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向こうにいるから

「三娘ォ、怒ってる?」

二娘に聞かれて、アタシは即答した。

「怒ってない!」

顧大嫂が鼻で笑う。

「その返事、怒ってる奴しか言わないよ」

「決めつけるな!」

二娘が腕を組んだ。

「感情の否認だねェ」

「診断するな!」

「じゃあ質問を変えるよォ。今、杭州城へ突っ込みたい?」

「……ちょっとだけ」

「正直でよろしい」

「心理テストだったの!?」

顧大嫂が肩を揺らす。

「成長したじゃないか。前なら『突っ込まない』って言いながら馬に乗ってたよ」

「過去のアタシを証人に呼ぶな!」

二娘が笑った、その時だった。

幕舎の中から、医者の声が飛んだ。

「毒の回りが早い!」

誰も、次のツッコミを言わなかった。

徐寧の周りだけ、空気が違っていた。

人が行き交い、水や布が運ばれ、医者も呼ばれている。

それなのに、そこだけ時間が遅い。

首筋に刺さった矢は、すぐには抜かれなかった。

下手に動かせば出血が増えるうえ、鏃に毒が塗られているなら傷口の状態も確かめなければならないらしい。

そう説明され、頭領達は息を詰めたまま見守っていた。

徐寧は目を開けているけれど、こちらを見ているのかどうかさえ分からない。

顧大嫂が医者へ詰め寄る。

「毒だよ! 矢傷だけ見て終わりじゃないだろうね!」

「分かっております。ですが、毒の回りが早い」

医者は額に汗を浮かべながら答えた。

その一言で、周囲の顔色が変わる。

二娘が舌打ちする。

「嫌な矢だねェ」

関勝は答えなかった。

徐寧のそばへ膝をついたまま、青龍偃月刀だけを手の届くところへ置いている。

その位置を見るだけで、機会さえあればすぐ北門へ戻るつもりなのだと感じた。

朱武も気づいたのだろう。

「今すぐ兵を出せば、また同じことになります」

関勝の肩がわずかに動く。

「承知しております。ですが、郝思文は城内に囚われている」

「はい」

「時間を置けば、敵が何かに利用するかもしれない」

利用――

その言葉が嫌だった。

人を生かすか殺すかまで、こっちを動かすために使う。

杭州城なら、やりかねない。

胸がざわつき、考えまで鈍っていくようだった。

宋江が目を伏せたまま口を開く。

「郝思文を見捨てる訳にはいかぬ」

誰も口にしていなかっただけで、皆が考えていたことなのだと思う。

助けに行けば罠に掛かるかもしれない。

待てば、その間に郝思文がどうなるか分からない。

どちらを選んでも安全じゃない。

盧俊義が朱武を見る。

「攻めるか」

朱武は地図へ目を落とし、北門の位置を指で押さえた。

「圧はかけます。ただし、怒りに任せて押し込む形には出来ません。門が開いてもすぐには入りませぬ。城上の弓、横から出る伏兵、落とし戸――何が仕掛けられていてもおかしくないと考えるべきです」

アタシも地図から城の方へ視線を移した。

門が開けば好機――そんな単純な話じゃない。

開いていること自体が、こちらを誘うための餌かもしれない。

郝思文は捕らわれ、張順は戻らず、徐寧は目の前で毒に苦しんでいる。

それを見ながら冷静でいろと言われても、腹が立たない訳がなかった。

「三娘様」

隣から玉楼に呼ばれた。

「分かってる」

「まだ何も申し上げておりません」

「言わなくても分かるわよ。怒って突っ込むな、でしょ?」

玉楼は少しだけ考える。

「半分は正解でございます」

「半分?」

「残り半分は、怒っていることまで否定なさらなくてよい、でございます」

思わず玉楼を見る。

そこへ二娘が割り込んできた。

「三娘ォは感情を押し込めると、かえって行動に出やすいからねェ。抑圧するより、自分が怒ってるって認知した方が――」

「今この状況でカウンセリング始める!?」

顧大嫂が徐寧の肩を支えながら笑う。

「怒ってるなら怒ってるでいいんだよ。馬に乗った途端、それを理由に突っ込まなきゃね」

「そこまで信用ない!?」

「実績があるからねェ」

「また過去ログ!」

二娘が肩をすくめた。

「じゃあ今回は、自分で止まれるか観察しとくよォ」

「観察対象にするな!」

顧大嫂が吹き出し、玉楼まで口元を緩める。

……絶対、みんな分かっててやってる。

その時、徐寧がかすかに息を吐いた。

笑いが消えた。

医者が矢へ手を掛け、顧大嫂が徐寧の肩を押さえる。

「動くんじゃないよ」

徐寧は身じろぎもしなかった。

動けないだけなのかもしれない。

医者が鏃の向きを確かめ、一気に引き抜いた。

肉から矢が抜ける嫌な音がして、傷口から血が流れ出す。

赤いはずの血に黒ずんだ色が混じっているのが見えた。

二娘が眉を寄せる。

「……悪いねェ」

誰も否定しない。

医者はすぐ布を押し当て、用意していた薬を傷口へ塗った。

けれど手つきには迷いがあり、それを見ているだけで不安になる。

安道全がいてくれたらと、また思った。

けれど、いない人をいくら考えても徐寧の毒は抜けない。

朱武が伝令を呼ぶ。

「各隊へ。北門へ圧をかけます。ただし兵を一方へ寄せすぎぬように。正面、左翼、北門の三方から押さえ、水軍は湧金門で敵兵を引きつけるだけに留めてください。勝手な突入は禁止。城上の動きに注意し、弩兵を前へ。盾は厚く。破城槌はまだ出し過ぎないように」

伝令が走った。

幕舎の外で兵達の声と馬蹄が重なり、武具の擦れる音も増えていく。

さっきまで待つしかなかった陣が、再び戦の形へ変わり始めた。

関勝が立ち上がる。

「私も出ます」

朱武が顔を向けた。

「関勝殿」

「郝思文を取り戻す」

関勝の口調は変わらない。

それでも、郝思文を取り戻すという意思だけは揺らいでいなかった。

盧俊義が念を押す。

「深入りはするな。敵はお前を怒らせたい」

「承知しております」

敵の狙いを理解したうえで、それでも関勝は行くつもりなのだろう。

もし玉楼が囚われ、目の前の城の中で助けを待っているかもしれないと知ったら、アタシは同じ場所に立ったままでいられるだろうか。

たぶん無理だ。

冷静になれと言うのは簡単だけど、その言葉で郝思文が戻る訳じゃないし、待てば安全になる保証もない。

アタシだって玉楼があの門の向こうにいると知ったら、罠だと聞かされても助ける方法を探すだろう。

二娘や顧大嫂に止められたって、簡単に諦められる気はしない。

そう考えると、関勝が青龍偃月刀を手元から離さなかった理由も少しだけ分かる気がした。

怒りに任せて行くんじゃない。

行かなければならない相手が向こうにいるからこそ、敵はそこを狙い、切り捨てられないものを人質にしてこちらの判断を狂わせる。

杭州城のやり方が、ますます嫌いになった。

だから、関勝を止める言葉は出なかった。

徐寧がかすかに目を開く。

「……郝……」

関勝が振り返った。

徐寧はまだ何か続けようとしたけれど、声にはならない。

「分かっている」

関勝はそれだけ答える。

徐寧の瞼が、ゆっくり閉じかけた。

「眠らせるな!」

医者の声が飛ぶ。

顧大嫂が徐寧の頬を軽く叩いた。

「起きてな! 今寝るんじゃないよ!」

二娘も顔を覗き込む。

「金鎗手だろォ。そんな小さい矢一本で寝るんじゃないよォ」

乱暴な言い方だったけれど、その声は少し震えていた。

徐寧の瞼が、わずかに開く。

それを見て、周囲から押し殺していた息が漏れた。

郝思文は城の中にいる。

生きているか、傷を負っているのか、縛られているのかも分からない。

こちらが来るのを待っている可能性だってある。

確かなのは、帰ってきていないということだけだった。

朱武の声が飛ぶ。

「出陣準備」

歓声は上がらない。

頭領達も兵達も、それぞれの持ち場へ向かい始めた。

アタシも双刀を確かめてから、息を吐く。

怒りや焦りに任せて飛び込むなと自分に言い聞かせても、胸の奥の熱までは消えない。

玉楼が方天画戟を手に並んだ。

その姿がそばにあるだけで、狭くなっていた意識が少しほどける気がした。

「三娘様」

「走らないわよ」

「はい」

「……それだけ?」

「十分でございます」

何よ、その返事。

でも、たぶんそれでいい。

アタシが前へ出れば玉楼が敵の流れを崩し、玉楼が踏み込めばアタシがその先を斬る。

どちらか一人だけで突っ込むんじゃないことは、もう身体で覚え始めていた。

一人なら、たぶん郝思文がいるかもしれない北門へ行くことばかり考えて、他のことが頭から抜けていた。

でも玉楼が隣にいると、アタシ一人では拾えないところを任せられるし、そのぶんアタシも玉楼の死角へ意識を向けるようになる。

二人で戦うって、突っ込む人数が二人になることじゃない。

片方が作った隙へもう片方が入り、片方が見落としたものをもう片方が拾う。

そんな当たり前のことを、今さら実感していた。

陣を出ると、陽の光が眩しかった。

暖かいはずなのに、杭州城の壁だけが妙に白く見える。

盾兵が前へ出て、その後ろに弩兵が続き、槍兵は左右へ広がっていく。

関勝の隊は少し先を進み、青龍偃月刀の刃が陽を受けて光った。

関勝は怒鳴らないし、馬も走らせない。

だからこそ、怒りを押し殺しているのが伝わってくる。

アタシも手綱を握り直した。

北門が見えてくる。

高い門は固く閉ざされ、その上には敵兵の影が並んでいた。

あの中に郝思文がいるかもしれないと思った瞬間、胸の奥がまた熱くなる。

それでも、北門だけに意識を奪われないよう周囲へ目を配った。

張順は戻らず、徐寧は毒に苦しみ、郝思文はまだ城内に囚われている。

これ以上、杭州城に奪われる名前を増やしたくない。

それでも戦は進み、アタシ達は北門へ向かった。

何か一つだけを見るんじゃない。

見る場所を、一つずつ増やす。

それくらいしか、今のアタシにはできなかった。

三娘様は北門へ向かいながら、やけに忙しく辺りをご覧になっておりました。

孫二娘殿が首を傾げます。

「三娘ォ、さっきから右見て左見て忙しいねェ」

「見る場所を増やしてるの!」

顧大嫂殿が笑いました。

「増やしすぎて馬から落ちるんじゃないよ」

「成長を事故の前兆にするな!」

わたくしも方天画戟を構えながら申し上げます。

「では前方は、わたくしが見ておきます」

「そこ一番大事じゃない!?」

「三娘様が左右を担当なさるのでしたら、分担でございます」

孫二娘殿が頷きました。

「役割分担は大事だねェ」

「何で二人とも納得してるのよ!」

三娘様の声に、わずかに笑いが戻りました。

けれど北門は、もう目の前でございます。

あの向こうには、郝思文殿がいる。

今度は、笑って戻れるでしょうか?

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