第72話
鬱蒼とした森の木々が途切れ、エカテリーナの小屋のすぐそば。
聖なる気がほのかに漂うその開けた場所で、バルドは冷ややかな瞳で三人を出迎えた。
「……ラーシャか」
一瞬だけ、そのフードの奥でバルドの瞳が大きく揺れた。しかし、彼はすぐにその動揺を冷酷な仮面の下へと押し隠す。
「そこをどけ、ラーシャ。……私はその聖女と聖騎士をここで始末しなければならない」
「いいえ、退きません……! バルド様、もうこんなことはやめてください!」
「愚かな……。恩を忘れ、敵に寝返ったお前に私を止めることなどできん」
「いいえ、止めます! カティ先生やレイヴン侯爵様が……私に『温かい居場所』をくれたから! 私はもう、過去の憎悪や呪いに囚われて生きたりしません!」
ラーシャの瞳には、かつてスラムで泥にまみれていた頃の絶望の色は、微塵もなかった。
次の瞬間、ラーシャの全身から凄まじい密度の魔力が吹き荒れた。
彼女の手元に展開されたのは、幾重にも重なる超高密度の複雑な多重魔法陣。一瞬で高度な魔導を組み上げるその手腕は、まさに天性の才能そのものだった。
「なっ……これほどの魔導を……!?」
ギルバートが息を呑む。バルドもまた、目の前の少女が秘めていた真の才能に圧倒されていた。
ギルバートが剣を抜き、エカテリーナとともに前へ出ようとする。
「ラーシャ、加勢する……!」
「二人とも、手を出さないでくださいっ!!」
ラーシャの鋭く凛とした制止の声が森に響き渡った。
「これは……私とバルド様の決着なんです。私に、戦わせてください……!」
背中で語る少女の圧倒的な気迫と覚悟に、ギルバートとエカテリーナは息を呑み、足止めせざるを得なかった。
「……くっ、生意気な……!」
バルドが禍々しい闇の呪詛を解き放つ。
空間を切り裂くような凶悪な魔力の波に対し、ラーシャは一切動じることなく魔法陣を組み替えた。
空中を疾走するように跳躍したラーシャは、バルドの放つ攻撃の軌道を完璧に見切り、最小限の動きで回避しながら急接近する。そのスピードと精度は、熟練の魔導師すら凌駕していた。
(……ああ。強くなったな、ラーシャ……)
鋭い魔術の衝突が森を揺らす。
死闘の末、疾風のごとく肉薄したラーシャの放った渾身の閃光が、バルドの胸を深く貫いた。
それは本来なら防げたはずの一撃――バルドが土壇場で自ら防御を解き、あえてその攻撃を受け入れたのだ。
「っ……がはっ……!」
血を吐いて倒れ込むバルドに、ラーシャは驚愕して駆け寄る。
「バルド様……!? なぜ、避けないで……っ!」
倒れたバルドは、荒い息をつきながら、どこか愛おしそうにラーシャを見上げた。
「……ふっ、顔つきまで……お前は、お母さんにそっくりだな……」
「え……? お母さん……?」
バルドは震える手で胸元に手を伸ばし、一枚の古びた栞を取り出した。
そこに押し花として挟まれていたのは、野に咲く小さな可憐な花――『星鐘草』だった。
「それは……! お母さんが大好きだった花……っ! なぜ、バルド様が……」
ラーシャの言葉に、バルドは儚く目を細めた。
* * *
「……幼いお前をスラムで見つけた時、すぐに分かった。……私が拾い上げたのは、弟子としてではない。……私と、あいつの血を引く……たった一人の娘だったからだ……」
そう呟いたバルドの脳裏に、走馬灯のように過去の記憶が溢れ出していた。
貧しい家に生まれ、魔導の才能ゆえに親に売られた幼少期。引き取られた貴族の家では、我が子とは明確に差別され、粗末な飯と服しか与えられなかった。それでも衣食住への感謝から純粋に尽くしていたが、やらされていたのは他の貴族へのゆすりや脅迫といった汚れ仕事ばかり。
(誰も私を愛してなどいなかった。単なる便利な道具だったのだ……)
バルドは、自力で掴み取った王立高等学院の特待生合格を機に、その家と完全に縁を切った。もう二度と誰も信じず、一人で生きていくと心に誓って。
しかし、実力主義を掲げる最高峰の学院ですら、現実は何も変わらなかった。
優秀な成績を収めても、讃えられ優遇されるのは血統と財力を持つ裕福な貴族の生徒ばかり。どれほど血の滲む努力を重ねても、『持たざる者』である自分はどこまでも軽んじられ、不当な扱いに甘んじるしかなかった。世の中の理不尽さと不条理さに、バルドの心は日ごとに黒く腐り落ちていった。
だが、卒業を控えた頃、一人の先輩――ゼノヴィアが近づいてきた。
『この世界の不条理に怒っているんだろう? お前からは、煮えるような恨みと憎悪の匂いがする』
不敵に笑う男は、やがて自らを『マスター』と名乗り始めた。
マスターの悲願は、古代の『石匣』を開放し、自分たちを追い詰めたこの醜い世界を破滅させること。そしてマスターは、人間の負の感情を魔導によって強力な『呪詛』へ昇華させる技術を完成させていた。
『持たざる者』として奪われ続けてきたバルドは、その野望に共鳴した。
世界中を巡り、マスターが見つけ出した『激しい憎悪を持つ者』をスカウトしては、その恨みを呪いに変えて解き放つ。虐げてきた『持つ者』どもが呪いに悶え苦しむ様を見るのは、至高の快楽だった。
――あの日、中央の砂漠の国で、あいつに出会うまでは。
街の悪党に絡まれていた、紫の髪と澄んだ瞳を持つ美しい女性。理由も分からず思わず助けに入ったバルドは、いつしか彼女と言葉を交わし、生まれて初めて誰かを愛する喜びを知った。闇の中で生きてきた人生に、初めて差し込んだ眩い光だった。
『私がどうして、この星鐘草が好きか分かる? 花言葉がね、"感謝"だからよ。……どれほど辛いことや悲しいことがあっても、誰かを恨むより、温かい愛を持って生きていきたいの。あなたにも……そんな風に心穏やかに過ごしてほしいわ』
愛おしそうに花を抱く彼女の慈愛に満ちた笑顔に、世界を恨むことしか知らなかったバルドの心は溶かされていった。初めて知る温もりと、生まれて初めての恋。こんな自分でも人を愛し、誰かと生きていけるのかもしれないと、闇の中で生きてきた人生に初めて眩い光が差し込んだ瞬間だった。
だが――泥沼の悪夢は、逃げ出すことを許さなかった。
『ククク……お互い、これまでどれだけの人間を呪い殺してきたと思っている? その薄汚い血塗られた正体を、お前の愛する女にバラされたくはなかろう?』
追いかけてきたマスターの冷酷な脅迫。愛した女性に自分の醜い正体を知られる恐怖と、彼女まで害されるかもしれない絶望に、バルドは身を引くしかなかった。愛する彼女を守るため、そして己の血塗られた過去から逃げるように、バルドは失意のままその地を去ったのだった。
――それから、約十年の歳月が流れた。
マスターの目から隠れるようにして再びあの砂漠の街を訪れたバルドは、胸を焦がす思いで彼女の家を訪ねた。
だが、そこで突きつけられたのは残酷な現実だった。彼女は数年前に病でこの世を去っており、幼い子供が残されたはずだという。
バルドは狂ったように街中を探し回った。そして泥と埃にまみれたスラムの路地裏で、ついに一人の少女を見つけ出したのだ。
寒さと飢えに小さく震えながらも、母親譲りの澄んだ大きな瞳で自分を見上げてくる少女――ラーシャを。
(一目で分かった。私と、あいつの血を引く……たった一人の娘だと)
呪いと憎悪の道に足を踏み入れていた自分に、父親と名乗る資格などない。だからこそ弟子として傍に置き、不器用ながらも手元で育ててきたのだ。
(……名乗れなくて……すまなかったな、ラーシャ……)
* * *
「……っ!? バルド様が……私の、本当のお父さん……?」
溢れ出る涙を止められないラーシャに、バルドはゆっくりと首を振り、残された力を振り絞って静かに語りかけた。
「……マスターの野望は、あと一歩のところまで来ている……。最後に、最も強い呪いの感情を持つ者の呪詛が成功すれば……あの『石匣』が開いてしまう……」
血の混じった息を吐きながら、バルドは天を仰いだ。
「私自身……持たざる者を虐げる、こんな不条理な世界など滅びてしまえばいいとずっと願っていた。……だが……お前が今、その聖女たちの傍らで幸せに笑えているのなら……こんな世界も、それほど悪くはなかったのかもしれんな……。……人を憎むことばかりに……囚われてきた私だったが……」
言葉が途切れ、バルドの手から静かに力が抜け落ちる。
星鐘草の栞を胸に抱きしめたまま――かつて憎悪に生きた男は、静かにその瞳を閉じるのだった。




