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約束だけじゃ足りない

「二娘、言わなきゃ後悔することって、言えば済むの?」

孫二娘が、ものすごく嫌な笑い方をした。

「言葉だけで済むならねェ」

「その含み何!?」

顧大嫂が鍋をかき混ぜながら言う。

「まあ、今夜は長そうだね」

「何で時間の話になるのよ!」

「知らないよ。李俊が来るんだろ?」

「来るけど!」

二娘が指を折り始めた。

「告白、意思確認、接触、距離の縮小――」

「心理学のふりして順番を数えるな!」

「まだ健全な範囲だよォ?」

「“まだ”って言った!」

顧大嫂が吹き出す。

「三娘、明日の朝ちゃんと立てるといいねぇ」

「何で立てなくなるの!?」

二娘と顧大嫂が同時に目を逸らした。

「こっち見なさいよ!!」

その時のアタシは、まだ知らなかった。

翌朝、その発言に本気で腹を立てることになるなんて……

一人になると、幕舎の音が変わった。

さっきまで玉楼がいた場所に、誰もいない。

それだけで、布一枚の内側が妙に広く感じる。

卓の上の湯はもう冷めていて、灯りだけが小さく揺れていた。

外では兵達の声が遠く流れている。

勝った日の夜なのに、誰も大きく笑っていない。

杭州城は落ちた。

でも、清渓県がある。

方臘がいる。

そして李俊は、明朝には柴進と一緒に敵の中へ潜る。

敵中へ――

その言葉が胸の奥に引っかかったまま、どうしても離れなかった。

戦場なら、まだ見える。

槍も刀も、飛んでくる矢も、敵の馬も見える。

見えれば動けるし、前へ出過ぎれば玉楼が止める。

林冲の声が飛び、後ろには二娘と顧大嫂がいる。

でも、敵の中では違う。

姿も見えず、声も届かず、助けに行こうと思った時には何もかも終わっているかもしれない。

アタシは膝の上で指を組んだ。

「全てが終わったら、呼びに来てよ」

自分で言った言葉が、何度も頭を駆け巡る。

李俊も覚えているはず……

あの人なら軽く流したりしない。

でも、その前に死なれたらどうすればいいの。

喉の奥が詰まった、その時だった。

幕の外で足音が止まる。

「三娘」

李俊の声だった。

「……入って」

思ったより掠れた声が出た。

帷幕が上がり、冷たい夜気と一緒に李俊が入ってくる。

鎧は外していたが、まだ戦の匂いが残っていた。

水と泥、煤と乾ききらない血の匂い。

その中に、いつもの李俊の気配がある。

「玉楼は?」

「二娘のところ」

「そうか」

それだけで何となく察したような顔をするから、急に顔が熱くなった。

「何よ?」

「何も言ってねぇ」

「その顔が何か言ってる」

「難しいな」

「誰のせいよ?」

ようやく少しだけ、いつもの調子に戻れた。

「座る?」

「いいのか?」

「呼んだのはアタシでしょ」

「そうだったな」

李俊は卓の向こうではなく、少し近い場所に腰を下ろした。

近すぎず、遠すぎない。

アタシが嫌なら逃げられる距離を残している。

そういうところが、ずるい。

しばらく、どちらも何も言わなかった。

言わなければ後悔することを。

玉楼はそう言った。

でも、本人を前にすると、何から言えばいいのか分からなくなる。

李俊は急かさず、ただ待っていた。

「清渓県へ行くのね……」

「ああ」

「柴進と」

「ああ」

「敵の中へ」

「そうなる」

短い返事ばかりなのに、誤魔化しはしない。

「怖くないの?」

「怖くねぇと言えば嘘だな」

思わず李俊を見る。

「珍しい」

「お前に嘘ついても仕方ねぇだろ?」

その言い方が妙に嬉しくて、同時に腹が立った。

「じゃあ、行かないで」

口から出た瞬間、自分でも驚いた。

李俊は動かなかった。

責めもしない。

「違う。違わないけど、違う。言っちゃいけないのは分かってる」

「分かってる」

「止められないのも、作戦なのも、李俊が必要なのも分かってる。でも、分かってるから平気って訳じゃないのよ」

言葉が勝手に溢れてくる。

「戻ってくるって言って」

「戻る」

「約束して」

「約束する」

早い。

迷いもない。

なのに、まだ足りなかった。

「……約束だけじゃ、足りないわ」

李俊の目が少し変わった。

「三娘?」

「全てが終わったら、呼びに来てって言った」

「ああ」

「でも、全てが終わる前に会えなくなるかもしれないじゃない」

一番言いたくなかったことを、とうとう言ってしまった。

灯りが揺れた。

李俊はすぐに「そんなことはない」とは言わなかった。

「そのために戻る道を見る」

「それでも絶対じゃないわ」

「絶対じゃねぇ」

「そこは嘘でも絶対って言ってよ」

「嘘で安心させるのは嫌だ」

「嫌な男ね」

「よく言われる」

「誰に?」

「今、お前に」

張りつめていた息が少しだけ抜けた。

李俊が手を伸ばした。

けれど、頬に触れる直前で止める。

「触れていいか?」

その聞き方が、ずるい。

アタシは頷いた。

指先は最初だけ冷たかった。

頬に触れたまま、すぐに体温が移ってくる。

「顔が悪い」

「またそれ言う」

「泣きそうな顔をしてる」

「泣いてない」

「まだな」

「嫌な男」

「二回目だ」

指が離れない。

それだけで声が揺れそうになる。

「李俊」

「ん」

「アタシ、何を言えばいいか分からない」

「今、言ってる」

「足りないの」

「何が?」

「それも分からない」

生きて帰って、迎えに来てほしい。

本音では行ってほしくないし、それでも行くのなら、ちゃんと戻ってきてほしい。

欲しい言葉はいくらでもあるのに、どれだけ重ねても不安が消えない。

「なら、分からないままでいい」

「よくない」

「分からないままでも、俺をここに呼んだんだろ」

「……うん」

「なら、それでいい」

李俊の親指が頬を撫でた。

その優しさに、とうとう目を逸らせなくなる。

「今夜、来てほしかった」

「来た」

「帰ってきてほしい」

「帰る」

「それでも足りないって言ったら?」

「何が欲しい」

喉が詰まった。

言葉でも、約束でもなかった。

この人が今ここにいると、身体ごと覚えておきたかった。

「……置いていかないで」

李俊はしばらく黙ってから、手を頬から首筋へ滑らせた。

「置いていかねぇ」

「敵の中へ行くくせに」

「行って、戻る」

「戻れなかったら?」

「それでも戻る」

無茶苦茶なことを言っている。

なのに、その無茶苦茶を信じたくなった。

李俊が少し近づく。

「嫌なら止めるぞ」

「何を?」

「ここから先」

玉楼が出ていった意味が、その一言で急にはっきりした。

顔が熱い。

逃げたい。

でも、逃げたくない。

「……嫌じゃない」

李俊はまだ動かなかった。

「怖いか?」

「怖い」

「なら、やめるか?」

ほんの少しだけ考えて、首を振った。

「やめない」

「後悔するなよ?」

「それをしないために呼んだの」

李俊が、ようやく少し笑った。

「強いな」

「震えてるけど」

「震えてても決めたなら強い」

「そういう格好いいこと言うの、今やめて」

「何で?」

「余計に恥ずかしいから!」

李俊が声を立てずに笑う。

その笑いにつられて、アタシも少しだけ笑った。

次に触れたのは、髪だった。

指が髪を梳き、そのまま後ろへ回る。

アタシは目を閉じなかった。

ぎりぎりまで李俊を見ていた。

唇が重なる。

最初は短く、確かめるようだった。

離れた時、何を言えばいいか分からなかった。

だから今度は、アタシの方から少し近づいた。

李俊の目がわずかに見開かれる。

「何よ?」

「いや」

「何?」

「何でもねぇ」

「言いなさいよ」

「後でな」

もう一度、唇が重なった。

今度はさっきより長く、息を継ぐ場所まで分からなくなる。

外の声が遠ざかっていく。

李俊の腕が背中へ回り、抱き寄せられた。

衣越しなのに、触れている場所だけ熱い。

戦場では何度も身体を張った。

刀も矢も、潰れた人の身体も見た。

なのに、この腕の中にいる方がずっと怖い。

「三娘」

耳元で名前を呼ばれる。

「……何?」

「大丈夫か?」

「大丈夫じゃない」

李俊の動きが止まった。

「止まらないで」

「大丈夫じゃねぇんだろ?」

「そういう意味じゃない!」

「難しい女だな」

「今さら?」

また少し笑った。

その笑いが消える頃には、距離もほとんど残っていなかった。

衣の紐に指がかかった時も、李俊は一度止まった。

アタシが頷くまで動かない。

それが余計に恥ずかしくて、でも嬉しかった。

誰かに決められたんじゃない。

王英でも、宋江の采配でも、家同士の話でもない。

アタシが選ぶ。

この人を。

この夜を。

布が擦れる音が妙に大きく聞こえた。

肌に夜気が触れ、すぐに李俊の体温がそれを追いかける。

戦のあとに残っていた冷たさが、少しずつ消えていく。

初めて身体を重ねた時、怖さがなくなった訳じゃなかった。

息の仕方まで分からなくなり、思わず李俊の肩を掴む。

「痛いか?」

「……ちょっと」

「やめるか?」

「やめないで」

自分で言ってから、顔を覆いたくなった。

「今の忘れて」

「無理だな」

「忘れなさいよ!」

「大事なところだろ?」

「何がよ!」

「お前が自分で決めたところ」

「そういう意味で覚えるな!」

こんな時まで腹が立つ。

でも、そのおかげで少しだけ力が抜けた。

李俊は急がなかった。

何度もこちらを見て、呼吸が乱れれば待ち、手を握れば握り返す。

やがて怖さとは別の感覚が身体の奥に広がり始めた。

戦場では、生きているか死んでいるかしか考えない。

今は違った。

生きている身体が、こんなにも熱いものだと初めて知った。

どれくらい経ったのか分からない。

外の声はいつの間にか減っていた。

やっと息が落ち着いた頃、李俊の腕の中でぼんやり幕の影を見ていた。

「……もう終わり?」

口にしてから、意味に気づいた。

「違う! 今のなし!」

李俊がこちらを見る。

「お前、それ意味分かって言ってるか?」

「分かったから撤回してるの!」

「遅ぇ」

「忘れて!」

「無理だな」

「何でさっきから記憶力だけいいのよ!」

顔を隠そうとした手を掴まれ、そのまま指を絡められる。

「嫌なら寝ろ」

「……嫌じゃない」

「そうか」

「何、その余裕ある返事」

「別に」

「それアタシの台詞!」

言い返した次の瞬間、また唇を塞がれた。

二度目は、最初ほど怖くなかった。

恥ずかしさはむしろ増えているのに、今度は自分から李俊の衣を掴み、離れそうになる身体を引き寄せていた。

そこから先は、時間の感覚が曖昧になった。

一度離れて水を飲んだことも、李俊の胸に額をつけて笑ったことも、もう順番が曖昧だった。

名前を呼ばれた時には、返事の代わりに抱きついていた気がする。

何度、もう少しだけと思ったのか分からないし、何度、李俊の名前を呼んだのかも覚えていない。

灯りはとうに小さくなっていた。

外で誰かが薪を足す音がした頃には、それすら遠かった。

「三娘」

「……何?」

「少し休め」

「李俊こそ」

「俺は明朝出る」

「だから寝なさいよ」

「お前が離さねぇだろ」

「……それは」

「何だ」

「今だけだから」

李俊が何も言わなくなった。

その沈黙が嫌ではなかった。

腕に少し力が入り、額に唇が触れる。

「じゃあ、今だけだ」

「うん」

そう言ったくせに、どちらも眠らなかった。

夜は思っていたより短かった。

いや、短かったんじゃない。

二人でいるうちに、時間を忘れていただけだった。

ふと気づくと、帷幕の向こうがほんの少し白んでいた。

「……嘘」

李俊が目を開ける。

「何だ?」

「朝」

「みたいだな」

「全然寝てないんだけど」

「俺に言うな」

「半分はそっちのせいでしょ!」

「半分か?」

「……半分以上」

「正直だな」

「うるさい!」

怒鳴るほどの力は残っていなくて、結局アタシは李俊の胸に顔を押しつけた。

心臓の音が聞こえる。

昨日と同じ、生きている音だった。

「帰ってきて」

今度は迷わず言えた。

李俊の手が髪を撫でる。

「ああ」

短い返事だった。

でも、その短さが李俊らしかった。

夜はもう終わろうとしている。

もうすぐ、李俊は柴進と睦州方面へ向かい、その先の清渓県へ潜る。

アタシもまた戦場へ戻る。

それでも、もう何も言わなかった訳じゃない。

言わなければ後悔することは、確かに言えた。

そして、言葉にできなかった分も、この夜に残した――

孫二娘殿の幕舎で待っておりますと、いつの間にか外が白み始めておりました。

顧大嫂殿が入口を見ます。

「玉楼、まだ呼ばれないのかい?」

「はい」

孫二娘殿が楽しそうに首を傾げました。

「忘れられてるんじゃないのォ?」

「その可能性は考えないことにしております」

「回避型コーピングだねェ」

「心理学で現実を突きつけないでくださいませ」

顧大嫂殿が立ち上がりました。

「じゃあ、そろそろ迎えに行くかい?」

わたくしは袖を掴みました。

「お待ちくださいませ」

「何だい?」

「今、三娘様の幕舎を開ける勇気は、わたくしにはございません」

孫二娘殿が吹き出しました。

「玉楼でも怖いものあるんだねェ?」

ございますとも。

そして間もなく、李俊殿は出立なさるのでございます。

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