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言わなければ後悔すること

「言わなかったことって、あとから残るのよね」

アタシが呟くと、二娘がすぐ食いついた。

「後悔回避だねェ。人は『やった後悔』より『やらなかった後悔』を長く引きずることがあるよォ」

「今それ聞きたくなかった!」

顧大嫂が腕を組む。

「じゃあ、言えばいいじゃないか」

「簡単に言うな!」

「何を言うか決まってないのォ?」

「決まってない!」

「誰に言うかは?」

「……決まってる」

二娘と顧大嫂が同時にこっちを見た。

「何よ、その顔!」

「別にィ」

「何も言ってないよ」

「二人とも絶対分かってるでしょ!」

――その直後、軍議で李俊の名が呼ばれた。

杭州城は落ちた。

でも、軍議の空気は軽くならなかった。

方天定は討たれ、東門も開き、城内の混乱も少しずつ収まり始めている。

それでも、幕舎の中に笑う者はいなかった。

卓の上には地図が広げられている。

杭州からさらに南へ進めば睦州へ続き、その奥には方臘の本拠である清渓県があった。

朱武が、その道筋を指でなぞった。

「杭州は落ちました。ですが、方臘はまだ残っております」

誰も口を挟まない。

「このまま軍を進めれば、敵は睦州から清渓へ退いていくでしょう。奥へ逃げた兵までまとめて固められれば、また城を一つずつ崩すことになります」

朱武の声は静かだったが、言っていることは軽くない。

杭州だけでも、何人死んだ。

それをもう一度やることになる。

「そこで、先に中へ入ります」

中へ――

その言葉が、妙に嫌だった。

ついさっきまで、杭州城内へ入った張横達のことを考えていたからかもしれない。

姿の見えない場所に味方がいて、戻れるのかどうかも分からない感覚が、まだ身体のどこかに残っている。

朱武は続けた。

「柴進殿には、名を変えていただきます。柯引と名乗ってください。方臘側の者として怪しまれぬよう振る舞い、まず睦州方面へ入っていただきます」

柴進が静かに頷いた。

「承知した」

返事があまりにも落ち着いていて、逆に怖い。

朱武の指が、今度は地図に描かれた水路へ移った。

「李俊殿には、舟と水路の手配をお願いいたします。杭州が落ちたばかりの今なら、清渓へ逃れる兵だけではなく、荷を運ぶ者や商人も入り乱れております。その流れを使います」

李俊は腕を組んだまま地図を見ていた。

「つまり、潜るってことか?」

「はい、柴進殿と李俊殿には先に睦州方面へ入り、そこから清渓県へ近づいていただきます。方臘側の兵の動き、守り、兵糧の置き場、逃げ道まで探れれば、後から入る軍も動きやすくなるでしょう」

朱武は二人を見る。

「可能ならば、内側から崩していただきます」

幕舎の空気が重くなった。

正面から斬り合うより楽な仕事ではなく、むしろ見えない場所へ行く分だけ厄介だった。

正体が露見しても、こちらからすぐ助けに行けるとは限らない。

アタシは李俊を見た。

あの人は顔色ひとつ変えず、川の流れでも読むみたいに地図を見ている。

「俺は構わねぇ」

早かった。

「舟は用意する。杭州へ入る時に使った水路も、まだ全部は塞がれてねぇ。城が落ちた直後なら、人の流れも定まってない。今なら使える」

「助かります」

朱武が頭を下げる。

柴進も李俊へ目を向けた。

「では、共に参ろう」

「こちらこそ」

二人の間で、もう話が決まっていく。

アタシは何も言えなかった。

止める理由がないし、止められる立場でもない。

作戦として必要なのも、李俊が適任なのも分かっている。

分かっているから、余計に息が詰まった。

「出立は?」

盧俊義が聞く。

朱武は地図から顔を上げた。

「早いほどよろしいかと。杭州陥落直後の混乱が残っているうちに、先へ入っておきたいところです」

「明朝か?」

「準備が整えば」

明朝――

その二文字だけが頭に残った。

李俊が明朝、柴進と一緒に睦州方面へ潜る。

そこから先は、清渓県だ。

戻るつもりで行くのは分かっている。

それでも、戻れる保証までついてくる訳じゃない。

あの人は水の上では強い。

舟を見て、流れを見て、戻る道まで考える。

けれど、敵の懐へ入れば話は違う。

水の上なら届く手も、陸の奥では届かないかもしれなかった。

「三娘様」

玉楼が小さく呼んだ。

「……何」

「お顔の色が」

「悪い?」

「はい」

そこは少しくらい濁してくれてもいいのに、玉楼は正直だった。

アタシは唇を結ぶ。

李俊がこちらを見た。

目が合ったのは、ほんの一瞬だった。

何か言わなきゃいけない。

そう思うのに、軍議の場で言えることなんてない。

行かないで、なんて言えるはずがない。

死なないで、と口にしたら、それだけで何かが壊れそうだった。

前に交わした約束だけが、胸の中で妙に引っかかっている。

全てが終わったら、呼びに来てよ。

そう言ったのはアタシだ。

なのに、全てが終わる前に会えなくなるかもしれない。

そう考えた瞬間、呼吸が浅くなった。

軍議は続いている。

出立までに何を持たせ、どう連絡を取り、追手が出た時にはどこへ逃がすか。

睦州で離れた場合の合流場所や、戻れない時の合図まで決めておかなければならない。

どれも必要な話だった。

なのに、アタシの耳には「戻れない時」ばかりが残った。

やがて軍議が終わり、頭領達がそれぞれ幕舎を出ていく。

柴進は朱武と、まだ地図を見ながら話していた。

李俊はそこから目を離し、外へ向かう。

アタシは、その背中を見た。

今言わなければ、言えなくなる。

「李俊」

声が出た。自分でも驚くほど固かった。

李俊が振り返る。

「何だ?」

周りにはまだ人がいる。

盧俊義も林冲も孫立もいて、玉楼もすぐ隣だ。

それでも、言うしかなかった。

「あとで、アタシの幕舎に来て」

幕舎の中が、一瞬だけ静かになった気がした。

気のせいであってほしい。

林冲は何も言わない。

盧俊義も言わない。

孫立も、たぶん聞いていないふりをしている。

その無言が一番つらい。

李俊は少しだけ目を細めた。

からかう顔ではなかった。

「分かった」

それだけだった。

何のために、とは聞かない。

余計なことを言わない人で、本当に助かった。

アタシはそれ以上何も言わず、幕舎を出た。

外の空気は冷たく、杭州城の方にはまだ薄く煙が残っている。

勝った城で、落ちた城で、まだ戻っていない人もいる城だ。

その向こうへ、今度は李俊が行く。

睦州へ入り、さらに清渓へ近づく。

アタシ達の軍より先に。

足元が頼りなくなり、玉楼がすぐ横についた。

「三娘様」

「分かってる」

「まだ何も」

「今日は、だいたい分かる」

玉楼は何も言わなかった。

自分の幕舎へ戻るまで、二人とも黙って歩いた。

中に入ると、卓の上には湯が置かれていた。

顧大嫂が回してくれたものだと思うが、もう少し冷めている。

座った途端、身体から力が抜けた。

玉楼は入口の近くに立っていた。

「……聞いた?」

「はい」

「どこから?」

「李俊殿をお呼びになったところから、という意味でございましょうか?」

「そこだけ切り取らないで」

「軍議も聞いております」

「それはそうだけど?」

アタシは額を押さえた。

「変だった?」

「何がでございますか?」

「あとで幕舎に来て、って」

玉楼は少し考えた。

「変ではございません」

「本当に?」

「はい」

「でも、周りに人いたわよ?」

「おられました」

「変じゃない?」

「多少は」

「言ったじゃない!」

玉楼がほんの少しだけ目を伏せた。

笑ったのかもしれないが、相変わらず分かりにくい。

「ですが、必要だったのでしょう?」

返事はできなかった。

必要だった。

たぶん……。

言わなければ後悔すると思ったから、行ってしまう前に話をしておきたかった。

ただ、何をどこまで話すのか、自分でも決められていない。

怖くて、恥ずかしくて、それでも会いたい。

止められないことは分かっているのに、本音では止めたくて、帰ってきてほしいと願うほど、帰ってこないかもしれない怖さまで大きくなる。

全部まとめて、手に負えなかった。

「玉楼」

「はい」

「李俊、帰ってくると思う?」

玉楼はすぐには答えなかった。

その間が嫌だった。

「……そこは、すぐ帰ってくるって言ってよ」

「軽く申し上げることではございません」

「そうだけど……」

「李俊殿は、戻るための道を見る方です」

玉楼はまっすぐ言った。

「だから、私は戻られると思っております」

少しだけ楽になった。

でも、全部じゃない。

「でも、絶対じゃないじゃない」

「はい」

「嫌な言い方」

「嘘は申し上げません」

玉楼らしかった。

優しいのに、都合のいいことだけは言わない。

アタシは椀を手に取って、冷めた湯を少し飲んだ。

「アタシ、何を話せばいいと思う?」

「李俊殿と、でございますか?」

「うん」

玉楼は少しだけ視線を外した。

「私が決めることではございません」

「冷たい」

「大事なことですので」

「じゃあ、助言くらい」

「三娘様が、今言わなければ後悔することを」

言わなければ後悔すること。

生きて帰って、あの約束を忘れないでほしい。

本音を言えば行ってほしくないし、それでも行くのなら、ちゃんと戻ってきてほしい。

言いたいことはいくらでもあるのに、本人を前にして全部言える気はしなかった。

アタシが黙り込むと、外で風が鳴り、帷幕がわずかに揺れた。

玉楼がゆっくり入口へ向かう。

「どこ行くの」

「孫二娘殿の幕舎へ」

「今?」

「はい」

「何で?」

玉楼は振り返った。

「少し、用がございます」

「用って何?」

「ございます」

「その言い方、絶対ないやつでしょ」

「必要な用でございます」

完全に逃げている。

アタシが黙って見ていると、玉楼も目を逸らさない。

先に根負けしたのはアタシだった。

「……気を使ってる?」

「はい」

即答だった。

「そこは誤魔化してよ!」

「誤魔化す必要がございません」

顔が一気に熱くなる。

「別に、そういうのじゃ……」

そこまで言って止まった。

そういうのじゃない。

本当に?

自分に聞いても答えが返ってこない。

玉楼は静かに頭を下げた。

「三娘様」

「何?」

「ご自身で、お決めください。私は少し席を外します」

「……どれくらい?」

「孫二娘殿と顧大嫂殿が、何か食べさせてくださるくらいには」

「長いじゃない」

「短くはございません」

「玉楼」

「はい」

「怒ってない?」

「何をでございますか?」

「分からないけど」

「怒っておりません」

少し間を置いて、玉楼は続けた。

「ただ、三娘様が後悔されないようにと思っております」

それだけ言って、帷幕へ手をかける。

外の冷たい空気が入り込んだ。

「玉楼」

呼ぶと、彼女は振り返る。

「ありがとう」

玉楼はほんの少しだけ頷いた。

「ご武運を」

「戦じゃないでしょ」

「似たようなものでございます」

「何と戦わせる気よ!」

「存じません」

「そこで逃げるな!」

玉楼は答えず、今度こそ外へ出ていった。

幕が下りる。

一人になった途端、さっきまで二人でいた幕舎が妙に広く感じられた。

卓の上には冷めた湯があり、灯りが揺れている。

外から兵達の声が聞こえ、遠くで水軍の銅鑼が鳴った気がした。

李俊は、あとで来る。

明朝、睦州方面へ向かう前に。

柴進と一緒に、敵の中へ潜る前に。

そこから先には、清渓県がある。

二度と会えないかもしれないと思うと、喉の奥が痛くなった。

アタシは膝の上で手を握った。

何を言えばいいのか、まだ分からない。

でも、言わなければ後悔することだけは、確かにあった。

孫二娘殿の幕舎へ参りますと、顧大嫂殿が鍋を覗いておりました。

「おや、玉楼。三娘は?」

「少し席を外してまいりました」

孫二娘殿が、わたくしの後ろを見ます。

「一人でェ?」

「はい」

「李俊はァ?」

「存じません」

顧大嫂殿が吹き出しました。

「その顔で知らないは無理があるよ」

「私は何も存じません」

「玉楼まで回避行動を覚えたねェ」

「心理学で追及なさらないでくださいませ」

孫二娘殿は楽しそうに笑いました。

「で、いつ戻るのォ?」

「三娘様がお呼びになるまで」

「そりゃ今夜は長いねぇ……下手すりゃ朝だよ」

……顧大嫂殿。

それは、わたくしも考えないようにしていたのでございます。

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