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待つのも戦だ

「二娘……待つって、何すればいいの?」

孫二娘が眉を上げた。

「待つんだよォ」

「説明になってない!」

顧大嫂が横から口を挟む。

「寝てりゃいいじゃないか」

「もっと戦っぽい何かないの!?」

「じゃあ敵地まで追いかけるゥ?」 「それは無理!」

二娘がにやりと笑った。

「自分でどうにもできない状況に耐えるのも、立派なストレス対処だよォ」

「急に心理学で正当化しないで!」

「なら飯食って寝な」

「顧大嫂まで雑!」

「昨日ほとんど寝てないんだろ?」

「何で知ってるの!?」

二人が同時にアタシを見た。

「……何よ」

「いやァ?」

「何でもないよ」

「その顔で何でもないは通らない!!」

どうやら、待つ以前に今日一日を乗り切る方が大変っぽい……

幕舎へ戻ると、急に音が遠くなった。

外ではまだ兵が動いている。

馬具の触れ合う音も、荷を運ぶ声も聞こえているのに、李俊の姿が見えなくなっただけで、さっきまでよりずっと静かに感じた。

玉楼に支えられて寝台まで戻り、腰を下ろした途端、身体の奥がまた痛んだ。

「っ……」

思わず息が止まる。

「横になられますか?」

「……少しだけ」

もう強がる気力も残っていなかった。

玉楼に手を借りて身体を横たえる。

それだけなのに、昨夜初めて李俊を受け入れた場所がひりつき、腰を動かすたびに奥まで鈍く引っ張られるような痛みが残っている。

斬られた時とは全然違う。

痛いのに、原因を考えると恥ずかしい。

しかも嫌だった訳じゃない。

むしろ、自分から李俊を引き寄せたことまで思い出してしまい、布団を鼻の辺りまで引き上げたくなった。

朝になったのに、昨夜が全然終わってくれない。

「お水を」

玉楼が椀を差し出してくれる。

「ありがと」

身体を少し起こして一口飲むと、思っていた以上に喉が渇いていた。

冷たい水が通っていくだけで、ようやく身体が自分のものへ戻ってくる気がする。

「玉楼」

「はい」

「アタシ、変?」

「何がでございますか?」

「……昨日までと」

玉楼はすぐには答えなかった。

何その間……

怖いんだけど。

「お変わりはございます」

「やっぱり!?」

「ですが、悪い意味ではございません」

そう言われると、今度は何を聞けばいいのか分からなくなる。

身体は重いし、ほとんど眠っていないから頭もぼんやりしている。

それなのに、目を閉じようとすると李俊の胸に耳を当てた時の鼓動が浮かび、その次には宿営地から伸びていた道まで思い出してしまう。

今ごろ、どこまで行ったんだろう。

まずは睦州方面へ入ると言っていた。そこから清渓県へ近づき、柴進は柯引として敵の中へ潜る。

李俊も一緒だ。

見えない場所へ行ってしまった。

「寝られないかもしれない」

「横になっておられるだけでも違います」

「顧大嫂と同じこと言うのね」

「正しいことですので」

真顔で返された。

こういう時、玉楼は容赦がない。

でも、そのいつも通りの返事に少しだけ気が抜けた。

帷幕の外から足音が近づいてくる。

「入るよ」

顧大嫂だった。

「どうぞ」

玉楼が答えると、顧大嫂が椀を持って入ってきた。

その後ろには孫二娘までいる。

「三娘ォ、寝てるゥ?」

「起きてる」

「だろうねェ」

「何で分かるのよ」

「アタイを誰だと思ってるのォ?」

「今は答えたくない」

孫二娘が楽しそうに笑った。

顧大嫂は卓へ椀を置く。

中には粥が入っていて、まだ湯気が立っていた。

「食べな」

「今はあんまり……」

「一口でいいから食べな」

完全に命令だった。

孫二娘まで横から頷く。

「今日は顧大嫂の言うこと聞いときなァ。睡眠不足に身体的疲労まで重なってると、判断力も落ちやすいからねェ」

「急に専門家の顔するのやめて」

「元から専門家だよォ?」

「さっきまで予後良好とか言ってた人が!?」

顧大嫂が吹き出した。

「これだけ言い返せるなら元気じゃないか」

「ツッコミできるかどうかで健康判定しないで!」

勢いよく言って身体を起こした途端、昨夜の名残がひりついた。

「っ……!」

今度は誤魔化せなかった。

孫二娘の目が、アタシの顔から脚へ落ちる。

嫌な予感がした。

「……三娘ォ」

「何よ?」

「今日は大股で歩かない方がいいよォ」

「何で!?」

「聞きたいィ?」

「聞きたくない!!」

顧大嫂が顔を背けた。

笑っている。

絶対笑っている。

「顧大嫂まで笑うな!」

「笑ってないよ」

「肩が動いてる!」

玉楼だけは真顔だった。

それが一番怖い。

「玉楼、何か言って」

「孫二娘殿のお言葉に従われるのがよろしいかと」

「そっち!?」

完全に包囲されている。

ただ、孫二娘はそこから先を茶化さなかった。

「冗談はともかく、無理しなさんな。痛みが強くなるなら今日は休むこと。いいねェ?」

「……大丈夫じゃないけど、大丈夫」

「ややこしいねェ」

「李俊にも似たようなこと言われた」

二娘が少しだけ目を細めたが、それ以上は聞かなかった。

顧大嫂が粥をこちらへ寄せる。

「ほら」

玉楼に身体を支えてもらい、仕方なく一口食べた。

温かい粥が胃へ落ちていく感覚が、妙にはっきり分かる。

「味はするかい?」

「するわよ」

「なら食える」

「判断が雑!」

「細かいことは二娘に任せてるからね」

「アタイに振るのォ?」

「心理学で何とかしな」

「心理学は胃袋の担当じゃないよォ!」

二人が勝手に揉め始めた。

何か、いつも通りだ。

その馬鹿馬鹿しさに助けられながら、二口目を食べる。

全部は無理でも、少しずつ身体が現実へ戻ってくる。

「今ごろ、どの辺だろ?」

口にすると、孫二娘がこちらを見る。

「李俊達ィ?」

「うん」

顧大嫂が腕を組んだ。

「出たばかりだ。まだ睦州方面へ向かってる頃だろうよ」

「分かってるけど」

「三娘様」

玉楼が静かに続ける。

「李俊殿は、戻るための道を見る方です」

昨日から何度も聞いた言葉だった。

でも今は、何度聞いてもいい気がした。

李俊自身も、戻って迎えに来ると言った。

なら、アタシがここで勝手に最悪のことばかり考えても仕方がない。

孫二娘が壁にもたれた。

「今の三娘ォにできるのは、身体を休めて、呼ばれた時に動けるようにしとくことだよォ」

「待つだけ?」

「待つのが嫌だからって、李俊を追って敵地まで行く?」

「……無理」

「なら休む」

「心理学じゃなくて力技じゃない」

「必要なら行動療法ってことにするゥ?」

「言えば何でも心理学になると思うな!」

顧大嫂が笑いながら頷いた。

「二娘の言い方はともかく、戦は止まらないよ。李俊が敵ん中にいる間も、こっちはこっちで仕事がある」

それを聞くと、不安とは別のものが戻ってきた。

アタシは梁山泊の一頭領で、李俊を待つだけの人間じゃない。

だからといって、今すぐ無理して出ればいい訳でもない。

「林冲は?」

「もう動いてるよ」

顧大嫂が答える。

「兵の配置を見てる。朱武も呼ばれてたねぇ」

「じゃあアタシも――」

起き上がろうとした瞬間、肩に玉楼の手が置かれた。

「今は、少しお休みください」

「でも」

「呼ばれましたら、私が起こします」

「起きられるかな?」

「必要であれば、必ず」

「怖い言い方しないで」

「では、優しく起こすよう努力いたします」

「努力が必要なの!?」

孫二娘が笑った。

「玉楼の『努力します』って怖いねェ」

「聞こえております」

「聞こえるように言ったんだよォ」

いつの間にか、粥は半分ほど減っていた。

顧大嫂が椀を受け取る。

「上等だね」

「子供扱いされてない?」

「今日はそれくらいでいいさ」

言い返そうとして、やめた。

反論する力まで使うのが惜しい。

横になると、玉楼が布団を直してくれる。

孫二娘と顧大嫂も出ていくらしい。

「何かあったら呼びなァ」

「うん」

「何もなくても玉楼が呼びそうだけどォ」

「必要であれば」

「ほらァ」

「二娘、帰って」

笑いながら二人が出ていき、帷幕が下りた。

さっきとは違う静けさが戻ってくる。

「玉楼も休んで」

「私は大丈夫でございます」

「そう言うと思った」

少し笑ってから目を閉じる。

李俊のことを思い出した。

戻ると告げた時の声も、迎えに来ると言った時の顔も、まだ鮮明に残っている。

今度は、それを一つずつ追いかけないようにした。

胸の中に置いておけばいい。

「玉楼」

「はい」

「さっき、アタシ変わったって言ったでしょ?」

「はい」

「どこが?」

玉楼は少し考えた。

「以前より、ご自分で選ばれるようになったと思います」

「前から勝手に突っ込んでたけど?」

「それは選択というより、勢いでございます」

「ひどくない!?」

「事実でございます」

容赦ない。

だけど、玉楼は続けた。

「今は、誰かに支えられていても、ご自分で進む先をお決めになります。昨夜のことも、今朝のお見送りも、選んだのは三娘様でございます」

言葉が出なかった。

昨日、自分に言い聞かせていたことを、そのまま見抜かれた気がした。

今朝だって、行かないでと縋る代わりに、帰ってきてと言って送り出したのはアタシだ。

「……玉楼」

「はい」

「ありがとう」

「恐れ入ります」

「そこは普通に受け取ってよ」

玉楼がほんの少し困った顔をした。

「……ありがとうございます」

「なんか違う!」

その返事がおかしくて、少し笑った。

今度はそのまま眠気が落ちてくる。

深く眠れた訳ではない。

それでも身体は少しずつ沈み、次に目を開けた時には、帷幕から差す光が朝より明るくなっていた。

玉楼は、まだ同じ場所にいる。

「寝てないでしょ?」

「少しは休みました」

「怪しい」

起き上がり、床へ足を下ろす。

さっきより楽になった気がした。

けれど、立って一歩踏み出した途端、脚を開く動きに合わせて昨夜の名残がひりついた。

「……痛っ」

自然と歩幅が狭くなる。

玉楼がすぐ隣へ来た。

「お支えいたします」

「歩ける」

「歩けることと、痛くないことは別でございます」

「二娘と同じこと言わないで!」

もう一歩、今度は慎重に足を出してみたが、それでも痛んだ。

傷口を庇う時とは違う。

脚を開くたび、身体の中心から昨夜を思い出させられる。

恥ずかしくて仕方がない。

しかも、嫌だったから痛い訳じゃないのが一番困る。

玉楼が黙って歩幅を落とした。

「……何も言わないの?」

「申し上げてよろしいのでございますか?」

「やっぱり言わなくていい!」

朝から何回この会話してるのよ!

それでも幕舎の外へ出る。

日差しはもう朝より強く、兵達の動きも増えていた。

「どちらへ行かれますか?」

「林冲のところ」

「今からでございますか?」

「少し寝たし、歩けるから」

玉楼は一瞬だけアタシの足元を見た。

「その顔やめて」

「何も申し上げておりません」

「言ってるのと同じ!」

それでも止めなかった。

ただ半歩横につき、アタシが前へ進めるように、必要な時だけ腕を支えてくれる。

林冲の幕舎へ着く頃には、歩幅の狭さにも少し慣れていた。

中には林冲と朱武がいる。

卓には地図が広げられていた。

林冲がこちらを見る。

「起きたか」

「はい」

「無理はするな」

今日、何回言われるんだろう。

「李俊と柴進は?」

林冲は地図へ視線を戻した。

「まだ報はない」

胸がざわつく。

だが、朱武は落ち着いていた。

「潜入では、報がない方が良い時もございます。騒ぎが起きれば、失敗の知らせの方が先に届きましょう」

「それ、慰めになってない」

「慰めではありません。事実です」

「もっと嫌!」

朱武がわずかに笑う。

林冲は地図の一点を指した。

「清渓県へ入り込むには時間が要る。こちらが急いても仕方がない」

「分かってます」

「顔は分かっていない」

痛いところを突かれた。

アタシが黙ると、林冲は言った。

「今日は前へ出なくていい」

「でも――」

「命令だ」

逃げ道が消えた。

「玉楼」

「はい」

「見ていろ」

「承知いたしました」

裏切られた!

林冲はそんなアタシを無視して続ける。

「身体を休めろ。お前が使い物にならなくなれば、李俊が戻った時に困る」

卑怯だ。

そんな言い方をされたら、逆らえる訳がない。

「……分かりました」

林冲が頷いた。

「待つのも戦だ」

一番苦手なやつだと思った。

幕舎を出ると、玉楼がいつもの半歩横につく。

「待つのも戦、か」

「はい」

「苦手」

「存じております」

「そこは否定してよ」

「事実でございますので」

本当に容赦がない。

でも、少しだけ気が楽になった。

李俊は見えない場所にいる。

だからといって、アタシまで何もできない訳じゃない。

身体を戻し、呼ばれた時に前へ出られるようにしておく。

それが今の仕事なら、嫌でもやるしかない。

幕舎へ戻る途中、風が吹いた。

朝の冷たさはもうなく、少し乾いた風が頬を撫でていく。

清渓県へ向かう道は、ここからは見えない。

それでも、その先に李俊がいる。

アタシは見えない道の方へ顔を向けた。

帰ってきて。

声には出さなかった。

出したら、また泣きそうだった。

痛みはまだ残っているし、昨夜の記憶だって消えていない。

それでも、アタシには待つ理由がある。

だから、待つ――

見えない道の先から、李俊が戻ってくるまで。

「林冲殿に、三娘様を見ていろと命じられました」

そう申し上げると、孫二娘殿が笑いました。

「ついに玉楼、三娘ォの監視役になったねェ」

「護衛でございます」

顧大嫂殿が腕を組みます。

「似たようなもんだろ。目を離したら勝手に出ていくんだから」

「三娘様を猛獣のように仰らないでくださいませ」

「違うのォ?」

「違います」

その時、奥で衣擦れの音がしました。

「玉楼〜、ちょっと外の様子見てくるわ〜」

わたくしは立ち上がります。

孫二娘殿が肩を揺らしました。

「条件づけ、早かったねェ」

「心理学の問題ではございません」

顧大嫂殿が笑います。

「ほら、猛獣が檻を開けようとしてるよ」

……林冲殿のご命令は、たいへん正しかったようでございます。

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