第75話
バルドが倒れ、ルイーゼたちが去った後のヴェルツの森。
エカテリーナの小屋の近くには、冷たい静寂が降り積もっていた。
ギルバートはふっと周囲の気配を探るように視線を巡らせると、険しい表情で呟いた。
「……バルドが倒れた今、マスターが次に狙うとすれば……っ、父上か!」
「お義父様が……!?」
息を飲んだエカテリーナの傍らで、アランは未だ涙に暮れるラーシャの肩に優しく手を添え、守るように寄り添っている。
ロバートとレイモンドも、緊迫した面持ちで二人の会話を見守っていた。
「レイモンド、お義父上たちとラーシャを連れて、先に安全な屋敷へ戻ってくれ。……ラーシャ、安心するといい。バルドの骸は後ほど必ず手厚く弔うと約束する」
ギルバートの力強い言葉に、ラーシャは涙に濡れた瞳を上げて静かに頷いた。
「アラン、皆を頼んだぞ」
ギルバートは愛馬の手綱を引くと、エカテリーナの腰をすっと抱き上げ、鞍の上へと乗せた。
続いて自身も跳び乗り、後ろから彼女を包み込むようにしっかりと手綱を握りしめる。
「いくぞ、カティ! 落ちないように掴まっていろ!」
「はいっ……! あの、バート……っ、すごく密着していて、ちょっと恥ずかしいわ……」
背中から伝わるギルバートの力強い体温と、耳元で響く低い声に、エカテリーナはほんのり頬を染めた。
こんな緊急事態でありながらも、妻を愛おしそうに腕の中に包み込むギルバートの腕には確かな情愛が込められている。
馬は風を切り、アルフレッドの待つ離れへと疾走する。
しかし、レイヴン領の敷地へと近づくにつれ、二人の表情から甘い空気は削ぎ落とされていった。
先ほどまでの晴れやかな青空が、レイヴン邸の上空を中心に、みるみるうちに泥のような漆黒の闇へと染まりつつあったのだ。
「あれは……何かしら……!?」
「……胸騒ぎがする。急ぐぞ!」
――そして、二人が駆けつけた時には、すべてが手遅れとなっていた。
* * *
離れの庭園で『石匣』から溢れ出した漆黒の影――それこそが、数千年前、世界を滅びの淵まで追い詰め、大聖女によって封印された古代の『邪神』だった。
黒い霧は意思を持つ蛇のようにうねり、狂喜乱舞するゼノヴィアの全身にまとわりつく。
「ハハハハッ! 見ろ、この圧倒的な力を! 私は世界を統べる神となったのだ!!」
狂ったように高笑いを上げるゼノヴィア。
しかし次の瞬間、その笑顔が引きつった。
黒い霧が皮膚を突き破り、ゼノヴィアの体内へと容赦なく侵入していったのだ。
「ぐっ……!? な、なんだこれは……っ!? 体が……熱い……やめろ、私の体だぞ! 私に従えぇぇぇっ!!」
「――ククク。実に醜く、歪んだ憎悪に満ちた極上の器だ」
ゼノヴィアの口から出たのは、彼自身のものではない、地底から響くような地鳴りのごとき禍々しい声だった。
ゼノヴィアの自我は一瞬で内側から喰らい尽くされ、その肉体は内側から黒い呪いによって作り替えられていく。
背からは漆黒の翼が生え伸び、瞳は邪悪な赤紫に染まり、全身から世界を腐敗させるほどの漆黒の瘴気が放たれた。
「な……なんという禍々しい気配だ……っ!?」
さきほどまで怒りで殺気立っていたアルフレッドすらも、あまりの圧迫感に息を呑み、思わず足を止めた。
そこへ――馬を走らせ駆けつけたギルバートとエカテリーナが、激しい足音とともに飛び込んできた。
「父上……っ!?」
「お義父様……っ!」
異形へと変貌を遂げたゼノヴィア――いや、その肉体を器として現世に蘇った『邪神』は、ゆっくりと首を巡らせる。
その邪悪な瞳がエカテリーナを捉えた瞬間、ドッ……と天地を揺るがすほどの激しい殺意が放たれた。
「……オオオオオオッ!! 見つけたぞ……見つけたぞ、大聖女ぉぉぉっ!!」
邪神の怨念が、ゼノヴィアの口を借りて重々しく響き渡る。
「数千年前……! 我をこの忌々しい『石匣』に封じ込め、野望を砕いたあの忌々しい女の魂……! 幾年を経ようと、その魂の輝きを見誤るものかぁぁっ!」
「っ……!? カティ、下がれ!」
ギルバートが一瞬で剣を抜き、エカテリーナを庇うように立ち塞がる。
その時、エカテリーナの薬指に嵌められた指輪――そこに鎮座する「月光石」が、太陽のごとく眩い光を放ち始めた。
(……あたたかい……。でも、切なくて……苦しい……)




