第73話
静まり返った戦場。
倒れたバルドに駆け寄り、その体を抱きしめるラーシャの絶望に満ちた泣き声だけが、冷たい風に混ざって虚しく響いていた。
エカテリーナは、ただ黙ってその光景を見つめていた。
バルドが最後に語った、ラーシャの母親への想い。
自分の娘だと名乗ることさえできず、それでも傍で育ててきた、不器用な父親の愛。
そして――その愛を知ったラーシャが、今、父親の亡骸を抱きしめて泣いている。
胸の奥が、締めつけられるように痛かった。
その時――草むらの奥から、カササ……と不自然で慌ただしい足音が聞こえた。
物陰に隠れ、事態の推移をうかがっていたのは、かつての継母ルイーゼ、そして義妹のシャルロッテとソフィの三人だった。
バルドが倒れ、後ろ盾が完全に潰えたことを悟り、顔を蒼白にして逃げ出そうとしていたのだ。
「……おい。どこへ行く?」
ギルバートの底冷えするような低い声が、逃げ出そうとした三人の背中に突き刺さる。
ビクッと体を硬直させ、恐る恐る振り返る三人。しかし、その行く手を遮ったのはギルバートだけではなかった。
冷たくなったバルドの傍らから、静かに歩み出て三人の前に立ち塞がった人物――エカテリーナだった。
その瞳には、かつて見せたことのない、純粋で苛烈な「怒り」の炎が静かに揺らめいている。
「な、何よ……エカテリーナ……っ!」
ルイーゼが怯えを隠すように叫んだ、その瞬間。
エカテリーナの激しい感情の高ぶりに応えるかのように、天と地が大きく鳴動した。
ゴオオオッ……と地響きが轟き、先ほどまで静まり返っていた森の空気が一変する。
突如として上空を激しい暗雲が覆い尽くし、世界が昼から夜へと塗り替えられたかのように薄暗くなった。
バリバリと鼓膜を破らんばかりの雷鳴が轟き、稲妻が紫紺の空を狂おしく切り裂く。
「……っ!? カティ……先生……!?」
実の父親を失い涙に暮れていたラーシャですら、ただ事ではない気配にハッと顔を上げた。バルドの遺体を抱きしめたまま、信じられないものを見る眼差しでエカテリーナの背中を見上げる。
(これは……一体……!?)
幾多の死線を潜り抜けてきたギルバートすらも、その場を完全に支配した圧倒的な神聖なる威圧感に、呼吸を忘れ、唖然として立ち尽くすことしかできない。
目の前にいるのは、いつもの優しく可憐な妻ではない。
数千年前、暗黒の時代に世界を滅びから救ったと謳われる「伝説の大聖女」――その意志と神威そのものが降臨したかのような、不可侵の威厳がそこにあった。
エカテリーナの双眸が眩いばかりの金色の光を放ち、冷ややかに三人を見下ろす。
追い詰められたルイーゼは、その尋常ならざる神気に生きた心地を失い、恐怖のあまり狂ったように叫んだ。
「ひっ……化け物! 化け物よっ! 調子に乗らないでエカテリーナ! お前なんか、私たちの足元で泥にまみれて世話をしてた頃が本当の姿でしょうが! 下働きがお似合いのくせに……っ!」
「そ、そうよ! お姉様なんて、ただの雑用係だったじゃない……っ!」
シャルロッテとソフィも、恐怖を打ち消そうと口々に醜い暴言を吐き捨て、必死に過去の「格付け」にしがみつこうとする。
しかし、大聖女の威光を纏ったエカテリーナの心には、かすかな揺らぎすら生じなかった。ただ哀れみと冷徹な激怒を宿した瞳で、その見苦しい足掻きを見つめる。
「――まだそのような虚妄を口にするか、愚かな者共よ」
その声は重なり合う神秘的な聖なる残響を伴い、世界そのものが宣告するように重々しく響き渡った。いつもの柔らかい話し方とは完全に異なっている。
「なぜ……あなた達はそのように人を恨み、虐げ、見下すことしかできぬのだ。与えられた愛に気づかず、他者を貶めることでしか己の価値を証明できぬ哀れな魂よ。その濁った醜悪な心で、これ以上この世界を毒することは許さぬ」
エカテリーナが静かに右手を天へと掲げると、暗雲を叩き割るようにして、幾重もの眩い聖光の柱が降り注いだ。
「――罪深き魂に、慈悲なる浄化を!」
天地を貫く眩い光の奔流が、悲鳴を上げる三人の一帯を完全に包み込む。
「きゃああああああっ!」
「嫌ぁぁぁっ!」
引きつった叫び声を上げるルイーゼたち。
しかしその光は、肉体を傷つける攻撃ではなく、彼女たちの深層心理にこびりついた「悪意」「嫉妬」「呪い」のすべてを包み込み、根底から洗い流していく神聖な光だった。
光が収まり、暗雲がさーっと引き裂かれて温かな日差しが戻ると、そこにはぽかんとした表情で突っ立っている三人がいた。
「あれ……? 私、なんでこんなところにいるのかしら……?」
「お母様……ここどこ? 私たち、何をしてたんだっけ……?」
悪意も、憎しみも失った三人は、お互いの顔を見合わせながら不思議そうに首を傾げると、幼子のようにふらふらと森の奥へ走り去っていった。
もう二度と、誰かを傷つけることのない存在となって。
* * *
恐ろしいほどの静寂が戻った。
エカテリーナから放たれていた絶大な圧迫感が、スーッと霧が晴れるように消えていく。
「……ふぅ」
エカテリーナが小さく息を吐き、パチパチと瞬きをした。
次の瞬間、瞳から神聖な光が消え、いつもの柔らかで可憐な表情へと戻る。
「……あら? バート……? 私、今どうしたのかしら? なんだか急に頭がクラクラしてしまって……」
首を傾げて、心底不思議そうにギルバートを見上げるエカテリーナ。
あまりのギャップに、ギルバートは緊張の糸が切れたようにふっと息を漏らすと、愛おしさと安堵に満ちた表情で妻を引き寄せ、その細い肩をぎゅっと強く抱きしめた。
「……ああ、カティ。お前が無事で……本当に良かった」
驚くエカテリーナの額に愛おしそうにそっと口づけを落とすと、ギルバートは二度と離さないとばかりに、彼女の小さな体を腕の中で大切に抱きしめ続けるのだった。




