見て戻れ
「張順って、どれくらい潜ってられるの?」
二娘が首を傾げた。
「三娘ォと比べたら、かなり長いんじゃない?」
「何でアタシ基準なの!?」
顧大嫂が笑う。
「アンタ、鎧着たまま水に落ちたら真っ先に沈みそうだねぇ」
「縁起でもないこと言うな!」
「じゃあ泳げるのォ?」
二娘に聞かれて、少し詰まった。
「……普通には」
「その間は何?」
「自己申告の信頼性が急落したねェ」
「心理査定するな!」
顧大嫂が水辺を見る。
「まあ今夜は、泳げる奴に任せときな」
「分かってるわよ」
そう答えた時、水辺から張順の声がした。
「そろそろ行くぞ」
さっきまで笑っていた二人が、同時に黙った。
明日の夜は、思っていたより早く来た。
日が落ちてから、ずっと落ち着かない。
西湖の水面は黒く、杭州城の灯りだけが遠くで揺れている。
昼の間に水軍が調べた範囲では、湧金門へ続く水路そのものに大きな変化はなかったらしい。
だから予定通り、張順が行く。
昨日の軍議で決まったことだと分かっているのに、アタシは何度も水辺の方を見ていた。
「三娘ォ、さっきから十三回くらい見てるよォ」
後ろから二娘に言われて振り返る。
「数えてたの!?」
「十一回目から」
「途中からじゃない!」
二娘は平然と負傷兵の包帯を結び直した。
「不安になると確認行動が増えるのは珍しくないからねェ」
「今それ分析する必要ある?」
「ないけど、三娘ォが分かりやすいから」
横で顧大嫂が荷を運びながら笑う。
「張順より李俊の方を見てる回数の方が多いんじゃないかい?」
「何でそっちまで数えてんのよ!」
「数えてないよ。見りゃ分かる」
二娘が頷いた。
「アタイも同意見」
「多数決で決めるな!」
怒鳴ったところで、水辺から張順の笑い声が聞こえた。
二娘も顧大嫂も、それ以上はからかわなかった。
張順は、もう上衣を脱いでいた。
童威が舟の縄を確かめ、童猛は岸近くの流れを見ている。
李俊は少し離れた場所に立ったまま、杭州城から目を離していなかった。
アタシと玉楼が近付くと、張順がこちらを見た。
「何だ。見送りが増えたな」
「アンタが軽過ぎるから見に来たのよ」
「潜るだけだぞ」
「昨日もそれみたいな顔してたじゃない」
「水ん中で難しい顔しても仕方ねぇだろ」
その言い方が張順らしくて、余計に嫌になる。
玉楼が水面を見る。
「流れはいかがでございますか?」
童威が答えた。
「今は悪くない。風も昨日より弱い」
童猛が湧金門の方へ目を細める。
「見張りは増えてる。昨日より灯りも多い」
「やっぱり警戒されてるじゃない」
アタシが言うと、張順は肩を回した。
「見張りが増えたくらいで水が消える訳じゃねぇ」
「そういう問題じゃないでしょ」
「俺にはそういう問題なんだよ」
言い返せなかった。
水の中なら張順が一番強い。
だから選ばれたし、だからこそ止められない。
昨日から考えても、結局そこへ戻ってくる。
李俊がようやくこちらへ歩いて来た。
張順を見る。
何か言いそうで、すぐには言わなかった。
昨日の軍議でも同じだった。
言いたいことがあるのに、飲み込んだ顔。
張順が笑う。
「何だよ兄弟。まだ心配してんのか?」
「してねぇ」
「してる顔だぞ?」
「うるせぇ」
アタシは思わず李俊を見る。
その返し、アタシの時とほとんど変わらないじゃない。
本人へ言ったら絶対嫌な顔をするから黙っておこう。
張順が水辺へ一歩進んだ時だった。
「張順」
李俊の呼び声に、張順が振り返った。
李俊は、今度は言葉を飲み込まなかった。
「死ぬなよ」
短い。
たったそれだけだった。
でも、童威も童猛も何も言わなくなった。
張順は一瞬だけ目を細め、それからいつものように笑った。
「誰に言ってんだよ」
李俊も笑わない。
「お前にだ」
「分かってるって」
童威が何か言いかけたが、結局その口を閉じた。
童猛も、張順の方を見たまま動かない。
いつもなら、もう一つくらい軽口が飛びそうなのに、今夜は誰も続けなかった。
張順だけが、そんな空気を気にしていないみたいに足元の水を蹴る。
「何だよ。帰って来る前から葬式みてぇな顔すんな」
「誰のせいだと思ってんだ?」
童威がようやく返すと、張順は笑った。
そのやり取りを聞きながら、アタシは李俊を見る。
腕を組んでいるだけなのに、指先だけが妙に強く袖を掴んでいた。
止めたいんだと思う。
でも、止めない。
張順が行くしかないと、一番よく分かっているから。
たぶん、それが仲間を送り出す時の一番嫌なところなんだ。
張順は手を上げると、そのまま水へ入った。
腰まで沈み、もう一歩進む。
最後にこちらを振り返ることもなかった。
水面が大きく揺れたと思った次の瞬間、姿が消えた。
誰も喋らない。
少し離れた場所で小さな波だけが動き、それも暗い水面へ紛れていった。
張順は、本当にいなくなった。
そこから先は、待つしかなかった。
張順は水中を進んだ。
岸から見える灯りは潜るたびに形を失い、水面へ顔を出す時も長くは留まらない。
息を取って城壁の位置を確かめると、すぐにまた沈む。
西湖から湧金門へ近付くにつれ、杭の数も増えていった。
水面から見ればただの暗がりでも、水中では流れが変わる。
張順は手を伸ばし、杭の位置を確かめながら進んだ。
上では見張り兵の足音がする。
声も聞こえた。
だが、水の中まで覗き込む者はいない。
張順は壁際まで寄ると、一度だけ水面へ顔を出した。
湧金門は近いが、思っていたより警戒兵が多い。
張順は灯りの届かない場所を選んで再び潜り、門の内側へ抜けられる場所と、水門の下を通れるかを探った。
無理なら戻る。
そのつもりだったし、李俊にも「見て戻れ」と言われている。
水中で指先が石へ触れる。
壁だ。
張順はそのまま横へ辿ったが、少し先で水の流れが急に変わった。
動きを止めると、上から石が擦れるような音が聞こえ、続いて水面の灯りが増えていく。
張順は身体を杭の影へ寄せた。
見張りの声が近付き、何人かが動いている。
気付かれたのか。
それとも、ただ交替しているだけなのか。
確かめるため、ほんの少し顔を出した。
その瞬間――
頭上で怒声が上がった。
張順はすぐ沈んだ。
水面へ何かが落ちてくる。
石だった。
一つではない。
水の中へ次々と沈み、暗い水底を叩く。
張順は横へ泳ぎながら、戻ると決めた。
門を見る必要はもうない。
警戒されていると分かっただけで十分だ。
だが、来た時より流れが強くなっていた。
張順は杭を避け、岸側へ身体を向ける。
頭上ではまだ兵の声が続いている。
水面へ出れば見つかる。
潜ったまま進む。
息が苦しくなったところで、少し離れた場所へ浮かび上がった。
空気を吸った瞬間、矢が水面へ突き刺さる。
張順はもう一度沈んだ。
夜の水が、すべての音を呑み込んだ。
岸では、時間だけが過ぎていた。
アタシは何度目か分からないくらい杭州城を見た。
「まだ?」
誰に聞いたのか、自分でも分からない。
童威が水面を見ながら答える。
「もう少しかかってもおかしくねぇ」
童猛も頷いた。
「向こうで動けなくなってるだけかもしれねぇ」
李俊はさっきから同じ場所に立ったまま何も言わず、水面を見る目だけが少しずつ鋭くなっていた。
二娘がいつの間にか後ろへ来ていた。
「三娘ォ、座ったら?」
「いい」
「立ってても早く帰って来る訳じゃないよォ」
「分かってる」
「じゃあ座りなァ」
「今は無理」
二娘はアタシの顔を見て、それ以上言わなかった。
代わりに李俊の方を見る。
「予定より遅いの?」
李俊が答える。
「少しな」
その「少し」が、どれくらいなのかは誰も聞かなかった。
城壁の方で灯りが動く。
湧金門の周囲だけ、さっきより増えているように見えた。
童威が立ち上がる。
「兄貴」
「ああ」
李俊も気付いていた。
水門側の兵が増えている。
張順が見つかったのかもしれないが、それでもこちらからは何も出来ない。
名前を呼べば居場所を教える。
舟を出せば目立つ。
待つしかない。
その時間が、やけに長かった。
やがて童猛が言った。
「もう戻っててもいい頃だ」
李俊は答えない。
童威が水辺へ近付く。
「俺が見てくる」
「待て」
李俊が止めた。
「今行けば二人まとめて見つかる」
「じゃあ、どうすんだよ」
童威の声に苛立ちが混じる。
李俊は杭州城を見る。
敵の灯りはまだ水門側に集まっていた。
そのままでは近付けない。
アタシも城壁を見る。
敵の目が全部あっちを向いているなら――
「引き剥がせばいいんでしょ」
李俊がこちらを見た。
「何?」
「西湖側を見てる兵を、別の場所へ動かせばいい」
玉楼がすぐ意味を理解した。
「こちらから攻めるように見せるのでございますね」
「本気で攻める必要はない。騒いで、敵の目だけ取る」
二娘が眉を寄せる。
「三娘ォ、自分から囮になるって言ってない?」
「今回は突っ込まない!」
「その説明が必要な時点で信用がねェ」
「今は真面目な話!」
顧大嫂まで後ろから声を飛ばした。
「十数騎もいりゃ十分だろ。多いと本気で攻める羽目になるよ」
李俊はしばらく黙っていた。
それから、水面を見る。
「敵が動いたら童威と童猛を出す」
「決まりね」
アタシは馬の方へ向かった。
玉楼も当然のように付いて来る。
二娘が後ろから声を投げた。
「三娘ォ!」
振り返る。
「ちゃんと戻って来なァ!」
一瞬だけ、李俊を見る。
こいつも同じ顔をしていた。
アタシは手を上げる。
「分かってる!」
張順が戻らない夜に、今度はアタシ達が杭州城へ近付くことになった。
敵の目を水辺から引き剥がす。
その間に、童威と童猛が張順を探す。
まだ生きているなら――
間に合ううちに。
三娘様が馬へ向かわれると、孫二娘殿が腕を組みました。
「三娘ォ、本当に囮だけだよねェ?」
「そう言ってるでしょ!」
顧大嫂殿も眉を上げます。
「敵が出て来ても追わない?」
「追わない!」
「挑発されてもォ?」
「乗らない!」
「李俊が見てても?」
「それ関係ある!?」
孫二娘殿が頷きました。
「今ので一番反応したねェ」
「心理テストみたいに混ぜるな!」
わたくしは方天画戟を持ち直しました。
「では三娘様、今回は本当に騒ぐだけでございますね?」
三娘様が胸を張ります。
「任せて。ちゃんと戻るから!」
顧大嫂殿が溜息をつきました。
「そこまで言われると逆に不安だねぇ」
そして今夜、わたくし達は杭州城へ向かうのでございます。




