第80話
邪神の気配すら跡形もなく消え去り、離れの庭園には静寂が戻っていた。
月明かりの下で抱き合う二人のもとへ、少し離れた物陰で見守っていたアルフレッドが静かに歩み寄ってきた。
「……終わったのだな」
アルフレッドは深く息を吐き出すと、二人の圧倒的な戦いぶりを思い返すように、感嘆の面持ちで頷いた。
「凄まじい戦いだったよ、ギルバート、エカテリーナさん。……まあ、私の自慢の庭園は跡形もなくめちゃくちゃになってしまったがね」
荒れ果てた庭を前に、どこか肩の力が抜けたような、穏やかな苦笑いを浮かべるアルフレッド。
「……ん……」
「ポコ……?」
エカテリーナが振り返る。
ポコはゆっくりと目を開けると、ぼんやりとエカテリーナを見つめた。
『……カティ……?』
「ポコ……!」
エカテリーナはすぐさま駆け寄り、その小さな身体をそっと抱き上げる。
「よかった……! 本当に、よかったわ……!」
『えへへ……ちょっと、寝すぎちゃった』
「もう……! あなたが目を覚まさなかったら、どうしようかと思ったんだから……!」
『でも……ちゃんと、カティの大切な人を助けられたでしょ?』
「……ええ」
エカテリーナは涙を浮かべながら、ポコを優しく抱きしめた。
「本当にありがとう、ポコ」
『どういたしまして!』
ポコがいつもの笑顔を浮かべる。
その姿を見届けたエカテリーナは、ようやく胸の奥から安堵の息を吐き出した。
* * *
それから数日後。
レイヴン領の、見晴らしの良い丘にある小さな墓地。
そこには、真新しい墓標がひとつ静かに佇んでいた。
ラーシャはその前に一人で立ち、手にしていた一輪の星鐘草を、そっと墓前へ置いた。
「……お父さん」
静かな声が、誰もいない墓地に落ちる。
その墓に眠るのは――バルド。
父親だと名乗ることさえできず、長い間「師」として自分を育ててきた男。
それでも最後の瞬間には、自らの命を差し出してラーシャを生かした。
ラーシャは墓標を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて、その胸元から古びた栞を取り出す。
そこには、押し花にされた星鐘草が一輪、静かに残されていた。
「……私、まだ……どうしたらいいのか、分かりません」
声が震える。
「あなたのことを……父親だと知ったばかりなのに。もう、いなくなってしまうなんて……」
ぽろりと、一粒の涙が頬を伝った。
けれど――涙を拭ったラーシャの瞳には、ほんの少しだけ穏やかな光が宿っていた。
「でも……」
星鐘草の栞を胸元へ抱きしめる。
「あなたが最後に、私を生かしてくれたこと……絶対に忘れません」
ラーシャは墓前に静かに頭を下げた。
「だから……少しだけ、時間をください」
「自分がこれから何をしたいのか……ちゃんと考えてみます」
* * *
激動の事件から数日後。
レイヴン邸の正面玄関前には、旅立ちの準備を整えた人々の姿があった。
「やれやれ、これでやっと自分の領地に帰れるよ。長く屋敷を空けてしまったからな」
肩の荷が下りたように微笑むエカテリーナの父・ロバート。
そして、制服に身を包んだ弟のアランもまた、決意を新たにした表情でエカテリーナたちに向き直った。
「僕も王立高等学院に戻ります。……義兄上、カティ姉さん、本当にお世話になりました」
「気をつけてね、アラン」
「はい!」
元気よく返事をしたアランだったが、ふとギルバートへ向き直る。
「……あ、それと義兄上」
「なんだ?」
「剣の稽古、本当にありがとうございました!」
アランは深々と頭を下げた。
事件のあと、ギルバートは何度もアランの剣を見てくれていた。
最初は力任せに振っていた剣も、少しずつ構えが整い、相手の動きを見る余裕も生まれていた。
「正直……自分では、もっとできると思っていました」
アランは苦笑しながら、自分の手を見つめる。
「でも、義兄上と実際に剣を交えてみたら……全然、届かなくて」
「当然だ」
ギルバートは淡々と答えた。
「お前はまだ学院の学生だ。俺と同じように戦える必要はない」
「……はい」
「だが、お前には伸びしろがある」
ギルバートの言葉に、アランが顔を上げる。
「焦らず鍛えろ。剣は誰かを打ち負かすためだけのものではない。守りたいものがあるなら、そのために強くなればいい」
その言葉に、アランの表情が引き締まった。
「……はい!」
そして、力強く頷く。
「僕、もっと強くなります。いつか……義兄上みたいに、大切な人を守れるように」
その言葉を聞いたギルバートは、ほんのわずかに目を細めた。
「……期待している」
「はい!」
アランは嬉しそうに笑った。
その後、アランはふと、隣に佇むラーシャへと視線を向けた。
その瞳には温かな光が宿っている。
「ラーシャ。君も、本気で王立高等学院で学ぶことを検討してみないか? 君の才能なら、もっと広い世界で力を活かせるはずだ」
「えっ……?」
思いがけない提案に目を丸くしたラーシャは、静かに視線を落とした。
「……ありがとうございます、アラン様」
「でも……」
一度だけ、胸元の星鐘草の栞へ触れる。
「今はまだ……父のことも、これからのことも、ちゃんと気持ちの整理がついていないんです」
「ラーシャ……」
エカテリーナが優しく彼女を見つめる。
「だから……少しだけ、考える時間をください」
「もちろんだよ」
アランは穏やかに頷いた。
「急ぐ必要なんてない。君が決めたときに、いつでも挑戦すればいい」
その言葉に、ラーシャは小さく微笑んだ。
「……はい」
エカテリーナもまた、ラーシャの手を優しく握りしめる。
「学院に行くかどうかは、ラーシャが決めればいいのよ。どんな道を選んだとしても、私は応援するわ」
「……カティ先生」
ラーシャの瞳が、ほんの少し潤んだ。
その隣で、アランも照れくさそうに笑っている。
まだ、父を失った悲しみが消えたわけではない。
それでも――。
憎しみに囚われて生きるのではなく、自分自身の未来を選ぶ。
その一歩を踏み出すための答えを、ラーシャはこれからゆっくりと探していくのだった。




