帰ってきて
「二娘。人って、一晩でそんなに顔に出るもの?」
孫二娘がアタシをじっと見た。
「内容によるねェ」
「その答え嫌なんだけど!」
顧大嫂が腕を組む。
「少なくとも、お前さんは分かりやすいねぇ」
「何が!?」
「昨日までと李俊を見る目が違うんだよ」
「見ただけで判定するな!」
二娘が楽しそうに笑った。
「非言語情報って大きいんだよォ。人を見る時って、口で言ってること以外も結構出るからねェ」
「分析を始めるな!」
「じゃあ聞くけど、三娘ォ。李俊を止めたい?」
言葉に詰まった。
昨日なら、たぶん「行かないで」と答えた。
顧大嫂が笑う。
「答えは決まったみたいだね」
「……帰ってきて、って言う」
二娘が、そこで笑うのをやめた。
「なら、ちゃんと見送ってきなァ」
その時はまだ、見送りに行く前から別の意味で弄られるとは思っていなかった……
夜明けは、来てしまった。
来なくていいと思っても、空は勝手に白む。
帷幕の向こうが薄青くなり始め、遠くで馬のいななきが聞こえた。
夜番と朝番が入れ替わる声もする。
杭州を落としたばかりだというのに、軍はもう次の戦へ向けて動き始めていた。
戦は、こっちの都合なんて待ってくれない。
分かっているからこそ、余計に腹が立つ。
「……朝になっちゃった」
寝台の上で呟くと、隣にいた李俊が目を開けた。
寝ていた訳じゃない。
たぶんアタシも李俊も、ほとんど眠っていない。
昨夜、何度「もう少しだけ」と思ったのか覚えていないし、途中で何度水を飲んだのかも分からない。
ただ、すぐ隣にあった李俊の体温だけは、まだ肌に残っている。
「朝だな」
「見れば分かるわ」
「なら言うな」
「言いたくもなるわよ」
李俊が起き上がる。
その瞬間、本当に行ってしまうのだと分かった。
昨夜は「もう少しだけ」と言いながら、夜が終わるのをずっと先延ばしにできたのに、朝になればそれも終わる。
李俊は寝台の脇に置いていた衣を取った。
アタシも起き上がろうとして、身体の奥に残っていた鈍い痛みに思わず顔をしかめる。
「っ……」
李俊の手が止まった。
「痛むか?」
「……ちょっと」
「寝てろ」
「嫌よ」
「三娘」
「着替えるんでしょ?手伝うわよ」
「その格好でか?」
そこで初めて、自分が何も身につけていないことを思い出した。
いや、忘れていた訳じゃない。
ただ、昨夜からずっと李俊がいたから、今さら隠す方が妙な気がしていただけだ。
でも、朝の光の中で改めて指摘されると話は違った。
「……何よ?」
「いや」
「何か言いたそうじゃない」
「言ってねぇ」
「顔が言ってる!」
「昨日の夜は平気だっただろ?」
「夜と朝は違うの!」
何が違うのか、自分でも分からない。
李俊が笑いを堪えるように口元を曲げたので、腹が立ってその背中を叩いた。
「早く着なさいよ!」
「手伝うんじゃなかったのか?」
「手伝うわよ!」
完全に自分で墓穴を掘っている。
アタシは李俊の衣を取り、袖を通すのを手伝った。
帯を回して、結び目を整える。
戦場では何度も鎧を直したし、仲間の具足だって締めてきた。
それなのに、今は指先が妙に落ち着かない。
昨夜触れた胸や、掴んだ肩を思い出すたび、帯を結んでいるだけなのに顔が熱くなる。
「三娘」
「何よ?」
「締めすぎだ」
「……ごめん」
少し緩めていると、李俊がアタシの顔を見つめていた。
目が合うと、今までなら何か言って誤魔化したはずなのに、今日は逃げられなかった。
昨日まで知っていたはずの李俊なのに、昨夜を越えただけで、今までとは比べものにならないほど近くなってしまった。
困る……
これから敵の中へ行く男を、こんなに好きになってどうするのよ?
李俊が帯を確かめた。
「行く」
分かっていた言葉なのに、胸が縮む。
「……うん」
「柴進殿を待たせる訳にもいかねぇ」
「分かってる」
李俊が二歩、三歩と帷幕へ近づくたび、手の届かないところへ行ってしまう気がした。
「李俊」
呼ぶと、振り返った。
何を言うか考えていなかった。
昨夜はあれだけ言ったのに、朝になるとまた足りなくなる。
李俊が戻ってくる。
それだけでもう駄目で、アタシから腕を伸ばすと、李俊も何も聞かずに抱き締めてくれた。
昨夜みたいな抱き方じゃない。
ただ、離したくないという力だけが伝わった。
胸に耳を当てる。
聞こえる。
生きている音。
昨夜、覚えておこうと思った音だ。
「帰ってきて」
「ああ」
「約束したからね?」
「覚えてる」
顔を上げると、李俊の手が頬に触れた。
今度は聞かなかった。
聞く必要がないことを、もう互いに知っていた。
唇が重なる。
長くはなかった。
でも、離れたあとも李俊の額がアタシの額に触れたままだった。
「迎えに来る」
「……待ってる」
李俊が腕を解く。
今度こそ、帷幕へ向かう。
出る寸前で一度振り返った。
「少し休め」
「李俊もね」
「これから敵地だぞ」
「だから言ってるの!」
「無茶言うな」
「そっちが先に言ったんでしょ!」
李俊は笑いながら、出ていった。
帷幕が下りると、さっきまで二人でいたからか、あり得ないくらい幕舎が広く感じる。
アタシは寝台へ戻って腰を下ろし、しばらく入口を見ていた。
すると――
「失礼いたします」
玉楼が入ってきた。
早い。
いや、早すぎる。
「……玉楼」
「はい」
「いつから外にいたの?」
「少々前からでございます」
少々とはいつからなのか、どこまで聞かれていたのか、怖くて確かめられない。
玉楼は何事もなかったように衣装箱を開け、下衣から上衣、帯、外套まで、着る順に黙々と並べていく。
その間も、こっちが落ち着かなくなるほど何も言わない。
「……玉楼」
「はい」
「何か言えば?」
「何を申し上げればよろしいのでしょう」
「知らないけど!」
「では、申し上げません」
なんで!?
いつもなら一言くらい刺してくるくせに!
玉楼は平然と衣を整えている。
アタシはまだ裸だ。
その事実が急に耐えられなくなり、寝具を引き上げて胸元まで隠した。
玉楼はこちらを見たが、何も言わない。
その沈黙がむしろ怖い。
「……見た?」
「何をでございますか?」
「だから、その……」
「三娘様」
「何?」
「お召し物を」
いきなり、目の前に差し出された。
逃げた。
絶対逃げた。
「玉楼、分かってるでしょ」
「何がでございましょう」
「李俊が朝までいたこと!」
「存じております」
即答だった。
「じゃあ何で何も言わないのよ!」
玉楼が初めて少し首を傾げた。
「申し上げてよろしいのでございますか?」
「……やっぱり言わなくていい」
「承知いたしました」
負けた気がする。
何に負けたのかは分からない。
アタシは寝具の中で下衣を身につけようとして、身体をひねった瞬間に止まった。
「っ……」
玉楼がすぐ横に来る。
「お手伝いいたします」
「大丈夫」
「先ほども同じことを仰ったのでございましょうか?」
「何で知ってるの!?」
「存じません」
「絶対聞いてた!」
玉楼は答えず、淡々と着替えを手伝った。
立ち上がる時だけ腕を貸してもらう。
足を床につけると、やっぱり少し身体の奥が重い。
顧大嫂の顔が頭をよぎった。
――明日の朝ちゃんと立てるといいねぇ。
「……あの女」
「顧大嫂殿でございますか?」
「何で分かるのよ!」
「昨夜、何か仰っておられましたので」
全部つながってるじゃない!
ようやく着替えが終わり、外へ出る。
柴進と李俊の出立まで、もう時間がない。
玉楼はアタシの半歩横を歩いた。
前へ出すぎず、それでも身体が揺れればすぐ支えられる位置。
いつもの玉楼だった。
アタシが前を見るなら、その横と後ろを見て、必要な時だけ手を出す。
何も聞かないのも、きっと同じなのだろう。
出立場所へ着く前に、孫二娘と顧大嫂が待ち構えていた。
嫌な予感しかしない……
孫二娘がアタシを見るなり、目を細めた。
「おはよう、三娘ォ。睡眠時間はァ?」
「聞くな」
「臨床的には重要なんだけどねェ?」
「今の二娘から臨床という言葉を聞くと全部怪しい!」
顧大嫂がアタシの歩き方を見る。
「ああ」
「ああ、って何!?」
「いや、立ってるなと思って」
「立ってるわよ!!」
孫二娘が口元を押さえた。
「予後良好だねェ?」
「診断するな!」
玉楼が横を向いた。
「玉楼まで笑ってるでしょ!」
「笑っておりません」
絶対に笑っている。
ただ、孫二娘はそこから踏み込んでこなかった。
アタシの顔を少し見て、それだけで察したらしい。
「行くんだねェ」
「うん」
声を出すと、さっきまでの馬鹿騒ぎが急に遠くなった。
前方には、旅装を整えた柴進がいる。
すでに梁山泊の頭領とは違う顔で、今日からは柯引として敵の内側へ入る。
その少し横には李俊がいて、さっきアタシが着せた衣を身につけ、帯も結んだままだった。
それを見ただけで胸が変な音を立てた。
「……アタシが結んだ帯だ」
「三娘ォ、今なんか言ったァ?」
「何も言ってない!」
孫二娘がにやりとする。
もう嫌……
李俊がこちらに気づいた。
視線が一度だけアタシの足元へ落ち、それから玉楼の腕へ移る。
その視線だけで、気づかれたと分かった。
顔が熱くなる。
でも、李俊は笑わなかった。
アタシの前まで来ると、ただ言った。
「来たのか?」
「当たり前でしょ」
「無理するな」
「見送るくらいできるわよ」
玉楼は何も言わない。
その沈黙が今度は敵に回った。
「玉楼、何か言って」
「三娘様は、見送ると決めておられます」
それだけだった。
李俊が頷く。
「なら、立っててくれ」
「それだけ?」
「それだけでいい」
強がれとも、笑えとも言わない。
だから、アタシも無理に笑わなかった。
柴進がこちらを見る。
「李俊殿」
「ああ」
時間だ。
李俊がアタシを見る。
人がいるから、昨夜みたいに触れることはできない。
でも、もう触れなくても分かる。
昨夜は「行かないで」と言った。
今だって、本当ならここにいてほしい。
でも、今朝はその言葉を飲み込んだ。
「帰ってきて」
李俊は迷わず頷いた。
「ああ、待ってろ」
「待ってる」
「迎えに来る」
胸が痛くなるくらい嬉しいのに、同じくらい怖い。
それでもアタシは立っていた。
柴進と李俊が歩き出す。
派手な出陣ではなく、軍旗も歓声もない。
敵中へ潜る者を送るなら、その方がいい。
李俊が一度だけ振り返った。
目が合う。
アタシは手を振らなかった。
泣かなかった。
ただ、見た。
見えなくなるまで。
李俊と柴進の姿が朝の人波へ紛れ、やがて完全に消えた。
「……行っちゃったわ……」
玉楼が隣で答える。
「はい」
「帰ってくるよね」
「李俊殿は、戻るための道を見る方です」
昨日と同じ答えだった。
今は、その意味が少し違って聞こえる。
孫二娘が後ろから肩を軽く叩いた。
「三娘ォ」
「何?」
「見送れたねェ」
「……うん」
顧大嫂が大きく息を吐く。
「なら帰るよ。飯食って寝な」
「寝られるかな」
「横になってりゃ、そのうち寝るさ」
「二娘は何かないの?」
「アタイ?」
孫二娘が妖艶に笑った。
「睡眠不足と運動過多には休養が一番だよォ」
「最後に余計なこと言うな!!」
顧大嫂が笑い、玉楼まで顔を逸らした。
朝なのに、もう疲れた。
アタシはもう一度、李俊が消えた方を見る。
清渓県へ向かう道は、朝の光の向こうへ伸びている。
ここから先は見えず、敵の中で何が起きるのかも分からない。
でも、何も言えないまま送り出した訳じゃない。
昨夜も今朝も、ちゃんと言えた。
帰ってきて、と……
胸の奥には、まだ李俊の鼓動が残っている。
生きている音。
それを忘れない。
アタシは玉楼の腕を借り、幕舎へ戻り始めた。
夜は終わった。
でも、約束はまだ終わっていない――
「三娘ォは?」
孫二娘殿に尋ねられ、わたくしは湯を卓へ置きました。
「ようやく、横になられました」
顧大嫂殿が笑います。
「そりゃ寝るだろうよ。昨夜は――」
「顧大嫂殿」
「何だい?」
「続きを仰いましたら、三娘様にお伝えいたします」
「玉楼、脅すようになったねぇ」
孫二娘殿が肩を揺らしました。
「適応学習だねェ」
「お二人への対処を覚えただけでございます」
「で、玉楼は昨夜どこまで聞いたのォ?」
「何も聞いておりません」
「即答が怪しいねェ」
「聞いておりません」
「二回言ったよォ」
心理学とは、たいへん面倒な学問でございます。
その時、奥から三娘様の声がしました。
「玉楼ぉ……痛いぃ……」
三人で顔を見合わせました。
……どうやら、まだ眠れてはいないようでございます。




