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流れを変える

「退くって、何か負けた感じしない?」

アタシが言うと、二娘がすぐにこっちを見た。

「三娘ォ、それ認知の偏りだよォ?」

「いきなり診断するな!」

顧大嫂が肩をすくめる。

「じゃあ前へ出続けて、全滅した方が勝ちなのかい?」

「極端!」

「でも三娘ならやりそうだねェ」

「やらない! 最近は!」

二娘が顧大嫂へ顔を向けた。

「今、『最近は』って言ったねェ」

「成長の証拠でしょ!」

「昔はやった自覚がある証拠でもあるよ」

「そっちは拾うな!」

笑われながら振り返る。

北門は、まだ遠くに見えていた。

あそこでは石宝が待っている。

――だから今度は、こちらが流れを変える番だった。

退く、と決まった時、誰もすぐには動かなかった。

逃げる訳でも、負けを認めた訳でもない。

それでも北門の前から退くと決まっただけで、足に鉛でも入ったみたいに重くなる。

「隊列を崩すな!」

林冲の声が飛んだ。

盾兵は前に構えたまま少しずつ下がり、弩兵は城壁を睨みながら射線を保つ。

槍兵も左右を締め、索超の亡骸を運ぶ兵達が安全に下がれる道を作っていた。

石宝は追ってこない。

討ち取った勢いで押してくるなら、こちらも応じられる。

けれど、あの男は門前から動かず、傷を抱えて退いていくアタシ達を見送っているだけだった。

それで十分だ、と言われている気がする。

「三娘様」

玉楼の声が横から届いた。

「分かってる」

何を言われるかは、聞かなくても分かった。

振り返らずに戻れ、今は前へ出る時じゃない。

それくらい分かっているのに、首の後ろだけが熱い。

索超が倒れた場所も、郝思文の首が落とされた城壁も、石宝の立つ門前も、視界の端から消えてくれなかった。

玉楼は方天画戟を横へ寝かせ、退く兵の流れが乱れないよう馬を半歩ずつ合わせていた。

アタシが前を見れば玉楼は横と後ろを見て、敵が追ってくればアタシが受ける間に味方を通す。

刃を交える場面じゃなくても、いつもの戦い方と同じだった。

「右、少し詰まっています」

「分かった。こっちは空ける」

アタシが馬をずらすと、その隙間へ負傷兵を運ぶ者達が入る。

後ろでは二娘が退路を塞ぎかけた兵をどかし、顧大嫂が運ぶ順番を決めていた。

誰か一人が強くても、こういう時は戻れないことを、北門で嫌というほど分からされたばかりだった。

関勝は最後まで石宝を見ていた。

青龍偃月刀を握る手は動かない。

けれど、近くの兵達が誰も距離を詰めすぎないのを見れば、みんな同じことを考えているのが分かる。

あの人が今ここで動いたら、止めるのは難しい。

林冲が馬を寄せた。

「関勝」

いつもと変わらない声だった。

関勝はしばらく石宝を見たまま、それからわずかに目を伏せる。

「……承知しております」

それだけ言って馬首を返した。

怒鳴らなかったことが、かえって怖かった。

北門が遠ざかり、城壁も少しずつ低く見えるようになる。

それでも胸の重さは消えず、むしろ距離が開くほど、置いてきたものの大きさばかりがはっきりしてきた。

宿営地へ戻ると、待っていた兵達の視線が一斉にこちらへ集まった。

索超の亡骸を見れば、北門で何があったのか説明するまでもない。

顧大嫂はすぐに駆け寄り、索超を運ぶ兵達へ手を振る。

「こっちへ運びな。布を持ってきとくれ。そこ、突っ立ってないで道を空ける!」

指示を飛ばすのも、手を動かすのも早い。

その横で二娘は少し離れたところに立ち、索超を見てからアタシ達へ視線を移した。

いつものように茶化してこない。

「……三娘ォ、戻ったねェ」

「戻った」

それしか言えなかった。

戻った。でも、全員じゃない。

その意味だけが、胸の中に残る。

幕舎の中にはまだ徐寧が寝ており、顔色も悪く、毒は抜けきっていないらしい。

薬を替えながら様子を見る医者の手つきにも、いつもの確かさがなかった。呼吸は細く、それでも生きているが、これで戻ってきたと言い切れる状態ではない。

二娘は徐寧の枕元にも一度しゃがみ、呼吸の間隔を確かめてから医者へ場所を譲った。

治療そのものに口を出すのではなく、人が集まりすぎないよう周囲を捌いている。

「三娘ォ、そこに立つと医者の邪魔ァ」

「アタシまだ何もしてない!」

「何もしない人が一番邪魔になる位置ってあるんだよォ」

「心理学じゃなくて導線の話じゃない!」

「今日はそっちも担当」

顧大嫂が布を抱えたまま笑った。

「二人とも、元気なら外でやんな」

追い払われて、アタシ達は揃って一歩下がった。

顧大嫂が水を受け取り、兵へ渡す。

「怪我人の前で騒ぐんじゃないよ。慌てるなら外で慌てな!」

一番声が通っている本人が言うので、思わず口を開きかけた。

すると二娘が横から囁く。

「三娘ォ、今ツッコもうとした?」

「……した」

「今日はやめときなァ。正論パンチが飛んでくるよォ」

「分かってるわよ!」

顧大嫂がこちらを振り向いた。

「何か言ったかい?」

「何も!」

二娘が肩を揺らした。

ほんの一瞬だけ、空気が緩んだ。

けれど徐寧の浅い呼吸を聞けば、笑いはすぐに引っ込む。

「三娘ォ、顔色も悪いよ」

「知ってる」

「自覚があるならまだいいねェ」

「それ、褒めてる?」

「経過観察」

「患者扱いするな!」

そこまで言って、二娘も口を閉じた。

やがて盧俊義、林冲、朱武、関勝が幕舎へ入り、少し遅れて宋江も姿を見せた。

誰もすぐには郝思文や索超の名を出さない。

言葉にした瞬間、まだ何とか保っている空気が崩れそうだった。

朱武が地図を広げ、北門を指で押さえる。

「正攻法だけでは、また同じことになります」

反論する者はいなかった。

「石宝は門前で待ち、こちらが怒りに任せて出れば、そこを狙う。索超殿は勇猛果敢でしたが、石宝はその勇を利用しました」

関勝の眉がわずかに動く。

朱武は視線を逸らさず、別の門と水路へ指を移した。

「次は石宝を北門に留めます。その間に、別門と水路を動かす。敵の目を一か所へ集めさせません」

朱武は地図の上で三か所へ指を置き、北門だけに兵を厚くすれば敵の思う通りになると説明した。

関勝が石宝を引きつけても、それは決闘のためではない。

北門から石宝を動かさず、その間に他の場所で敵へ判断を迫るためだ。

「石宝が関勝殿だけを見れば、別の場所が薄くなる。逆に援兵を回せば、北門の圧が落ちる。どちらを選んでもらっても構いません」

朱武の言葉に、関勝は一度だけ頷いた。

「誰が石宝を引き受ける」

盧俊義が問う。

関勝が顔を上げた。

「私が」

誰もすぐには止めなかった。

郝思文を目の前で殺され、その直後に索超まで討たれた。

怒りが消えているはずはない。

それでも関勝の顔は、さっき北門で見た時とは違っていた。

「石宝を、北門に留めます」

討つでも、追うでもなく、留める――

怒りが、形を変えた。

その時、幕舎の外から足音が近づいた。

「遅くなった」

李俊だった。

あの人が入ってくると、なぜか水辺の匂いまで一緒に入ってきたような気がする。

……いや、何でアタシ今そんなところ気にした?

「水軍は?」

盧俊義が問うと、李俊は地図へ近づいた。

「動いてる。止めちゃいねぇ」

北門を一度見てから水路へ目を移し、その指で門ではなく船が通れる線を追っていった。

「門だけ見てりゃ、またやられる」

胸の奥が、少しだけ動いた。

さっきから自分に言い聞かせていたことと同じなのに、李俊が言うと妙に引っかかる。

「杭州は西湖を抱えてる。城壁だけが城じゃねぇ。西湖も城の一部だ」

朱武が頷く。

「糧秣船か?」

「使える。敵だって兵糧を入れなきゃ籠もれねぇ。船の出入りはある。そこへこっちの船を紛れ込ませる」

「誰が入る」

「張横を行かせる」

李俊は迷わなかった。

「俺は入らねぇ。水軍を外で指揮する。童威と童猛も伝達に残す。中へ入った奴を戻すには、外が崩れちゃ駄目だ」

その言い方が、妙に李俊らしかった。

自分が先に入って目立つのではなく、入った者が帰ってこられるよう外を残す。

アタシが見ていたのに気づいたのか、李俊がこちらへ目を向けた。

「何だ?」

「別に」

「そうか」

「……何よ、その反応」

「別にって言われたから別にだ」

「そこは何か聞きなさいよ!」

二娘が横から顔を出した。

「三娘ォ、今のは自分で会話を終わらせてから怒ってるよォ」

「入ってくるな!」

「コミュニケーション上の問題点を指摘しただけェ」

顧大嫂まで鼻で笑った。

「戦の相談してる横で何やってんだい」

「アタシが聞きたい!」

李俊は口元だけ少し緩め、それ以上は何も言わなかった。

ずるい。

何がずるいのかは、今考えない。

同じ水軍の仲間を失ったかもしれないのに、李俊は西湖と船の動きを追いながら、戻る道まで考えている。

アタシ達が石宝一人に意識を引かれている間に、あの人は別の出口を探していた。

李俊が水路へ指を滑らせるのを見ていると、さっきまで石宝に吸い寄せられていた意識が少しずつ広がっていく。

門の外に立っている敵だけが戦場じゃなく、船が通り、人が運ばれ、退路まで含めて戦場になる。

それを当然みたいに考えている李俊の横顔を見ていたら、また目が合った。

「今度は何だ?」

「だから、別に!」

「二回目は別にじゃねぇだろ」

「細かい!」

二娘がすぐ横で笑いを噛み殺した。

「三娘ォ、観察される側になってるねェ」

「誰のせいよ!」

「張横が中へ入る。北門では関勝殿が石宝を縛る。別門にも圧をかける。向こうが全部見ようとしたら、どこかが薄くなる」

「簡単に言うねェ」

二娘の声から、さっきまでの軽さが消えた。

李俊が地図から目を上げる。

「簡単じゃねぇから分けるんだよ。一隻で全部運ぼうとすりゃ沈む」

いかにも李俊らしい言い方だった。

「三娘様」

玉楼が小さく呼ぶ。

「分かってる」

「まだ何も申し上げておりません」

「でも分かる」

玉楼は少し黙り、それからわずかに頷いた。

今度も門や石宝だけに囚われるな、ということだろう。

失った者から目を逸らさなくても、生きている者と戻る道まで見なければならない。

幕舎の外では、索超の大斧を運ぶ音がしていた。

二人がかりでも扱いきれないほど重いらしく、地面へ触れるたびに鈍い音がする。

その音を聞きながら、李俊が地図の水路を指で押さえた。

「正面で噛まれに行くな。こっちから流れを変える」

誰も景気のいい返事はしなかった。

それでも、さっきまで止まっていた空気が少しずつ動き始める。

北門には石宝がいて、別の門に何が待っているのかも分からず、水路だって安全じゃない。

それでも、同じ場所で立ち尽くしている訳にはいかなかった。

アタシは双刀の柄から手を離したが、指にはまだ痛みが残っている。

戦は終わっていない。

戻らない名前は、もう増やしたくない。

でも、そう思っただけで待ってくれるほど、杭州は優しくなかった。

三娘様は、李俊殿をご覧になっておりました。

一度なら偶然でございます。

二度目も、まあ偶然でしょう。

三度目で孫二娘殿が笑いました。

「三娘ォ、さっきから李俊ばっか見てない?」

「見てない!」

顧大嫂殿が首を傾げます。

「じゃあ何を見てたんだい?」

「水路!」

「李俊殿のお顔に水路がございますか?」

「玉楼まで乗るな!」

孫二娘殿が楽しそうに頷きました。

「視線って本人が思うより正直なんだよねェ」

「心理学で追い詰めるな!」

李俊殿がこちらを振り向かれました。

三娘様は、ものすごい勢いで地図をご覧になります。

今度は本当に水路でございました。

そして、その水路へ張横殿が入ることになります。

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