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戻る道は?

「ねえ、髪おかしくない?」

二娘が、じっとアタシを見る。

「三娘ォ、さっきまで煤だらけでも気にしてなかったよねェ」

「今は街に近いから!」

顧大嫂が笑った。

「杭州に近いからじゃなくて、李俊に近いからだろ?」

「違う!」

「じゃあ何で鏡探してんだい?」

「身だしなみ!」

二娘が頷く。

「特定の相手を意識すると自己呈示が強くなるのは――」

「心理学で恋する乙女にするな!」

「まだ恋とは言ってないよォ?」

「誘導尋問!?」

顧大嫂が街道の先を見た。

「まあ、会えば分かるだろ」

「何が!?」

「アンタの顔がさ」

「顔で判定するな!」

その時、玉楼が前方の水路へ目を向けた。

「三娘様、舟が見えて参りました」

杭州へ近付くにつれて、街道の横へ水路が増えていった。

独松関みたいな狭い山道じゃない。

けれど、人の多さがまるで違う。

荷を抱えて逃げる民衆の横を、荷車を押す者や子供の手を引く者が途切れずに歩いている。

岸には、小舟が繋がれたまま放置されていた。

梁山泊軍が進めば、その流れも少しずつ脇へ寄る。

アタシは馬上から、それを黙って見ていた。

独松関を抜けた後なのに、兵達の顔はまだ重い。

疲れているのは分かっている。

それでも杭州まで止まる訳にはいかなかった。

玉楼が前方へ目を向ける。

「水辺が増えて参りましたね」

確かにそうだった。

杭州へ近付くほど、水の匂いが濃くなる。

荷を運ぶ大きな船と、逃げる民を乗せた小舟が狭い水路ですれ違い、岸沿いでは繋がれた船が波に揺れている。

その中で、一隻だけ妙に落ち着いている舟が見えた。

縁へ腰を掛けた男が、こっちを見ている。

見間違える訳がない。

李俊だ。

童威と童猛、それに張順も近くにいる。

水軍の連中は、もう周囲の水路を確かめ始めていた。

李俊はアタシを見つけると、舟の縁から立ち上がった。

「無事か?」

「そっちこそ」

それだけ言うと、李俊は岸へ飛び移った。

何かもう一言くらいあるのかと思ったのに、そのまま真っ直ぐこっちへ来る。

「……何?」

答えはなかった。

腕を引かれたと思った次の瞬間には、身体ごと抱き寄せられていた。

「ちょ――」

声が途中で止まる。

独松関で煙と血の匂いばかり嗅いでいたせいか、知っている腕の感触に身体の力が一気に抜けそうになった。

離れろ、と言えばいい。

人も見てるし、水軍もいる。玉楼までいる。

なのに、手が勝手に李俊の背へ回った。

李俊の腕は、思っていたより強かった。

独松関で何度も刀を握り直した指が、そこで初めて震えているのに気付く。

自分でも嫌になるくらい、安心していた。

こいつが生きている。

目の前にいる。

それを確かめただけなのに、胸の奥へ溜まっていたものが急にほどけていく。

李俊も何も言わない。

ただ、背へ回した腕だけはすぐには緩めなかった。

「……苦しいんだけど?」

「嘘つけ」

「何で分かるのよ?」

「離れようとしてねぇ」

言われて、自分の手がまだ李俊の服を掴んでいることに気付いた。

慌てて離そうとしたら、今度は向こうが少しだけ笑う。

イラつく〜!

でも、離れたくないと思った自分には、もっと腹が立った。

「……遅い」

「何が?」

「合流するのが」

「道が山だったのよ!」

李俊の胸元で言い返したところで、後ろから聞き慣れた声が飛んで来た。

「三娘ォ、抱き合いながら喧嘩するの、かなり器用だねェ」

「二娘!」

振り返ろうとしたら、まだ李俊の腕が離れていない。

二娘は少し離れた場所で腕を組み、楽しそうにこっちを見ていた。

その横で顧大嫂まで笑っている。

「無事だったんだから、好きなだけやらせときゃいいだろ」

「好きなだけって何!?」

玉楼が静かに視線を逸らした。

「わたくしは何も拝見しておりません」

「見てたでしょ!」

ようやく李俊が腕を解いた。

なのに、こいつまで妙に平然としている。

「顔色は悪くねぇな」

「抱き締めて確認する必要あった!?」

二娘が横から口を挟む。

「再会時の身体接触は安心感を高める効果が――」

「分析しなくていい!」

「じゃあ感想だけ。三娘ォ、ものすごく嬉しそうだったよォ」

「それもいらない!」

顧大嫂が笑いながら肩を叩いてきた。

「元気出たなら何でもいいじゃないか」

「雑にまとめないで!」

久しぶりに怒鳴ったら、少しだけ息が楽になった。

たぶん、それが一番腹立つ。

李俊はもう杭州の方へ顔を向けていた。

「デカいぞ、ありゃ」

アタシも遠くの城壁を見る。

杭州城は、高いだけじゃない。

横へ長く延びた城壁が、水辺ごと街を囲い込んでいるように見えた。

近付くほど水路が枝分かれし、橋や岸沿いの道まで絡み合っている。

張順が水面を眺めたまま笑う。

「水が多いだけなら、こっちのもんなんだがな」

童威が岸の幅を確かめる。

「舟を入れるには細い所が多い」

童猛も水路の先を見た。

「下手に入ったら、戻すのが面倒だ」

水軍の連中は、城壁より先に水を見ていた。

アタシには大きな城にしか見えないのに、李俊達は舟がどこまで入れるか、どこで曲がれるか、岸へ上がれる場所があるかを確かめている。

玉楼が言った。

「独松関とは、まるで逆でございますね」

「あそこは狭過ぎたけど、ここは広過ぎるわ」

「広いから楽、という訳でもなさそうでございます」

玉楼の視線は、城壁ではなく水路の分かれ目へ向いていた。

アタシが正面の大きさに目を取られている間に、玉楼は横へ逃げられる道を見ている。

こういう時、やっぱり助かる。

アタシが前を見るなら、玉楼はその外を見る。

言葉にしなくても、その役割はいつの間にか決まっていた。

李俊がこちらを見る。

「中は街だ。広い方が迷う」

笑っていなかった。

杭州までは、もう少ししかない。

それなのに、嫌な感じだけは先にこっちへ来ていた。

夜の幕舎には、湿った空気が溜まっていた。

卓の上には杭州周辺の見取り図が広げられ、西湖から城壁へ延びる線が灯火に照らされている。

盧俊義、朱武、林冲のほか、水路を知る李俊達も呼ばれていた。

アタシと玉楼は少し後ろに立つ。

二娘は負傷兵の手当てがあるから来ていない。

さっきまで人の恋愛を分析していた女が、今頃は誰かの包帯を締め直しているはずだ。

あれで切り替えだけは異様に早い。

朱武が扇を手にしたまま地図へ目を落とした。

「正面から杭州城を攻めれば、長引きます」

誰も反論しなかった。

ここまで来る間に見ただけでも城壁は大きい。

そのうえ周囲には水路が多く、兵を一か所へ集めても動かしにくい。

朱武の扇先が西湖側へ動く。

「そこで、湧金門を内側から開けます」

幕舎の空気が変わった。

アタシは眉を寄せる。

まただ。

湖州でも蘇州でも、梁山泊は夜に入り込み、内側から門を開けてきた。

上手くいった。

だから、また使う。

理屈は分かる。

でも、同じことを何度もやれば、相手だって学ぶ。

「夜半、水から近付きます。水中を進み、湧金門の周囲を探ってください」

朱武の言葉に、張順が肩を揺らした。

「つまり、俺の出番って訳か」

「そうなります」

返事は早かった。

張順は平然としている。

李俊は地図を見たまま動かない。

童威と童猛も、さっきまでの軽い顔ではなかった。

アタシは、思わず口を挟んだ。

「待って。水中からって、どこまで?」

朱武がこちらを見る。

「西湖から湧金門付近までです。門へ近付ける場所を探り、可能なら内側へ入ります」

「可能なら?」

「無理なら戻ってもらいます」

その言葉に、李俊がようやく顔を上げた。

「戻る道は?」

朱武の視線が李俊へ移る。

「同じ水路を戻ることになります」

「敵に見つかった後もか?」

幕舎が静かになった。

李俊は責めるような言い方をしていない。

ただ、それが一番重要だと言っているだけだった。

張順が笑う。

「見つからなきゃいい」

童威がすぐ睨んだ。

「お前は簡単に言い過ぎだ」

「簡単じゃねぇから俺が行くんだろ」

童猛が地図へ身を乗り出した。

「門の内側まで入った後、閉じられたらどうする?」

朱武は少し考えてから答える。

「その場合は門を開けることを優先してください」

一瞬、言葉の意味が頭へ入って来なかった。

優先する。

つまり、戻ることより先に。

アタシの横で、玉楼の指が方天画戟の柄へ触れた。

戦う場面じゃない。

それでも、あの人が何かを堪える時の癖だと分かるようになっていた。

「……また、なの?」

気付いたら口に出ていた。

盧俊義がこちらを見る。

アタシは止めなかった。

「中へ入れる人を先に入れて、門を開けてもらう。開いたら大軍で入る。今まで上手くいったから、今回もってことでしょ?」

朱武は否定しない。

「成功した手を使うこと自体は間違いではありません」

「敵が待ってても?」

「その可能性はあります」

あっさり言われて、余計に嫌になった。

李俊が地図へ視線を戻す。

「杭州は水が多い。逃げ道が多いように見えるが、水門を落とされりゃ逆だ。水の中にいる奴には壁と同じになる」

張順が笑った。

「だから俺が見る」

「見て戻れ」

李俊の返事だけが妙に早かった。

張順が少しだけ目を細める。

「まだ行くって決まっただけだぞ」

「決まったから言ってんだ」

童威が小さく息を吐き、童猛は何も言わなかった。

水軍の連中は、出来るかどうかなんて心配していない。

張順なら出来る。

だからこそ、その先を心配している。

アタシは李俊を見る。

昼間、何も言わずに抱き締めてきた時より、今の方がずっと分かりやすかった。

心配している。

ものすごく。

でも、止められない。

「張順」

朱武が改めて呼んだ。

「今夜は休んでください。潜入は次の夜半とします。それまでに水路と湧金門周辺を、分かる範囲で確認します」

張順が頷く。

「分かった」

軽い返事だった。

その声だけ聞けば、明日の仕事を頼まれたみたいだ。

軍議はそれで終わりじゃなかった。

湧金門が開いた後に誰を先頭へ入れ、兵をどこへ寄せ、水軍をどの位置へ置くかまで話は続いた。

林冲が正面側の動きを確認し、李俊は西湖側から入れる舟の数を見積もる。

玉楼は地図へ目を落としたまま、時折アタシへ小さく場所を示した。

アタシが門を見る。

玉楼は、その門が開いた後の道を見る。

さっき街道で感じたのと同じだった。

二人で見れば、見える範囲が少し増える。

それでも、張順が水の中で見るものまでは分からない。

軍議が終わり、人が幕舎から出ていく。

張順も童威達と一緒に立ち上がった。

その背中へ、李俊が何か言いかけた。

けれど、口を閉じる。

アタシには、それが見えた。

張順は気付いたのか、気付かなかったのか、そのまま幕舎を出ていった。

外から湿った夜風が入り込む。

卓の上では、湧金門を示す印だけが灯火の下に残っていた。

アタシは、その小さな印を見る。

明日の夜。

張順が、そこへ潜る。

軍議の後、孫二娘殿が三娘様へ尋ねました。

「で、李俊は何回『戻れ』って言ったのォ?」

「一回よ!」

顧大嫂殿が笑います。

「一回で十分伝わったんだろ?」

「何が!?」

「心配してますってさ」

三娘様が黙ると、孫二娘殿が頷きました。

「言葉数が少ない人ほど、同じ言葉に意味が乗ることはあるねェ」

「急に真面目に分析するな!」

「じゃあ三娘ォも言っとけば?」

「誰に?」

「張順に」

三娘様は、そこで言葉を止めました。

顧大嫂殿も笑うのをやめます。

明日の夜、張順殿は一人で水へ入ります。

そして李俊殿は、まだ言えなかった言葉を残しておられました。

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