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戻ってきたのに

「三娘ォ、今日は待つのが仕事だよォ」

二娘に言われて、アタシは眉を寄せた。

「待つだけ?」

「そう。勝手に飛び出さない」

顧大嫂が笑う。

「アンタには難しい仕事だねぇ」

「アタシを何だと思ってるのよ!」

「動くなって言われると動きたくなる人ォ」

「心理学っぽく言うな!」

二娘が指を立てた。

「反発心理っていうのがあってねェ――」

「解説を始めるな!」

顧大嫂が北門を見た。

「まあ、徐寧と郝思文が見て戻るだけだろ?」

「そうよ。見て、戻るだけ」

だから大丈夫。

そう思って、二人の背中を見送った。

その時は、本当にそれだけだと思っていた。

二人が出てから、しばらく何も起きなかった。

アタシは何度も幕舎の外を見る。

北門――徐寧と郝思文が向かった方角だ。

ただ様子を確認するだけで、深入りはせず、敵も誘わない。

見て戻るだけだと、そう決めて出ていったはずだった。

でも、戻ってこない。

幕舎の中では誰も大きな声を出さず、朱武は地図を見たまま、盧俊義も腕を組んで動かなかった。

宋江は目を伏せ、林冲は外の気配を探っているように見える。

関勝だけは、ずっと入口の方を見ていた。

郝思文の背中が消えた北門の方角から、目を離そうとしない。

関勝と郝思文が義兄弟なのは知っている。

同じ凌州から梁山泊へ来た二人だから、関勝が落ち着かない理由も分かった。

「関勝」

盧俊義が声を掛ける。

「何かあるのか」

関勝はすぐには答えず、眉間に皺を寄せたまま外を見ていた。

「……少し、引っかかります」

朱武が地図から顔を上げる。

「何がです」

「静かすぎる。郝思文は慎重な男です。徐寧も軽くは動かぬ。敵に見つかったなら何かしら動きがある。見つかっておらぬなら、もう戻る頃です」

誰もすぐには返さなかった。

静かなら安心だと思いたい。

でも、杭州城は黙っている時ほど嫌だった。

「まだ近づいておらぬだけかもしれません」

朱武が言う。

関勝は頷いたものの、入口から目を離さない。

「ならば、確認だけでも――」

一歩踏み出した、その時だった。

北門の方から、喚声が上がった。

最初は遠い風のように聞こえたが、すぐに違うと分かった。

人の声だ。

それも一人や二人ではなく、何人もの声が重なってこちらまで響いてくる。

幕舎の空気が一変した。

朱武が地図を押さえ、盧俊義が立ち上がる。

林冲と黄信も入口へ意識を向け、孫立は虎眼鞭へ手を掛けた。

関勝は、もう幕舎を出ようとしていた。

「北門だ」

外から伝令が駆け込んでくる。

「北門方面にて喚声! 徐寧様、郝思文様、敵と接触した模様!」

関勝の顔が強張った。

朱武がすぐに止める。

「お待ちください。計略の可能性があります」

「分かっている」

関勝は振り返らない。

「確認に出る。深入りはしない」

「敵は、こちらを焦らせようとしております」

「承知している」

宋江が関勝を見る。

「郝思文を……頼む」

関勝の肩がわずかに動いた。

「必ず」

そう答え、関勝は幕舎を出た。

アタシはその背中を見送る。

徐寧と郝思文に続いて、関勝まで杭州城へ近づいていった。

北門の喚声は、まだ遠くで続いている。

関勝が出てからも喚声はなかなか消えず、近づきもしなければ遠ざかりもしないまま、どこかで揺れ続けていた。

それが余計に嫌だった。

前なら、ここでじっとしていられなかったかもしれない。

誰かが危ないと分かったら自分も行き、見える場所まで行けば何とか出来ると思っていた。

けれど今は、それで味方まで罠に掛かったら意味がないと分かる。

関勝まで出た以上、ここからさらに兵を動かせば、敵が待っている場所へ人数を足すだけかもしれない。

頭では分かっているのに、身体の方は何度も入口へ向きたがる。

玉楼が隣に立っていた。

方天画戟にも触れず、何も言わないまま、アタシが動けば一緒に動ける距離にいる。

戦場ではアタシが斬り込むための隙を作ってくれる人が、今は逆に、余計な一歩を踏み出さないように見ている気がした。

「三娘ォ」

横から二娘が覗き込んでくる。

「何?」

「さっきから入口見る回数、多いよォ」

「数えるな!」

「緊張してる時って、同じ確認行動を繰り返しやすいんだよねェ」

「今、心理学で待ち時間を実況するな!」

顧大嫂が腕を組む。

「まあ、アンタが飛び出さないだけマシじゃないかい?」

「今日それ何回言われるのよ!」

玉楼が頷いた。

「わたくしも、念のため三娘様のお袖を見ております」

「袖を見張るな!」

「引く準備でございます」

「準備するな!」

二娘が吹き出した。

「三娘ォ、成長したねェ。引っ張られる前提で怒れるようになった」

「そこ成長判定に入れないで!」

「自己制御が外的介入から内的制御へ――」

「難しく言い換えるな!」

顧大嫂が笑う。

「要するに、自分で止まれるようになったってことだろ」

「最初からそう言って!」

ふと、李俊の顔が浮かんだ。

アイツなら、こういう時どうするんだろう。

水の上なら、岸が見えていても出ない方がいい時くらいあるはずだ。

流れを読んで、行ける時まで待つ。

たぶん李俊なら、そうする。

……って、何で今アイツ基準で考えてるのよ?

「三娘ォ」

「何よ!」

二娘が目を細めた。

「今、急に顔が別のとこ行ったねェ」

「行ってない!」

「まだ何も聞いてないよォ?」

しまった……

顧大嫂が口元を押さえ、玉楼まで少し視線を逸らした。

「笑うな! 今は北門見てなさいよ!」

「はいはい」

二娘は楽しそうに返したけれど、その目はすぐ北門へ戻った。

その時、また喚声が上がった。

誰も笑わなくなった。

ここで勝手に兵を出せば、敵の思う壺かもしれない。

けれど何もしなければ、向こうで何かが終わってしまうかもしれない。

朱武は地図を見たままだったが、その指は北門の近くで止まっている。

盧俊義も座らず、林冲は黙って外を見ていた。

黄信は弩兵へ何か命じるため、幕舎の外へ半歩出ている。

孫立も虎眼鞭を握ったままだった。

顧大嫂が北門の方を見る。

「嫌な声だね」

二娘も、もう笑わなかった。

「喚声ってのはねェ、勝ってる時も負けてる時も上がるんだよォ。だから嫌なんだ」

その通りだった。

あの声だけでは、徐寧と郝思文が押しているのか、囲まれているのかも分からない。

関勝が間に合ったのか、それとももう遅かったのかさえ分からないまま、待つしかなかった。

アタシは手を握る。

待つしかない時って、こんなに長いんだ。

その時、外から馬の音が聞こえた。

一騎じゃない。

複数で、しかも速く、隊列も整っていない。

幕舎の前にいた兵達がざわめく。

「戻ってきた!」

誰かが叫んだ。

アタシは外へ出る。

土煙の向こうから、何騎もの馬が駆け込んでくる。

先頭は関勝だった。

青龍偃月刀を片手に持ち、自分の馬に何かを載せている。

いや、人だ。

徐寧だった。

徐寧は馬上で身体を傾け、ほとんど関勝に支えられている。

顔色は悪く、唇からも血の気が失せていた。

首筋には矢が刺さっているが、深く貫いたようには見えない。

それなのに、傷口の周りが黒ずんでいた。

「毒矢……か」

誰かが呟いた。

顧大嫂が真っ先に走る。

「寝かせな! 水! 布! 医者を呼びな!」

二娘も人垣へ飛び込んだ。

「どけどけェ! 見てるだけの奴は邪魔だよォ! 道空けな!」

徐寧は馬から下ろされたものの、自分では立てず、兵達に支えられて幕舎の前へ寝かされる。

何かを言おうとして唇を動かしたけれど、声にはならなかった。

アタシは周囲を見る。

いない。

郝思文がいない。

関勝は馬から下りた。

鎧には土が付き、腕には血が付いているが、本人の傷ではなさそうだった。

盧俊義が一歩前へ出る。

「郝思文は」

関勝はすぐには答えなかった。

ほんの一瞬だけ北門の方を見て、それから答える。

「囚われました」

幕舎の前から、音が消えた。

囚われた。

その一言だけが、やけに重く残る。

「敵が北門を半ば開けておりました。徐寧と郝思文は、近づきすぎた」

関勝の声は抑えられていたが、握った拳に力が入っている。

「石宝の隊が横から出てきて、城上からも矢が来た。徐寧は退こうとしたところで毒矢を受けたようです。郝思文は、徐寧を戻そうとして……」

そこで関勝の言葉が止まった。

誰も続きを急かさない。

「敵に囲まれました。私が着いた時には、もう引き離されていた」

顧大嫂が徐寧の首筋を押さえたまま怒鳴る。

「喋らせるんじゃないよ! 先に毒をどうにかしな!」

医者が呼ばれ、水と布が運ばれる。

玉楼もすぐに動き、徐寧の周りへ集まりかけた兵達を外へ下げた。

「道を空けてくださいませ。医者が通れません」

さっきまでアタシの袖を見張っていた人が、今度は人の流れを整えている。

二娘は徐寧のそばに付き、顧大嫂は必要な物を次々と兵へ命じていた。

前へ出るだけが戦じゃない。

それは分かっていたつもりなのに、こういう時になると、自分が何も出来ないように思えてしまう。

双刀なら振れるし、敵が見えれば斬れるけれど、毒は斬れないし、倒れている徐寧の代わりに息をすることも出来ない。

徐寧の呼吸は浅く、目は開いているのに焦点が合っていない。

傷そのものは小さいのに、毒は徐寧の命を持っていこうとしている。

こんな時に、安道全がいてくれたら……

二娘が徐寧の呼吸を見ながら、兵へ指示を飛ばす。

「頭を動かさないで! 水は飲ませ過ぎない! 吐いた時に詰まらせるよォ!」

アタシは一歩近づきかけて、止まった。

何かしたい……

でも、今のアタシが近づいたところで邪魔になるだけだ。

二娘が一度だけこちらを見る。

「三娘ォ、そこにいて」

「……何もしなくていいの?」

「今はねェ。必要になったら呼ぶ」

普段なら「役に立ってないみたいに言うな!」くらい返していたかもしれない。

でも今回は、頷くしかなかった。

「助かる?」

思わず聞いてしまった。

二娘はアタシを見なかった。

「今は助けることだけ考える」

答えは、それだけだった。

怖かった。

張順は戻らず、徐寧は帰ってきても無事じゃない。

そして郝思文は、杭州城に囚われた。

また、あの城へ近づいた人が帰ってこなかった。

関勝が徐寧のそばへ膝をつく。

徐寧がかすかに目を動かし、何かを言おうとした。

「郝……」

声にならない声だった。

関勝が徐寧の手を取る。

「喋るな」

関勝は徐寧の手を握ったまま続けた。

「郝思文は、必ず取り戻す」

徐寧の目がわずかに揺れる。

でも、答えはなかった。

幕舎の外では、北門の喚声がようやく遠のき始めていた。

敵が退いたのか、こちらを十分に傷つけたから声を収めたのかは分からない。

けれど、一つだけ確かなことがあった。

杭州城は、まだ何も終わらせていない。

こちらから、次に何を奪うつもりなのかも分からなかった。

徐寧殿が運ばれた後も、三娘様は落ち着きませんでした。

「水、足りてる? 布は? 馬は?」

孫二娘殿が振り返ります。

「全部足りてるよォ」

「じゃあアタシ何すればいいの!?」

顧大嫂殿が笑いました。

「とうとう仕事を探し始めたよ」

「暇人みたいに言うな!」

わたくしも考えてから申し上げます。

「では三娘様には、皆の邪魔をなさらないという重要なお役目を」

「玉楼まで!?」

孫二娘殿が頷きました。

「適材適所だねェ」

「その配置、納得いかない!」

いつもの三娘様の声に、少しだけ空気が緩みました。

けれど、北門を見れば笑えません。

郝思文殿は、まだ杭州城の中なのでございます。

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