来るな
「今日は絶対、勝手に突っ込まないから」
アタシがそう宣言すると、二娘が顧大嫂を見た。
「今の聞いたァ?」
「聞いたよ。遺言かと思った」
「縁起でもない!」
二娘が真顔で頷く。
「自己申告と実際の行動には、しばしば乖離があるからねェ」
「信用度を統計処理するな!」
顧大嫂が笑った。
「じゃあ、敵が目の前に出てきても待てるのかい?」
「待てる!」
「郝思文が見えても?」
言葉が出なかった。
二娘も笑わなかった。
「……そこは、頑張る」
「急に自信なくなったねェ」
「うるさい!」
そう言い返した時、前方の兵がざわめいた。
北門の前に、敵軍が出ている。
しかも――こちらを待っていた。
北門へ近づくほど、城壁は高く見えた。
遠くから眺めていた時とは違い、近づくほど石垣の一つ一つが迫り、上からこちらを押さえつけてくるようだった。
黒い城門は固く閉ざされているが、本当に怖いのは門そのものじゃない。
その前には敵の一軍が待ち構えていた。
籠城しているだけなら、まだ分かる。
ところが敵は、こちらが攻め寄せると知ったうえで兵を外へ出し、門を背にして隊列を組んでいた。
前には盾兵、その隙間から槍の穂先が並び、さらに後ろには鎧で身を固めた武将の姿がある。
「……誰だ、あれは」
前方のどこかで声がした。
名前は分からないけれど、ただの雑魚ではないことくらいアタシにも分かる。
向こうから仕掛けてくるでもなく、退く様子もない。
あの武将は門前で馬を止めたまま、こちらが近づくのを待っていた。
その落ち着き方が嫌だった。
「止まれ」
林冲の命令が飛ぶ。
先頭が足を止め、盾兵が前へ出た。
その後ろで弩兵が膝をつき、槍兵は左右へ広がっていく。
関勝の隊は、そこからさらに前にいた。
関勝は門前の武将を見据えたまま何も言わない。
青龍偃月刀を握る背中は大きいのに、今は頼もしさより近寄りがたいものを感じた。
あの人は怒りを声にしない。
だから、どれほど抑えているのかが余計に伝わってくる。
「三娘様」
玉楼が方天画戟を手に、隣へ並ぶ。
「分かってる。まだ行かない」
「わたくしは、まだ何も申し上げておりません」
「その返し、最近多くない?」
「三娘様が先にお答えになるからでございます」
後ろから二娘の声が飛んできた。
「条件反射になってきたねェ」
「戦場で行動分析するな!」
「だって三娘ォ、さっきから城壁、門、左右、後ろって忙しいんだものォ。視線だけなら今日いちばん働いてるよォ」
「アタシ本体も働いてる!」
「そこはこれからだねェ」
こんな時にまで絡んでくる。
振り向くと、二娘は少し後ろで負傷兵を運ぶための道を空けながら、ちゃっかりこっちを見ていた。
前へ斬り込む位置ではないけれど、兵の詰まりや退路はずっと確認している。
顧大嫂まで笑う。
「三娘、首ばっかり動かして馬から落ちるんじゃないよ」
「昨日から事故扱いされすぎ!」
ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
でも、刀の柄を握る手までは緩まない。
あの城門の中に、郝思文がいるかもしれない。
それを思うと、今すぐ駆けたくなる。
だからこそ、門だけに意識を持っていかれないようにした。
城壁の上には弓兵が増えている。
石を運ぶ兵も見えた。
門の脇には、外へ飛び出すための通路があるかもしれない。
こちらの盾列の後ろには弩兵がいて、さらに後方では二娘達が退く道を確保している。
見えるものを増やせば、少しだけ頭が冷える。
正面から太鼓が鳴り、右翼でも喚声が上がった。
湧金門の方角からは水軍の銅鑼が響く。
三方から圧をかける。
朱武の指示通り、北門だけに兵を集めない。
怒りで一か所へ固まれば、敵はそこへ罠を重ねてくる。
分かっているのに、苦しい。
駆ければ楽だと思う。
目の前の敵だけを見て、斬ればいい。
それなら考えなくて済む。
けれど、それをやった結果、また誰かが戻らなくなるのは嫌だった。
盾の向こうで敵兵が動いた。
城壁の上にも人影が増えていく。
「誘っているのか」
黄信が眉を寄せる。
「挑発だけではありません」
朱武は門前の敵陣から目を離さなかった。
「待っているのです。こちらが焦って形を崩す瞬間を」
やっぱりそうか。
アタシ達が郝思文を助けたいことを敵も知っているなら、そこを使わないはずがない。
その時、城壁の上で敵兵が左右へ割れた。
最初は弓兵の配置を変えるのかと思った。
けれど、中央から引き出されてきた人影を見た瞬間、息が止まりそうになった。
両腕を縛られている。
髪は乱れ、鎧もひどく傷んでいた。
遠くて顔までははっきり見えない。
それでも、誰なのかはすぐに分かった。
「郝思文……」
関勝だった。
大声ではないのに、その名が聞こえた途端、北門前の空気が固まった。
郝思文は敵兵に左右を押さえられ、城壁の上へ引き立てられている。
膝をつかされ、首を前へ出すように身体を押さえ込まれた。
関勝の馬が一歩進む。
「関勝!」
盧俊義の声に、馬が止まった。
関勝自身も止まっている。
それでも青龍偃月刀を握る手は震えていた。
アタシも足が動きそうになった。
すぐそばで方天画戟がわずかに前へ出る。
玉楼はアタシを押さえつけたわけじゃない。
ただ、アタシと北門の間へ武器を置いた。
「三娘様」
「……分かってる」
今度は、さっきみたいに言い返せなかった。
城上で敵将が何かを叫んでいる。
声は遠く、言葉までは拾えない。
それでも意味だけは嫌というほど伝わった。
お前達の仲間はここにいる。
助けたいなら来い。
そんなふうに突きつけられている。
郝思文が顔を上げた。
関勝の方を見たのだと思う。
そして、ほんのわずかに首を振った。
来るな。
そう言っているように見えた。
「郝思文!」
今度の関勝の声は、はっきりと北門まで届いた。
兵達がざわめき、盾列の一部が乱れかける。
「構えを崩すな!」
林冲の命令が走った。
黄信もすぐに弩兵へ手を上げる。
「盾を下げるな! 弩兵は待機!」
二娘の声まで後ろから飛んできた。
「前が詰まったら下がれないよォ! 負傷兵の道を塞ぐんじゃない!」
いつもの軽さはなかった。
二娘は前へ出ない。
その代わり、こちらが崩れた時に兵が潰れないよう、後ろを動かしている。
敵兵の刃が上がった。
誰かが叫ぶより早く、それが振り下ろされた。
郝思文の首が城壁の外へ落ちた。
その瞬間だけ、音が消えた気がした。
太鼓も銅鑼も聞こえない。
馬の鼻息さえ遠ざかり、城壁の上に残された郝思文の身体だけが目に焼きついた。
次に耳へ入ってきたのは、敵兵の喚声だった。
勝ち誇る声が城壁から降ってくる。
関勝の馬が前へ出た。
「関勝!」
盧俊義が叫び、林冲もすぐ兵を動かす。
数人が馬の前へ入り、関勝の進路を塞いだ。
止めるというより、突進に巻き込まれまいと必死に食らいついている。
アタシも双刀を抜きかけていた。
方天画戟の柄が、そっと前へ出る。
「三娘様。今、駆ければ郝思文殿の死を敵の狙い通りに使われます」
分かっている。
それでも、目の前で殺された。
張順は戻らず、今度は郝思文まで失った。
その事実を受け止めようとすると、身体の内側が焼けるようだった。
駆けなかった判断は間違っていないのかもしれない。
でも、正しい判断をしたからといって、人が助かる訳じゃない。
それが苦しかった。
「三娘ォ!」
後ろから二娘に呼ばれた。
振り向くと、二娘は兵達を下がらせながらアタシを見ていた。
「死んだ奴だけ見て、自分まで持ってかれるんじゃないよォ。今ここにいる連中が巻き込まれる」
心理学の説明なんてなかった。
その一言だけで十分だった。
アタシは息を吐き、双刀を抜く。
前へ飛び込むためじゃない。
構えるためだ。
玉楼も隣で方天画戟を構えた。
アタシが門前の敵を見る間に、玉楼の視線は城壁と左右へ動いている。
アタシが一歩出れば、玉楼がその先の流れを作る。
玉楼が敵の向きをずらせば、そこへアタシが入る。
一人で全部を見る必要はない。
でも、一つしか見ないまま突っ込むのも駄目だ。
門前の武将が動いた。
ゆっくりと馬を進め、閉ざされた門を背にしたまま前へ出てくる。
その手には刀があり、後ろでは兵達が隊列を組み替え始めていた。
郝思文を殺して終わりじゃない。
こちらが崩れるのを待って、そのまま噛みつくつもりだ。
「隊列を崩すな!」
朱武の声が響く。
「三方の圧を保て! 北門へ兵を寄せるな!」
その言葉で、周囲の兵も動きを取り戻した。
関勝は青龍偃月刀を構え直す。
背中の震えは止まっていない。
それでも、もう馬を暴走させようとはしていなかった。
その横へ索超が進み出る。
顔に怒りを隠す気はまるでない。
「行くぞ!」
「ちょっと待ちなさいよ!」
思わず声が出た。
索超が振り向く。
「何だ!」
「アンタ今、絶対頭に血が上ってるでしょ!」
「上っておる!」
「認めるな!」
こんなところだけ妙に正直だ。
二娘が後ろから叫ぶ。
「自覚があるだけ三娘ォより一歩進んでるねェ!」
「そこでアタシを比較対象にするな!」
ほんの一瞬だけ、味方の間に妙な空気が走った。
けれど、門前の武将は笑わない。
こちらを見据えたまま刀を構え直し、名乗った。
「南離元帥・石宝、参る」
石宝――
その名が北門前に響いた。
あれが、門を背にして待っていた石宝。
郝思文を殺し、こちらの怒りまで戦に使おうとしている。
索超は怯むどころか、馬をさらに前へ出した。
「おう、ちょうどいい!」
嫌な予感がした。
でも、戦はもう止まらない。
北門の前で、杭州城が口を開けたように見えた。
索超殿が前へ出ようとなさった時、三娘様が真っ先に叫ばれました。
「ちょっと待ちなさいよ!」
孫二娘殿が、わたくしを見ます。
「三娘ォが人を止めてるよォ?」
顧大嫂殿も感心した顔をしました。
「世の中、何が起こるか分からないねぇ?」
「そこまで!?」
わたくしも頷きます。
「本日は、わたくしの方天画戟も三娘様を止めるために働きましたので」
「玉楼まで実績報告するな!」
孫二娘殿が笑いました。
「止められる側から止める側へ。成長だねェ」
「いい話みたいにまとめるな!」
三娘様の声に笑いが起きました。
ですが、その向こうでは石宝殿が刀を構えております。
そして索超殿は、まだ下がっておりません。
次に止めるのは、誰になるのでございましょう?




