫二娘が横目を向ける。
「またそっちィ?」
「悪い?」
「悪かないけどねェ。さっきから山と清渓県を交互に心配してるから、注意資源が大変そうだと思って」
「人の恋愛に心理学用語を使うな!」
「恋愛って自分で言ったねェ」
しまった……
顧大嫂が吹き出した。
「元気そうで何よりだよ」
「この二人、本当に後方支援なの!?」
「精神面も支援してるよォ?」
「むしろ削ってる!」
そんなやり取りをしていても、前方から響く鉄の音がするたび、身体は勝手にそちらへ向こうとする。
山道の先は木々と岩に遮られ、何が起きているのか分からない。
聞こえてくるのは怒号と、時折跳ね返ってくる金属音だけだった。
李俊の向かった先がどうなっているか分からない。
今度は、仲間が戦っている場所まで見えない。
待つというのは、何も知らないまま耐えることなのかもしれない。
そう思った時だった。
前方から兵が駆け込んできた。
走っているというより、山道を転げ落ちてきたような勢いだった。
顔色がおかしい。
「報告!」
周囲の空気が一変する。
「前衛、伏兵に遭遇! 山上より強弓を受けております!」
強弓――
その言葉を聞いた瞬間、背筋が強張った。
兵は息を切らしたまま続けた。
「史進殿、討死!」
何を言われたのか、一瞬分からなかった。
「楊春殿、陳達殿も続いて討たれました! 李忠殿、薛永殿、石秀殿も……!」
名前が増えるたび、声だけが遠くなる。
孫二娘の笑みは完全に消えていた。
顧大嫂が舌打ちする。
アタシは、もう前へ踏み出していた。
「行くわ」
「行かせないよ」
顧大嫂が腕を掴んだ。
冗談じゃなく、本気の力だった。
「離して!」
「嫌だね」
「史進たちが――」
「もう間に合わないだろ!」
怒鳴られて、身体が止まる。
その前へ孫二娘が回り込んだ。
「三娘ォ、今行ったら同じことになるよ」
「見てないじゃない!」
「見えてないから行くんじゃないよォ!」
いつもの伸びた声ではなかった。
鋭い。
珍しいほど強い声だった。
分かっている。
山の上から狙われ、こちらは敵の位置さえ満足に掴めていない。
そんな場所へ飛び込めば敵の狙い通りなのに、史進が死に、石秀まで死んだと聞けば、身体は勝手に前へ出ようとする。
「扈三娘は動かすな」
林冲の声が飛んだ。
振り向くと、蛇矛を持った林冲が山道の方を見ている。
「林冲!」
「お前は後ろだ」
「でも!」
「だからだ」
喉が詰まった。
林冲はアタシを見ない。
「前へ出た者から射られている。今のお前まで放り込む理由はない」
「アタシは戦える!」
「戦えるかどうかの話ではない」
返す言葉が消えた。
「命令だ」
逃げ道まで塞がれた。
悔しいのに、その判断が間違っていないことまで分かるから、なおさら腹が立つ。
林冲の視線が横へ動いた。
「玉楼」
「はい」
玉楼がすぐに前へ出る。
方天画戟は、もうその手にあった。
「お前が立て」
胸を掴まれたような気がした。
アタシではなく、玉楼を前へ出す。
玉楼は一度もこちらを見ずに答えた。
「承知しました」
迷いがない。
方天画戟を持つ手にも、余計な力は入っていなかった。
「玉楼!」
呼ぶと、そこでようやく振り向いた。
「三娘様」
「……気をつけて」
もっと何か言いたかった。
でも、それしか出なかった。
玉楼はほんの少し微笑む。
「行ってまいります」
それだけ言って馬へ乗った。
林冲が短く命じる。
「射線を切れ。下がる兵を通せ」
「はい」
玉楼が山道へ入る。
直後、矢が来た。
姿より音が先だった。
方天画戟が大きく回った。
甲高い音とともに飛来した矢が岩へ弾かれ、続く一本も柄に触れた瞬間に軌道を変える。
さらに山上から矢が重なったが、玉楼は馬を進めながら刃を返し、まとめて左右へ散らした。
「……ちょっと待って」
思わず声が出た。
孫二娘も目を見開いている。
「玉楼って、あんなことできたのォ?」
「できるのは知ってたけど……」
知っていた。
林冲と一騎討ちした時だって、とんでもなく強かった。
でも、普段の玉楼はアタシが突っ込めばその横を拾い、後ろが崩れれば何も言われなくても塞いでいる。
だから忘れていた。
玉楼を真正面に置いたら、どうなるのか。
山上から矢が降る。
玉楼は避けるのではなく、味方へ通さなかった。
方天画戟が回るたび、飛来した矢が左右へ逸れる。
岩陰から敵兵が飛び出せば、馬上から柄を横へ振って槍ごと押し流し、そのまま刃を返して間合いを奪う。
玉楼の後ろで、止まっていた味方が動き始めた。
「負傷者を下げろ!」
林冲の声が飛ぶ。
顧大嫂もすぐに怒鳴った。
「道を空けな! 歩ける奴は端へ寄れ! 担ぐ奴を先に通すんだよ!」
孫二娘はもう負傷兵の方へ走っている。
「こっちィ! 座り込むんじゃないよォ! 息できる奴は返事しな!」
さっきまでアタシを弄っていた二人が、迷いなく救護へ切り替わる。
こういう時の二人は、本当に早い。
そして、いつもアタシの半歩横にいる玉楼が、今日は山道の正面で矢を叩き落としている。
改めて思う。
玉楼って、こんなに強かったんだ。
たぶん、正面から敵陣を割れと言われたらアタシも負けない。
でも、崩れかけた味方の前へ立ち、押し寄せるものを一つずつ止めて、後ろを生かす。
これは玉楼の強さだ。
「……すごい」
口から漏れた。
顧大嫂が一瞬こちらを見る。
「悔しいかい?」
「悔しい」
「だろうねぇ」
「でも、すごいものはすごい」
顧大嫂が笑った。
「なら見てな」
見ているしかない。
今日は、それがアタシの戦だ。
山の上から一斉に矢が放たれた。
今までより多い。
玉楼の馬が一瞬止まる。
「玉楼!」
方天画戟が回った。
最初の矢が弾かれ、二本目が刃に当たる。
続く矢を柄で逸らし、その隙を狙って飛んできた一本が玉楼の肩をかすめた。
血が散る。
「玉楼!」
今度こそ身体が前へ出た。
孫二娘が背後から帯を掴んだ。
「三娘ォ!」
「放して!」
「今行って何すんのォ!」
「玉楼が怪我した!」
「かすっただけだよォ!」
「何で見えてるの!?」
「アタイだって目くらいあるよォ!」
こんな時なのに、返される。
その間にも玉楼は戦っていた。
肩から血が滲んでいるのに、方天画戟の動きは変わらない。
岩陰から敵兵が一人飛び出した。
玉楼は馬首を寄せると、その槍を方天画戟の内側へ絡め、そのまま横へ引いた。
敵兵の身体が崩れたところへ柄を叩き込み、山道の端へ転がす。
さらに一人が出てきたが、今度は刃を使わない。
馬の進路を塞ぐ敵を柄で押し退け、その後ろにいた味方を通した。
玉楼は倒した敵を追わず、守るべき場所だけを見ている。
「列を戻せ!」
林冲が叫ぶ。
玉楼の後ろで兵達が動き、負傷者が次々と下げられてくる。
史進たちはもう戻らない。
それは変えられなくても、ここから先の死者を増やさないために、玉楼は立っている。
「三娘様!」
風の中から声が届いた。
玉楼は振り返っていない。
それでも、アタシに向けているのが分かる。
「もう少しお下がりください!」
「下がってるわよ!」
「半歩でございます!」
「こんな時まで細かい!」
「必要ですので!」
笑うところじゃない。
なのに、少しだけ笑ってしまった。
「分かった!」
言われた通り、一歩下がる。
孫二娘が隣で肩を揺らした。
「素直になったねェ」
「今それ言う!?」
「成長を観察してるんだよォ」
「戦場で心理評価するな!」
その向こうで玉楼が最後の矢を弾いた。
矢の数が減る。
敵も、こちらが無理に押し上がってこないと見たらしい。
林冲が状況を見切った。
「退け!」
「承知しました!」
玉楼はすぐに馬首を返した。
背を向けても慌てない。
味方を先に通し、自分は最後まで山側を警戒している。
そして、戻ってきた。
方天画戟を持ったまま。
アタシは孫二娘の横を抜け、玉楼へ寄る。
「肩!」
「問題ございません」
「血が出てる!」
「動きに支障はございません」
「それ、問題ある人が言うやつ!」
孫二娘が後ろから覗き込む。
「見せなァ」
「かすり傷でございます」
「診るのはアタイ。決めるのも今はアタイ」
「心理学じゃないでしょ、それ」
「救護に専門外とか言ってられないよォ」
強引に玉楼を座らせる孫二娘の横で、顧大嫂が笑う。
「三娘より言うこと聞くねぇ」
「何で比較対象がアタシなのよ!」
玉楼まで真顔で答えた。
「三娘様よりは」
「玉楼!?」
裏切られた。
二回目だ。
林冲がこちらへ歩いてくる。
玉楼の肩と方天画戟を見てから、短く言った。
「よく止めた」
「全ては止められませんでした」
「それを言うな」
玉楼が顔を上げる。
林冲の声は静かだった。
「前へ出た者は戻らなかった。お前は残った者を帰した。それでいい」
玉楼は、しばらく黙っていた。
やがて小さく頭を下げる。
「……はい」
その姿を見て、やっと息が抜けた。
玉楼は前へ出た。
アタシは後ろで待った。
そして、玉楼は戻ってきた。
待つのも戦だ。
李俊を待ち、今日は玉楼を待った。
自分が行けない場所で誰かが戦うのを見ているなんて、こんなに苦しいとは思わなかった。
でも、玉楼は帰ってきた。
肩に血を滲ませ、それでも方天画戟を離さずに。
アタシは、まだ何も言えずに、その姿を見ていた。
「玉楼、動かないで!」
三娘様に肩を押さえられ、わたくしは座り直しました。
孫二娘殿が傷へ布を当てます。
「かすっただけだから平気だよォ」
「平気なら何で血が出るの!」
顧大嫂殿が笑いました。
「三娘、お前さんの方が歩き方おかしいけどねぇ」
「今それ関係ないでしょ!」
「患者が患者を心配してるねェ」
「アタシは患者じゃない!」
孫二娘殿が首を傾げます。
「否認かなァ?」
「心理学に持っていくな!」
わたくしは思わず申し上げました。
「三娘様、どうかお座りくださいませ」
「何で玉楼までそっち側なの!?」
……どうやら本日の負傷者は、わたくし一人ではないようでございます。




