第77話
溢れ出した記憶は、あまりにも切なく、そして透き通るほど美しい――一滴の「涙」から始まった物語だった。
* * *
数千年前――暗黒の時代。
人々から「生き神」と崇められ、触れることすら許されぬ孤独の檻にいた大聖女セレスティア。
誰とも心を通わせることを許されず、神の道具として生きることを強いられていた彼女の冷えた手を、ただひとり温かく包み込んでくれたのが、護衛騎士レオンだった。
『世界があなたを何と呼ぼうと関係ない。俺の剣と命は、セレスティア様――あなたひとりのためにあります』
誰にも言えない秘密の恋。
戦火の合間、二人は冷たい満月の下で密かに手を取り合い、互いへの愛を誓い合った。
戦いが終わったらどこか静かな場所へ行き、ただの男と女として二人で暮らそう――そう誓い合ったささやかな夢は、邪神との最終決戦で残酷に打ち砕かれたのだった。
「セレスティア……っ、俺の背後に……指一本……触れさせない……っ!!」
邪神が解き放つ無数の黒槍が、月光を切り裂いて降り注ぐ。
レオンは自らの身体を盾にし、幾重もの激痛に身を苛まれながらも、セレスティアの前に立ち塞がり続けた。
鮮血が月光の下で飛び散り、大地を赤く染めていく。
「嫌……嫌よレオン! 私をおいていかないで……っ!」
何度、聖なる力を注いでも――邪神の呪いに侵されたレオンの傷は、決して塞がらなかった。
「泣かないで……セレスティア。俺は……幸せだった。君を守って死ねるなら……これ以上の人生はない……」
ハラハラと舞い散る血の雫とともに、レオンの命の灯火もまた、静かに消えようとしていた。
絶命する間際、血まみれのレオンは最後の力を振り絞り、彼女の指先へ愛おしそうに口づけを落とした。
『生まれ変わったら……今度こそ君を「神」ではなく……俺の妻にする……。だから、待っていて……』
レオンの腕から力が抜け、彼の鼓動が永遠に潰えた瞬間。
セレスティアの心は激痛とともに粉々に砕け散った。
冷たくなったレオンを抱きしめ、セレスティアは月を見上げてポロポロと大粒の涙を流した。
胸を掻き毟るような悲しみと、張り裂けそうな後悔。
どうして自分には、世界を救うほどの力があるのに、たったひとり愛する人の命すら救えないのか。
ポロポロと溢れ出た絶望の涙が、レオンの頬へと一滴こぼれ落ちる。
その瞬間、彼女の溢れ出す魔力と、レオンとの再会を願う切なる祈りを宿した涙は、悲しくも眩い光を放つ美しい結晶――『月光石』へと姿を変えたのだった。
セレスティアには、邪神を倒すことはできなかった。
けれど、自らの命を代償に、その身を永遠に封じることだけはできた。
それは――生命そのものを膨大な魔力へと変え、この肉体を失う禁断の術。
けれど、レオンが生きている限り、彼女はその術を使うことができなかった。
愛する人を残して、自分だけ死ぬ覚悟など……できるはずがなかったからだ。
だが今、その愛する人は、もう彼女の腕の中で冷たくなっている。
「……レオン」
セレスティアは涙を拭った。
――あなたが命を懸けて守ったこの世界を、私も最後まで守る。
そして、決意に満ちた表情で大地へ両手を広げた。
足元から浮かび上がるのは、恐ろしいほどの熱量と光を放ち、圧倒的な存在感を誇る巨大な魔法陣。
『――私のすべてを懸けて、お前を永遠に封じる』
命の輝きそのものを解き放ち、邪神を『石匣』へ封印したあの最期の瞬間。
自分を置いて先立ったレオンへの愛と、再会を願う切なる祈りこそが、数千年の時を超えて今、エカテリーナとギルバートの魂を再び巡り合わせたのだ。
* * *
「……レオン……っ!」
「……セレスティア……!」
満月の下、前世の記憶と溢れる愛を取り戻した二人の瞳から、奇跡のような涙がこぼれ落ちた。




