戦は待ってくれない
「ねえ、攻めるふりって、どうやればいいの?」
二娘が真顔でアタシを見た。
「三娘ォ、それ今聞くの?」
「だって普段は本気で攻めてるし!」
顧大嫂が吹き出す。
「アンタ、加減するのが苦手だからねぇ」
「失礼ね!」
「じゃあ敵が逃げたら?」
「追わない」
「門が開いたらァ?」
「入らない!」
二娘が顧大嫂を見る。
「言語では理解してるねェ」
「行動が伴うかは別だけどねぇ」
「心理学と経験則で挟み撃ちにするな!」
二娘が肩をすくめた。
「まあ、今夜は敵を騙すんだから、三娘ォも演技しないとねェ」
「任せなさいよ。女優だから」
「いつからだい?」
「今から!」
その時、杭州城の方から銅鑼が鳴った。
どうやら、開演らしい。
夜風が、城壁の旗を揺らしていた。
杭州の外は暗いが、完全な闇じゃない。
見張り台の松明が所々で赤く燃え、城壁の輪郭を夜の中へ浮かび上がらせている。
アタシは城壁から少し離れた林の中で馬を止めた。
玉楼が後ろを確かめる。
「準備は出来ております」
連れて来たのは十数騎だけだ。
多過ぎれば動きが鈍くなり、少な過ぎれば敵が相手にしない。
今夜の目的は杭州を攻めることじゃない。
西湖側へ集まっている敵の目を、張順から引き剥がすことだ。
出る前、二娘には念を押された。
「三娘ォ、今夜の成功条件は?」
「敵を引きつけて、ちゃんと戻る」
「よし……敵将を斬るとか、城門まで突っ込むとかは入ってないねェ」
「確認テストやめて!」
顧大嫂まで真顔で頷いていた。
「そこは大事だろ。アンタ、目の前に敵が出ると予定を増やすからねぇ」
「増やさない!」
「じゃあ証明してきな」
何で信用回復試験みたいになってるのよ。
二娘は後方に残り、戻って来た兵の確認と退路の確保を引き受けている。
顧大嫂も騒ぎが大きくなった時に備えて、林の奥で兵を待たせていた。
だから、アタシ達は敵の前へ出て、目立って、戻ればいい。
簡単――
……簡単なはず。
アタシは手綱を握り直した。
「行くわよ」
馬腹を蹴ると、十数騎が夜の土を蹴り上げて林から一気に飛び出した。
城壁の上では、すぐに人影が動いた。
「敵襲!」
叫び声が飛び、こっちも負けないくらい大きな鬨の声を返す。
本気で城を落とす気なんてない。
それでも敵から見れば、暗闇から騎兵が突然現れたことに変わりはない。
城壁の上で松明が増え、兵が走り始める。
アタシが先頭で城壁へ寄ると、玉楼が半歩外側へ回った。
こちらへ飛んで来た矢を方天画戟で払い、後ろの騎兵が寄り過ぎれば声を掛けて間を戻していく。
アタシが前を見る。
玉楼が横と後ろを見る。
いつもの形だ。
「三娘様、これ以上は近付き過ぎでございます」
「分かってる!」
返しながら馬首を横へ向けた。
本当よ。
今日は本当に分かってる。
城壁へ向かってこちらからも矢を放つが、火矢は使わない。
何かを燃やせば、本当に攻撃が始まったと味方まで勘違いしかねない。
欲しいのは戦果じゃない。
敵兵が、西湖からこちらへ動いたという事実だけだ。
やがて城壁の一角で銅鑼が鳴り、別の見張り台から兵が走って来た。
西湖の方から、こちらへ。
来た――
「もう少し!」
アタシは馬を走らせながら叫んだ。
敵兵が城壁の上から罵声を浴びせ、矢まで飛ばしてくる。
けれど距離があるせいで狙いは甘く、玉楼が方天画戟を振って一本を弾き落とした。
「挑発にお乗りになりませんよう」
「乗らないって!」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「顔が言ってる!」
玉楼の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
こんな時まで二娘と同じ扱いしないでよ。
けれど、そのおかげで城壁へ近付き過ぎずに済んでいる。
張順――
まだ生きてるなら、今のうちに戻って来て。
そう願いながら、アタシはもう一度鬨の声を上げた。
*
西湖の岸では、李俊が城壁の灯りを見ていた。
扈三娘達の鬨の声は、夜の向こうから途切れずに聞こえてくる。
西湖側に集まっていた兵の一部が陸側へ動き始め、見張り台の人影も少しずつ減っていたが、李俊はすぐには童威と童猛を出さなかった。
童威が水辺へ身を乗り出す。
「兄貴」
「まだだ」
李俊は風と湖面を確かめながら、城壁の上を移っていく松明の位置を追う。
敵が一度動いたからといって、すぐ水へ入れば、その動きまで見張られる。
十分に目が陸側へ向くまで待つ必要があった。
しばらくして、西湖側に残った兵の数がさらに減った。
李俊が顎を動かす。
「行け」
童威と童猛は頷き、ほとんど音を立てずに水へ入った。
二つの波紋が広がり、すぐに暗闇へ紛れる。
李俊は岸に残ったまま、水の流れと敵の動きを追い続けた。
張順が戻れなかった理由は分からない。
傷を負ったのか、敵に見つかったのか、それとも流れに押されて別の場所へ出たのか。
今の段階では、どれも確かめようがなかった。
遠くでは、まだ扈三娘達の鬨の声が響いている。
李俊は一度だけ陸側を見て、眉を寄せた。
「……あいつ、本当に突っ込んでねぇだろうな」
返事をする者はいなかった。
その頃には、童威と童猛は湧金門近くまで進んでいた。
陽動のおかげで見張りは減っている。
それでも完全に消えた訳ではなく、城壁の上にはまだ数人の影が残っている。
二人は杭の陰を使い、出来るだけ水面を乱さずに近付いた。
張順なら、この辺りまで来ていたはずだった。
童威は水門の下から杭の周囲まで目を凝らしたが、張順が通ったと分かるものは何一つ見つからない。
童猛も少し離れた場所を探し、水面へ上がって周囲を確かめては、また潜った。
何度繰り返しても同じだった。
張順がいない。
別の場所へ流された可能性はある。
だが、どちらへ向かったのか見当すら付かない。
童猛は杭へ手を掛けたまま、なかなか離れようとしなかった。
童威も急かさず、もう一度だけ周囲を探した。
それでも何も見つからない。
やがて遠くの岸で、李俊が戻れと合図を送った。
童猛はすぐには動かなかったが、童威が先に岸へ身体を向けると、歯を食いしばって後を追った。
ここで二人まで見つかれば、張順を探すどころではなくなる。
夜風が湖面を撫で、小さな波を広げていく。
そのどこにも、張順の姿はなかった。
*
城壁の上では、まだ敵兵が動いていた。
罵声と一緒に矢が飛んでくるけれど、もう十分だ。
西湖側から兵を動かした。
これ以上ここへ残れば、陽動どころか本当に戦う羽目になる。
アタシは手綱を引いた。
「下がるわよ!」
騎兵達が一斉に馬首を返した。
追撃してくる敵はいない。
城壁の上から矢を射るだけで、門を開ける気配もなかった。
玉楼は最後尾へ回り、味方が全員離れたのを確かめてからアタシ達を追って来る。
林へ入ったところで、二娘が待ち構えていた。
「三娘ォ」
「何?」
二娘はアタシではなく、後ろの騎兵を数えている。
「……全員いるねェ」
それから、ようやくアタシを見た。
「本当に突っ込まなかった」
「そこ感心するところ!?」
顧大嫂が鼻で笑う。
「成長したじゃないか」
「子供扱いするな!」
言い返したところで、笑いは続かなかった。
水辺から三つの影が戻って来るのが見えたからだ。
李俊と童威、童猛だった。
でも、そこに張順はいない。
胸の奥へ、重いものが落ちた。
童猛は全身を濡らしたまま俯き、童威も口を開かない。
李俊だけが、アタシを見る。
何か言わなきゃと思った。
戻って来なかったのか、見つからなかったのか、それともまだ生きているのか。
聞きたいことはいくつもあるのに、どれも口から出なかった。
代わりに李俊の目が、アタシの身体を一度だけ追う。
怪我がないか見たんだと分かった。
こんな時なのに、分かってしまう。
アタシも同じように李俊を見る。
無事だった。
それだけで胸のどこかが緩みそうになり、すぐ張順のことを思い出した。
李俊が先に目を逸らす。
「戻るぞ」
「……うん」
二娘は何も言わず、童猛へ乾いた布を渡した。
いつもなら何かしら口を挟んでくるのに、今は余計なことを言わない。
そういうところだけは、本当に専門家なんだから……
陣へ戻る途中、北側に並ぶ松明の数が増えていることに気付いた。
最初は敵が動いたのかと思ったが、松明の向こうに見えたのは、見覚えのある梁山泊の旗だった。
「一路軍?」
アタシが馬上から目を凝らすと、玉楼も頷いた。
「到着したようでございます」
別れて進んでいた一路軍が、ようやく杭州まで追い付いたのだ。
本来なら、久しぶりに顔を合わせた仲間の声でもっと騒がしくなるはずだった。
実際、少し離れた場所では互いの無事を確かめる声が飛び交っている。
でも、アタシ達の周りだけは違った。
張順が戻っていない。
一路軍が合流したからといって、その事実が消える訳じゃない。
二娘が小さく息を吐いた。
「よりによって、今日なんだねェ」
顧大嫂が答える。
「戦ってのは、こっちの都合なんか待っちゃくれないさ」
それは、本当にそうだった。
幕舎へ入ると、朱武と一路軍と共に着いた呉用が地図を広げて待っていた。
呉用が李俊達を見る。
「どうでした?」
李俊はすぐには答えなかった。
童威と童猛の姿を見れば、何がなかったのかは分かる。
それでも報告は必要だった。
「見つからねぇ」
朱武が地図から顔を上げる。
李俊は湧金門を指した。
「西湖側の兵は陽動で減った。童威と童猛を入れたが、張順の痕跡はねぇ」
童猛が拳を握る。
「もう少し探せば……」
「お前まで戻らなくなったら意味がねぇ」
李俊が遮った。
責める言い方ではなかったからこそ、童猛も黙るしかない。
朱武が湧金門の位置を見る。
「敵側に大きな騒ぎは?」
「俺達が見た限りじゃねぇ。だが、張順が見つかった後に何があったかまでは分からん」
呉用が羽扇を閉じた。
「捕らえられたとも、逃げ延びたとも断定出来ませんな」
生死不明――
誰も、その言葉を口にはしなかった。
言わなくても分かっていたからだ。
アタシは李俊を見る。
いつもより表情がない。
怒っている時とも違って、何も出さないようにしている顔だった。
「……李俊」
呼ぶと、こっちを見る。
何を言うかなんて考えていなかった。
「何だ」
「いや……」
こんなところで言葉に詰まるなんて、アタシらしくない。
二娘がいたら絶対あとで分析される。
でも今は、何でもいいから声を掛けたかった。
「ちゃんと食べなさいよ」
李俊が一瞬だけ目を見開いた。
「お前に言われたくねぇ」
「何でよ!」
「飯忘れて突っ込む奴が言うな」
「今日は突っ込んでない!」
朱武が咳払いをした。
呉用は羽扇で口元を隠している。
やめて……
今じゃない。
絶対、今じゃないのに。
それでも李俊の顔から、ほんの少しだけ力が抜けた。
それで十分だった。
夜明けまでは、まだ時間があった。
一路軍が加わったことで、杭州を囲む兵の配置も組み直さなければならない。
朱武と呉用は地図を挟んで話を続け、李俊も水路の状況を伝えていく。
張順の捜索も諦めた訳じゃない。
明るくなれば見えるものが増えるし、敵の動きが落ち着けば、もう一度探せる場所もある。
けれど、戦は待ってくれなかった。
帷幕の外で足音が止まる。
「失礼します!」
伝令が入って来た。
「杭州城側、夜明け前から兵の動きが増えております。西湖側の見張りも、再び増員されました!」
朱武と呉用が同時に地図を見る。
呉用が口を開いた。
「こちらの動きを見ていますな」
「張順だけではない」
朱武の指が杭州城をなぞる。
「一路軍が到着したことも、間もなく知られるでしょう。向こうも次を待っているとは思えません」
幕舎の外へ出ると、東の空はまだ黒かった。
それでも杭州城の方では、松明が次々と動いている。
張順が戻らなくても、杭州の城壁も、そこを守る兵も、水路も何一つ消えてはくれない。
戦だけは、何もなかったように続いていく。
その直後、杭州城の方角から戦鼓が鳴り始めた。
敵も待つつもりはないらしい。
アタシは拳を握る。
胸の奥は、まだ冷たい。
でも――止まっている暇なんて無かった。
孫二娘殿が、にやにやしながら三娘様の背中を見ていました。
「玉楼、聞いたァ? 三娘ォ、李俊に『ちゃんと食べなさいよ』だって」
顧大嫂殿が笑います。
「自分は飯を忘れて突っ込むくせにねぇ」
「だから李俊に即座に返されたんだよォ」
わたくしは少し考えました。
「心配なさっていたのでございましょう」
「そこは分かってるよォ。問題は、出て来た言葉が飯だったこと」
「色気がないねぇ」
「うるさい!」
少し離れた所から、三娘様の声が飛んで参りました。
孫二娘殿が楽しそうに手を振ります。
「三娘ォ、次は『好き』まで行けるといいねェ!」
「何段階飛ばしてんのよ!」
顧大嫂殿が吹き出した、その時でした。
杭州城から、また戦鼓が鳴り始めたのでございます。




