水路は捨てねぇ
「三娘ォ、これからどうするの?」
二娘に聞かれて、アタシは欠伸を噛み殺した。
「幕舎に戻るわ」
顧大嫂が笑う。
「自分のかい?」
「他に誰の幕舎へ行くのよ!」
「李俊のところとかァ?」
「行かない!」
二娘が首を傾げた。
「でも、さっきから三回くらい李俊の方見てたよォ」
「数えるな!」
「こういう時ほど無意識の行動って出るからねェ」
「毎度、心理学で恋愛実況するな!」
顧大嫂が肩を揺らす。
「まあ、今夜は大人しく寝な。アンタまで倒れたら面倒だ」
「分かってるわよ」
二娘が、にやっと笑った。
「じゃあ、李俊が心配だからって、また様子を見に行ったりしないんだねェ?」
「誰が行くか!」
そう言い切ってから、アタシは一度だけ西湖の方を見た。
……見ただけだからね。
自分の幕舎へ戻る頃には、空が少し白み始めていた。
夜が終わりかけているはずなのに、そんな感じは全然しない。
身体の中だけ、まだ西湖の暗い水辺に置いてきたみたいに重かった。
帷幕を開けると、顧大嫂と二娘がいた。
卓には湯気の立つ椀が並び、玉楼がその横で水差しを用意している。
顧大嫂が腕を組んだ。
「戻ったかい」
「うん」
いつもの声だった。
それなのに、誰もすぐ張順のことを聞かなかった。
二娘がアタシの顔を見る。
「三娘ォ、座りな」
「まだ平気」
「座りな」
「二回言った!」
「一回目で聞かないからだよォ」
玉楼が何も言わず椅子を引いた。
逃げ道がない。
「何で全員アタシを病人みたいに扱うのよ」
顧大嫂が椀を指す。
「病人じゃないなら食えるだろ」
「その理屈おかしくない?」
「李俊には『ちゃんと食べなさいよ』って言ったんだってねェ」
二娘の口元が、じわっと上がった。
何で知ってるの。
「……誰から聞いたのよ?」
「聞こえた」
「どこまで!?」
「『お前に言われたくねぇ』まで」
最悪……
顧大嫂まで笑い出した。
「そりゃ言われるねぇ。自分の飯を忘れて敵へ突っ込む奴が、人には食えってか」
「今日は突っ込んでない!」
「そこは偉かったねェ」
「褒める基準がおかしい!」
二娘は笑いながらも、アタシの前へ椀を押した。
「でも食べな。強いストレスが掛かった後って、自分で思ってるより身体が疲れてるからねェ」
急に専門家へ戻るのやめてほしい。
玉楼も頷く。
「三娘様。少しでもお召し上がりくださいませ」
三対一じゃ勝てる気がしない。
仕方なく椀を持つと、温かさが指に伝わってきた。
その時になって初めて、自分の手が冷えていたことに気付く。
一口飲む。
思ったより腹へ落ちた。
誰も張順の名を出さないまま、しばらく湯気だけが卓の上へ上がっていた。
その沈黙を破ったのは、外から近付いてきた足音だった。
「入るぞ」
李俊だった。
帷幕を上げて入ってきた顔を見た瞬間、さっきまで少し緩んでいた胸がまた固くなる。
張順は、一緒じゃない。
分かっていたのに、確認してしまう。
李俊もアタシを見る。
それから、手元の椀へ目を落とした。
「食ってんじゃねぇか」
「食べてるわよ!」
何よ、その意外そうな顔。
二娘がすぐ横から入ってくる。
「李俊も座りなァ」
「俺はいい」
「はい、出た」
「何がだ?」
「典型的な『自分だけは大丈夫』」
「心理学を持ち込むな」
「身体に聞いたのォ?」
李俊が黙った。
顧大嫂が空いている椅子を足で押し出す。
「座んな。水軍の頭が倒れたら、今度は誰がアンタを探しに行くんだい?」
その言葉で、笑いが消えた。
李俊も反論しない。
玉楼が新しい椀を置く。
「どうぞ」
「……悪い」
李俊が腰を下ろすと、二娘がアタシを見る。
その顔、やめて。
「三娘ォ」
「何?」
「よかったねェ。食べたよォ」
「アタシの手柄じゃない!」
李俊が椀を持ちながら鼻で笑った。
「お前、俺に食えって言っただけだろ」
「心配したんだからいいでしょ!」
言ってから気付いた。
二娘が止まり、顧大嫂も黙る。
玉楼まで、ほんの少しだけこちらを見た。
李俊も椀を持ったまま動かない。
……今の、何かまずかった?
二娘の口が開く。
「三娘ォ、それ――」
「分析禁止!」
先に潰した。
顧大嫂が堪えきれず吹き出す。
李俊は何も言わず椀へ口を付けたけれど、耳の辺りが少し赤い。
見なかったことにしよう。
アタシも赤くなってる気がするから……
しばらくして、李俊が椀を置いた。
「童威と童猛は休ませた」
「……そう」
「明るくなったら、もう一度水辺を見る」
その一言で、笑いの残っていた空気が静まった。
二娘は余計なことを言わず、空いた椀を下げる。
顧大嫂も酒には手を伸ばさない。
張順は、まだ見つかっていない。
だから、終わったとも言えない。
李俊が立ち上がる。
「お前も少し寝ろ」
「そっちもでしょ?」
「寝る」
「絶対?」
「お前にだけは言われたくねぇ」
またそれ?
でも、今度は言い返さなかった。
李俊が幕舎を出て行くと、二娘がゆっくりこちらを向いた。
嫌な予感がする。
「三娘ォ」
「何も言わないで」
「まだ何も言ってないよォ?」
「顔が言ってる!」
玉楼が寝具を整えながら口を開く。
「三娘様は、今のうちにお休みくださいませ」
「玉楼まで話を逸らした!」
「何のことでございましょう?」
絶対分かってる。
でも、さすがに身体が限界だった。
横になると、目を閉じた記憶も曖昧なまま意識が途切れた。
目を開けると、幕舎の外が明るくなっていた。
眠れたのかどうか、自分でも分からない。
頭の奥は重いままだったけれど、夜の水辺に立ち続けていた時より身体は動いた。
外では兵が行き交い、馬のいななきに荷を運ぶ物音が重なっている。
戦場の朝だ。
杭州城は朝靄の向こうに、昨日と変わらない姿で立っていた。
アタシが外へ出ると、玉楼はもう方天画戟の石突を確かめている。
「早くない?」
「三娘様よりは眠りましたので」
「それ遠回しに寝不足って言ってる?」
「事実を申し上げただけでございます」
玉楼がこちらを見る。
「お身体はいかがでございますか?」
「重いわ。でも動けるわよ」
「では、動き過ぎないようお願いいたします」
「何で先に釘を刺すのよ?」
玉楼の表情は変わらない。
二娘の影響受けてない?
その時、少し離れたところで銅鑼が鳴った。
軍議の合図だ。
二娘と顧大嫂も幕舎から出てくる。
顧大嫂は帯を締め直し、二娘もさっきまでの眠そうな顔を消していた。
「行くよォ、三娘」
「分かってる」
「今度は地図に突っ込まないようにねェ?」
「まだ何もしてない!」
顧大嫂が笑う。
「予防ってやつだろ」
「二娘の影響受け過ぎ!」
玉楼まで何となく同意している顔なのが一番腹立つ。
アタシ達は揃って軍議の幕舎へ向かった。
一路軍が合流したことで、昨夜までより頭領の数が増えていた。
朱武と呉用が地図を挟み、その周囲には李俊をはじめ、水陸それぞれの動きに関わる頭領達が集まっている。
二娘と顧大嫂も当然のように席へ入り、玉楼はアタシの横に立った。
李俊はもう来ていて、西湖側の地図を見ていた。
その隣へ目を向けかけて、アタシは先に地図を見る。
朱武が口を開いた。
「昨夜の陽動で、西湖側の守兵を動かせることは確認出来ました。ただし、湧金門周辺の警戒は以前より強まっています」
呉用が羽扇を閉じる。
「こちらが水路を探っていることまでは悟られたと見るべきでしょうな」
李俊が頷いた。
「少なくとも、同じ入り方は使えねぇ」
誰も張順の名を出さなかった。
出さなくても、その言葉が誰の潜入を指しているかは分かる。
朱武の指が杭州城の外周をなぞった。
「正面から圧力を掛け続ければ、敵はこちらへ兵を集めるでしょう。しかし昨夜の動きを見る限り、慌てて一か所へ寄せるほど未熟ではありません」
「面倒ね」
思わず言うと、呉用が少し笑った。
「面倒な敵ほど、崩した時は大きいものです」
「その前にこっちが崩れたら意味ないでしょ」
「仰る通りですな」
あっさり認めないでよ。
顧大嫂が地図を覗き込んだ。
「なら、昨夜みたいに一か所だけ騒いでも、次は簡単に釣れないってことかい?」
「その可能性は高いでしょう」
朱武が答える。
二娘も城壁と西湖を見比べた。
「一度見せた刺激には反応が鈍くなることもあるからねェ。警戒されてるなら、同じことを繰り返しても効果は下がるよォ」
呉用が二娘を見る。
「なるほど。戦場でも人の心は同じということですかな?」
「人が守ってるんだから、そこは同じだよォ」
軍議で心理学講義始めないでよ。
でも、言っていることは分かる。
朱武が頷いた。
「ですから、焦らせるのではなく、守らなければならない場所を増やします。正面だけでも、西湖だけでもない。敵がどこを薄くしても不安になるよう、こちらから複数の動きを見せる必要があります」
昨夜アタシ達がやったことを、もっと大きくするってことか。
地図へ身を乗り出すと、横から玉楼が袖を軽く引いた。
「近過ぎでございます」
「地図に突っ込む人はいないでしょ!」
二娘がすぐ笑う。
「対象が城から地図に変わっただけじゃない?」
「違う!」
「前のめりになる行動傾向は一致してるねェ」
「軍議中に分析するな!」
顧大嫂まで笑い出した。
「まあ、地図なら斬り返してこないから安全だろ」
「アタシを何だと思ってんの!?」
張り詰めていた幕舎の空気が、ほんの少しだけ緩んだ。
朱武が咳払いをする。
……ごめんなさい。
ちゃんと聞きます。
李俊は呆れたようにこっちを見ている。
「何よ?」
「別に」
絶対何か言いたそうな顔。
それでも、昨夜より少しだけいつもの顔に戻っている。
それだけでよかった。
朱武が再び地図を見る。
「杭州は大きい。守る側にとって強みである一方、守らなければならない場所も多いということです」
呉用も頷いた。
「兵が多くとも、同時に幾つもの場所へ置くことは出来ません。こちらが動けば、向こうも動かざるを得ない」
顧大嫂が腕を組む。
「動かした先を、こっちが見落とさなきゃいいってことだね」
「はい」
朱武が短く答えた。
二娘も今度は冗談を挟まない。
「後ろが詰まったら、前が動けても意味ないからねェ。負傷兵を下げる道は先に空けといた方がいいよォ」
「それも組み込みましょう」
朱武が地図の脇へ印を足した。
軍議で必要なのは、前へ出る話だけじゃない。
二娘が後送の流れを見て、顧大嫂が現場の詰まりを拾い、玉楼がアタシの見落とす横を埋めてくれる。
今さらだけど、アタシ一人で戦ってるんじゃないんだなと思う。
李俊が西湖の辺りへ指を置いた。
「水路は捨てねぇ」
幕舎の空気が変わった。
「張順が戻ってねぇからって、水路まで捨てたらあいつに笑われる」
二娘が目を伏せ、顧大嫂も何も言わない。
李俊はそのまま地図を見る。
「西湖も水門も残ってる。使える道があるなら使う」
アタシは黙って横顔を見る。
無理をしているのかもしれない。
でも、昨夜とは少し違う。
止まらないためだけに前を向いているんじゃない。
残っているものをちゃんと見て、次に使おうとしている。
目が合った。
「何だ?」
「別に」
今度はアタシが返した。
李俊が少しだけ眉を上げる。
何よ?
さっきの仕返し。
二娘が横から小声を挟んだ。
「似てきたねェ」
「何が!?」
「何でもないよォ」
絶対あとで問い詰める。
朱武が地図の上へ指を戻した。
「では、水路を捨てず、陸側からも圧力を掛けます。ただし、次は昨夜と同じやり方にはしません」
「敵も待ってるもんね?」
「その通りです。だからこそ、こちらも敵を見なければなりません」
朱武の指が、地図の上をゆっくり動いた。
城門を通り、西湖の縁をなぞり、やがて一か所で止まる。
アタシは、その指先を見る。
次に何をするのか。
昨夜までとは違う攻め方が、ここから始まる。
杭州攻略は、まだ続く。
孫二娘殿が、軍議の最中に三娘様の背中を見ながら笑いました。
「玉楼、さっき三娘ォの袖引いてたよねェ?」
「地図へ近付き過ぎておられましたので」
顧大嫂殿が吹き出します。
「次から地図にも柵が要るんじゃないかい?」
「要らないわよ!」
少し離れた所から、三娘様の声が飛んで参りました。
孫二娘殿が頷きます。
「でも前のめりになる癖は自覚した方がいいよォ。行動傾向として――」
「分析禁止!」
「じゃあ経験則で言うけど、アンタは前に出過ぎる」
「そっちも禁止!」
わたくしは、静かに息をつきました。
「では次も、わたくしが袖を引きます」
三娘様が振り返ります。
「次は引かれないから!」
その直後、朱武殿が示した次の攻め口を見た三娘様が、また地図へ身を乗り出したのでございます。




