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戻ってきなさいよ

「今日は軍議で静かにするから」

そう言った途端、二娘と顧大嫂が顔を見合わせた。

「何よ、その反応!」

「いやァ、三娘ォが自分から静かにするって言うの珍しいから」

「アタシだって空気くらい読むわよ!」

顧大嫂が頷く。

「読んだ後で突っ込むけどね」

「会話まで突撃扱いするな!」

二娘が顎に指を当てる。

「衝動制御という意味では、戦場より軍議の方が難しい可能性が――」

「アタシを症例みたいに分析するな!」

「じゃあ賭けるかい? 何刻もつ?」

「賭けるな!」

そう言い返しながら、幕舎の前まで来た。

帷幕が開く。

……誰も、笑っていなかった。

重騎兵を追い返した報せを持って戻っても、幕舎の空気は軽くならなかった。

敵の重騎兵は退け、左翼も持ちこたえた。

林冲には追い討ちを掛けなかった判断まで認められたのに、どうにも胸の奥が落ち着かない。

杭州城は、まだそこにある。

高い城壁も、閉じた門も、水路へ落ちる影も、何一つ変わっていない。

そして――昨夜、湧金門へ向かった張順は、まだ戻っていなかった。

幕舎の中では朱武が地図の前に立ち、門の位置と水路の線を見ている。

盧俊義は腕を組んで座り、林冲、黄信、孫立も揃っていた。

宋江は奥に座り、静かに目を伏せている。

アタシと玉楼は、さっきの戦況を報告するために呼ばれていた。

二娘と顧大嫂も頭領として軍議に加わっているが、二人ともいつもの調子で口を挟む気配はない。

「敵重騎兵、退けました」

林冲が告げる。

「左翼は足止めのみで、追撃はしておりません」

朱武が頷いた。

「それでよいです。矢や弩の間合いへ誘うつもりだったのでしょう」

やっぱり、そうだった。

追っていたら、射られていた。

分かっていたから止めた。

それなのに改めて言われると、背中がゾッとする。

あの時、あと一歩前へ出ていたら……

逃げる重騎兵の背中に釣られ、城門の近くまで寄っていたら、今ここへ戻って来られなかったかもしれない。

「扈三娘」

朱武がこちらを見る。

「はい」

「左翼の兵は」

「怪我人は下げています。馬も替えています。顧大嫂と二娘にお願いしました」

「ちゃんとやってるよォ」

二娘が後ろから口を挟んだ。

「三娘ォが戻ってくる前にねェ」

「それどういう意味!?」

顧大嫂が鼻で笑う。

「アンタが戻ると仕事が増えるってことじゃないかい」

「何でアタシが追加業務なのよ!」

朱武が一度だけ目を閉じた。

「……配置が済んでいるなら、それでよいです」

ごめんなさい……

アタシは黙って前を向いた。

玉楼が隣で小さく息を吐いている。

笑ったでしょ。

絶対、笑ったでしょ。

けれど朱武が地図へ手を戻した瞬間、幕舎の空気はまた重くなった。

「敵は、こちらを誘っています。重騎兵は押し潰すためだけではなく、こちらの足を前へ出させるためでもあったのでしょう」

「……はい」

素直に頷く。

前なら、少し反発していたかもしれない。

見えたなら行く、崩せるなら入る。

それで何とかしてきた。

でも、今回は止まれた。

それを褒められても、胸の奥が晴れないのは、止まっただけで杭州城が落ちる訳じゃないからだ。

幕舎の外では、水を運ぶ声や負傷兵を下げる声、馬を入れ替える声が交じっている。

戦は終わっていない。

それでも、この中には前線とは別の重さがあった。

誰も湧金門の話を先にしない。

張順の名を口にした瞬間、何かが決まってしまう気がした。

その時、宋江がゆっくり顔を上げた。

「……各頭領達に、伝えねばならぬことがある」

幕舎の中が静まった。

いつもと変わらない穏やかな声なのに、今はそれが妙に怖い。

「昨夜、夢を見た」

夢?

こんな状況で?

眉を寄せたのは、たぶんアタシだけだった。

誰も笑わず、朱武も盧俊義も林冲も、黙って宋江を見る。

宋江は続けた。

「夢の中に、張順が現れた」

一気に空気が沈む。

「張順は、湧金門より城内へ入ろうとした。だが上より矢を浴び、岩を落とされ、西湖へ落ちた。そして……命を落としたと」

誰も動かなかった。

宋江は夢の中で張順本人から、その最期を告げられたという。

そんな話を、そのまま信じられる訳がない。

アタシは元々、違う世界の人間だ。

夢は夢だと思っている。

人は怖れていることを見るし、願っていることを見る。

後悔や不安が、勝手に形になることだってある。

死んだ人間が夢に現れて、自分の死を告げる。

それを「そうなんだ」で飲み込めるほど、アタシはこの世界に染まり切っていない。

でも、張順が帰っていないことだけは事実だった。

湧金門へ向かい、城内へ入ろうとして、その後の消息がない。

宋江の夢が張順の霊なのか、ただの夢なのかは分からない。

分からないまま、その事実だけが胸の底へ沈んでいく。

玉楼が隣で息を呑んだ。

「張順殿が……」

二娘は少し離れたところで黙っていた。

いつもなら三娘ォだの行動傾向だの言ってくる人が、何も言わない。

顧大嫂も腕を組んだまま目を伏せていた。

宋江は静かに続ける。

「張順は、我らのために命を投げ出した」

その言葉に、胸の奥がざらついた。

命を投げ出した。

そう言えば綺麗に聞こえる。

立派にも聞こえる。

皆のために死んだのだと、後から意味を与えられる。

でも、張順は本当に死ぬつもりだったのだろうか。

生きて戻るつもりだったんじゃないのか。

水路を抜け、門を開け、それから笑って帰ってくるつもりだったんじゃないのか。

死んだ後で「命を投げ出した」とまとめられるのが、アタシは少し嫌だった。

けれど口には出さない。

今、ここで言うことじゃない。

二娘がこちらを見た。

一瞬だけ目が合う。

何も言わなかったのに、見透かされた気がして、アタシは先に地図へ目を戻した。

朱武がその地図へ手を置く。

「湧金門が固いなら、別の口を探るしかありません」

盧俊義が目を細めた。

「北門か?」

「はい、北門の守りを見ます。ただし軽く探るだけです。深入りは禁物。敵は、こちらを怒らせ、焦らせようとしている」

焦らせようとしている。

その言葉は、今の幕舎によく似合った。

張順の消息が分からないところへ、宋江の夢まで重なった。

頭領達の胸に怒りも悲しみもある。

このまま勢いだけで城へ近づけば、それこそ敵の思う壺だ。

でも、何もしない訳にもいかない。

徐寧が一歩前へ出た。

「ならば、私が行きましょう」

声は落ち着いていた。

徐寧は派手に怒鳴る人じゃない。

必要だと判断した場所へ、黙って出る人だ。

続いて郝思文も進み出る。

「私も参ります。北門の様子を見るだけなら、私達の手勢で事足ります」

関勝が眉を寄せた。

「郝思文、無理はするな」

「承知しております」

郝思文は静かに頭を下げた。

その横顔に恐れは見えない。

でも、嫌な感じがした。

今度は徐寧と郝思文が出る。

また誰かが杭州城へ近づく。

黙った城へ、人が一人、また一人と寄っていく。

そのたびに、帰って来るのかと考えてしまう。

「三娘様」

玉楼が声を掛けた。

「何?」

「お顔が険しくなっております」

「……そう?」

「はい」

横から二娘まで覗き込んでくる。

「眉間に力入り過ぎだよォ。そこだけで敵を追い返す気ィ?」

「今そこに絡んでくる!?」

「緊張が強い時は身体にも出るからねェ」

顧大嫂が腕を組む。

「アンタの場合、顔より先に馬が出るけどね」

「今日は止まったでしょ!」

「今日“は”ねェ」

「二人とも今は褒めろ!」

玉楼が真顔で頷いた。

「本日は、わたくしが袖を引く必要もございませんでした」

「それ褒めてる!?」

「事実を申し上げただけでございます」

「最近みんなその言い方する!」

ほんの少しだけ、幕舎の空気が緩んだ。

すぐに戻ったけれど、それでよかった。

張順の話を忘れた訳じゃない。

ただ、息をする場所が一瞬だけ出来た。

アタシは幕舎の外へ目を向けた。

帷幕の隙間から、杭州城の上だけが見える。

陽を受けた城壁は遠目には鮮やかなのに、今はその向こうに矢と岩しか思い浮かばない。

「あの城、嫌い」

思わず口から出た。

玉楼がこちらを見る。

「何が嫌なのでございますか?」

「近づいたら、帰してくれない感じがする」

言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。

でも玉楼は否定しない。

「そういう城なのでしょう」

「嫌な言い方」

「ですが、三娘様も同じことを仰いました」

「そうだけど!」

二娘が小さく息を吐く。

「嫌だって思えるうちは、まだいいよォ」

「どういう意味?」

「怖くないって思い始めた時の方が危ないってこと」

今度は茶化していなかった。

アタシは少しだけ黙り、それから頷いた。

「……覚えとく」

「おや、素直だねェ」

「今ので台無し!」

顧大嫂が肩を揺らした。

その間にも準備は進み、徐寧と郝思文はすぐに出立することになった。

北門の様子を見るだけの偵察だ。

深入りはせず、敵を誘わず、見て戻る。

それだけのはずだった。

二人が幕舎の前を通る。

徐寧は鈎鎌槍を携え、馬上で軽く会釈した。

郝思文も関勝へ一度だけ頭を下げる。

関勝は何も言わなかった。

ただ、黙って見送っていた。

アタシも見送る。

何か言えばよかったのかもしれない。

気をつけて、とか。

無理しないで、とか。

でも、そんな当たり前の言葉が出てこない。

口にしたら、本当に危ない場所へ送り出すみたいだった。

二人は北へ向かった。

杭州城の壁に沿うように進み、朝の光の中で背中が少しずつ小さくなる。

宋江の夢の話が、まだ胸の奥に残っていた。

そして今、また二人が城へ近づいていく。

「戻ってきなさいよ……」

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

張順なのか、徐寧なのか、郝思文なのか。

もしかしたら、これから杭州城へ近づく全員へ言ったのかもしれない。

杭州城は何も答えない。

ただ、遠くで静かに立っているだけだった。

孫二娘殿が、杭州城を睨む三娘様の横へ並びました。

「三娘ォ、さっき『あの城、嫌い』って言ってたねェ」

「言ったけど?」

顧大嫂殿が笑います。

「城にまで好き嫌いがあるとは忙しいねぇ」

「嫌いなものくらいあるわよ!」

孫二娘殿が頷きました。

「じゃあ好きな方はァ?」

「何で反対側を聞くの!?」

「連想課題として自然だよォ」

「絶対嘘!」

わたくしは少し考えます。

「李俊殿でしょうか」

「玉楼!?」

顧大嫂殿が吹き出しました。

「城の話からそこへ着地するのかい!」

三娘様だけが真っ赤になっておられました。

けれど、北へ向かった徐寧殿と郝思文殿の姿は、もう見えません。

笑い声が止まります。

今度こそ、お二人には戻ってきていただきたいのでございます。

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