前だけじゃ足りない
「前だけ見て突っ込むなって言われたけど、前見ないと進めなくない?」
アタシが言うと、二娘が頷いた。
「そうだねェ。だから周辺視野も使うのォ」
「急に教習所みたいになるな!」
顧大嫂が笑う。
「前も横も後ろも見ろってことだろ?」
「簡単に言うけど、目は二つしかないのよ!」
「三娘ォ、注意の配分は目の数じゃないよォ」
「正論で殴るな!」
顧大嫂が東門を指した。
「じゃあ、とりあえず前を見な」
「結局前じゃない!」
「前を見ないとは誰も言ってないよォ」
「ややこしい!」
そう言い返した時だった。
――東門の奥から、鉄の軋む音がした。
東門は、まだ通れなかった。
外門は破れているが、その奥の甕城には鉄格子が落ちたままだ。
そして鉄の向こうには、劉唐の赤い髪がまだ見えている。
兵達は正面から見ないようにしていた。
でも、誰も見ていない訳じゃない。
林冲は東門の城壁上を抑え続けさせ、弩兵が矢を放つ間に盾兵を前へ出した。
その陰から歩兵が格子の脇へ近づこうとするたび、城壁の上から矢が落ちてくる。
「無理に寄るな。鎖を見ろ。脇を見ろ。上を黙らせてからだ」
返事は揃わず、疲れも怒りも隠せていない。
それでも兵達は動いていた。
アタシは手綱を握ったまま、東門を見る。
外門は破れたのに、道は開かない。
それだけのことが、こんなに重い。
「三娘様」
玉楼が横へ馬を寄せた。
「分かってる」
「まだ何も申し上げておりません」
「言われそうだから」
玉楼は少しだけ目を伏せる。
「では、申し上げません」
「それも嫌ね」
「では、申し上げます。前へ出てはなりません」
「結局言うんじゃない」
言い返しても、声にはあまり力が入らなかった。
後ろでは二娘が負傷兵を寝かせる場所を空け、顧大嫂が盾兵へ怒鳴っていた。
「そこ塞ぐんじゃないよ! 担いでる奴が通れないだろ!」
「三娘ォ、聞こえてる?」
「何が?」
「今、玉楼に止められたことォ」
「聞こえてるなら確認しなくていいでしょ!」
「念押しは大事だよォ。人間、感情が強い時ほど都合の悪い情報を落としやすいからねェ」
「心理学で追撃しないで!」
顧大嫂がこちらも見ずに笑った。
「追撃されるようなことしてる方が悪いんじゃないかい?」
「そっちまで参加するな!」
ほんの少しだけ息が抜けた。
東門の上では敵兵がまた動き始め、こちらへ矢を向ける者もいれば、石を抱えて走る者もいる。
ただ、さっきまでより明らかに動きは乱れていた。
劉唐を潰して道を塞いだとはいえ、向こうにも余裕がある訳じゃない。
梁山泊は城を休ませず、北門では関勝が石宝を引きつけ、別の門からも兵が圧をかけている。
そして西湖では、李俊の水軍が動いていた。
その名前を思い浮かべたところで、西湖の方から銅鑼が鳴った。
短く一度。
少し間を置いて、もう一度。
アタシは反射的にそちらを見る。
西湖そのものは見えず、東門の前からでは水軍がどう動いているのかも分からない。
ただ、銅鑼の音だけは届いた。
「今のは?」
玉楼が尋ねる。
「分からない」
本当に分からない。
でも、ただの合図には聞こえなかった。
林冲も顔を上げ、東門を見たまま西湖の方へ注意を向けたようだった。
次の瞬間、城内の奥から声が上がった。
最初は味方なのか敵なのか判別できない。
甕城の奥、鉄格子の向こう、そのさらに先から人の声が重なって聞こえてくる。
城壁上の敵兵が振り返った。
それだけで十分だった。
何か起きた。
「中だ!」
誰かが叫ぶ。
張横達かもしれない。
糧秣船に紛れて入った者達が動いたのか、それとも敵が別の仕掛けを始めたのか。
まだ何も分からない。
ただ、城壁上の兵達がこちらを見なくなった。
矢を構えていた者が城内を振り返り、石を持っていた者まで手を止める。
林冲の声が飛んだ。
「今だ! 門の上を押さえろ!」
弩兵が一斉に撃った。
敵兵が倒れ、残った者が壁の内側へ身を引く。
盾兵が前へ出ると、歩兵達が鉄格子の脇へ走り、縄と鉤を掛けた。
今度は前より長く近づけた。
それでも鉄格子は簡単には動かない。
門への道そのものを塞ぐための鉄だ。
数人がかりで縄を引くと、鎖が鳴り、格子がわずかに揺れた。
その下に、劉唐がいる。
縄を握った兵の一人が顔を歪めた。
見てしまったのだと思う。
それでも手を離さない。
アタシは唇を噛んだ。
その時、城内の奥から、さらに大きな喚声が上がった。
今度は違いが分かる。
怒鳴る声より、逃げる声の方が多い。
東門の兵達も、完全にこちらへの注意を失っていた。
「中で崩れたな」
林冲は喜ぶでもなく、状況を測り、使える瞬間を逃さない目で城内を見ていた。
「押し込め」
その一言で兵達が動く。
弩が飛び、盾が寄り、歩兵が縄を引いた。
鉄格子が軋み、少し持ち上がっては落ちる。
地面を擦るたびに、鉄の重さが腹へ残るような音を立てた。
劉唐の身体が、そのたびに見えたり隠れたりする。
「……やめて」
声が漏れた。
でも、やめられない。
どかさなければ通れず、通れなければ城内へ入れない。
張横達が何をしたのかも、戻れるのかも分からないままだ。
死んだ人間を残したまま道を開ける。
戦は、そんなことまで平気で要求してくる。
「三娘様」
玉楼が方天画戟を持ったまま、進路を塞ぐこともなく、ただ隣にいた。
前へ出ようとすれば止められる。
でも、今は止められなくても踏み出さなかった。
そのことに気づいた時、西湖側から馬が駆けてきた。
水軍の伝令だった。
泥と水を跳ね上げながら林冲の前で止まり、息を整えるより先に声を張る。
「李俊殿より急報! 城内から一人戻りました!」
林冲が振り向いた。
「申せ」
「張横殿らが敵将を討ち取りました!」
周囲がざわめく。
「誰だ?」
「方天定、討死!」
その名が出た瞬間、東門前の空気が変わった。
方天定は方臘の太子であり、杭州城を守る敵軍の中心だった。
その男が討たれた。
勝った。
そう思っていいはずなのに、すぐには声が出なかった。
ここ数日で何人もの頭領を失い、徐寧も毒に侵されたままだ。
敵の大将が死んだというのに、こちらの死者まで消えてくれる訳じゃない。
「……張横は?」
思わず聞いた。
伝令がこちらを見る。
「なお城内におります。ただ、李俊殿より扈頭領へ――」
「アタシ?」
「『前へ出過ぎるな。中が乱れてる時ほど足元を見ろ』と」
一瞬、何も言えなかった。
二娘の目がこちらへ向く。
嫌な予感がした。
「三娘ォ」
「何」
「今、ちょっと嬉しかったァ?」
「嬉しくない!」
「返事が早いねェ」
「何でそこで心理分析するのよ!」
顧大嫂が呆れたように鼻を鳴らす。
「こんな時でも見てるところは見てるんだねぇ、李俊は」
「そういう言い方しないで!」
伝令が困った顔で立っている。
アタシは咳払いした。
「……李俊には、分かったって伝えて」
「承知!」
馬が戻っていく。
二娘がまだこちらを見ていた。
「何よ」
「別にィ」
「その言い方絶対何かあるでしょ!」
「三娘ォ、今は東門見ようねェ」
「誰のせいよ!」
玉楼の口元まで、ほんの少しだけ緩んでいた。
「玉楼まで笑わないで!」
「笑ってはおりません」
「その顔で言う!?」
こんな時なのに、胸の中に残っていた重さが少しだけ動いた。
李俊は生きている。
しかも、こっちまで気にしていた。
それだけで安心している自分が、ちょっと悔しい。
林冲は伝令の報告を聞き終えると、すぐに東門へ向き直った。
「格子を上げろ。城内が崩れているうちに道を開ける。ただし、無理に下へ入るな」
方天定が討たれたという知らせは敵側にも回り始めたらしく、東門の上からこちらを射ていた兵が次々と下がっていく。
もう指揮も満足に通っていない。
縄が引かれ、鉄格子が少しずつ持ち上がる。
その下へ寄ろうとした兵を、二娘が止めた。
「待ちなァ! 先に支えを入れて。落ちたら二人目になるよォ!」
「木を入れろ!」
顧大嫂がすぐに兵へ怒鳴る。
太い木材が差し込まれ、格子が止められた。
そこから数人の歩兵が劉唐の身体へ手を伸ばす。
アタシは見た。
見たくなかった。
でも、見た。
赤い髪も、血に汚れた鎧も、もう動かない手も。
兵達は歯を食いしばりながら、劉唐を格子の下から引き出した。
二娘は何も言わず、その身体を受け取る者達の横へついた。
顧大嫂も普段の大声を止め、運ぶ道だけを空けていく。
泣くのは後だ。
誰もそう言わなかった。
言わなくても、みんな分かっていた。
その時、甕城の奥から煙が流れてきた。
薄い灰色の煙だ。
「火でございますか」
玉楼が奥を見る。
「たぶん」
城内では兵が走り回っている。
逃げる者もいれば、戻ろうとする者もいる。
どこかを守ろうとして逆方向へ駆ける者までいた。
張横達が城内で動き、水軍から合図が届き、そのうえ方天定まで討たれたことで、杭州城は内側から崩れ始めていた。
勝ちに近づいているのに、素直には喜べなかった。
足元には劉唐の血が残っている。
「三娘様」
玉楼が呼ぶ。
「分かってる」
「まだ何も」
「今日は先に言う」
息を吸い、甕城の奥を見る。
「進む。でも、前だけじゃ足りない」
玉楼がほんの少しだけ頷いた。
「承知いたしました」
鉄格子がさらに持ち上がり、人が通れる幅ができた。
アタシが前へ出れば、玉楼が横と後ろを拾う。
玉楼が方天画戟で流れを作れば、その先をアタシが双刀で開く。
後ろでは二娘が負傷兵と退路を見て、顧大嫂が人の流れを詰まらせない。
今までと同じ。
でも、前だけを見て突っ込んでいた頃とは違う。
外門は破れた。
鉄格子もようやく上がり、道が開く。
けれど、その道には劉唐の血が残っている。
アタシは手綱を握り直した。
方天定は討たれた。
張横はまだ城内にいる。
杭州城は崩れ始めている。
けれど、勝ったとはまだ言えなかった。
戻らない人がいると、勝った気になんてなれなかった。
李俊殿から伝言が届いた時、三娘様のお顔が少しだけ変わりました。
孫二娘殿が、すぐに気づきます。
「三娘ォ、嬉しかった?」
「嬉しくない!」
顧大嫂殿が笑いました。
「まだ何も聞いてないのに、ずいぶん早い否定だねぇ」
「二人してそこ拾うな!」
「反応時間が短いねェ」
「心理学で計測するな!」
わたくしも一つだけ申し上げました。
「李俊殿は、三娘様をよくご存じなのでございますね」
「玉楼まで!」
三娘様は赤くなりましたが、東門はようやく開き始めております。
ですが、張横殿はまだ城内なのでございます。




